「……進藤、打とうか」
唐突なアキラの言葉に、ヒカルは伏せていた瞳を向けて眉を顰める。
「塔矢………さっき罰当たりとか言ってなかったか?おまえ」
「ここには囲碁の神様がいるんだろう?ならここで打ってボクたちの碁を奉納すれば喜んで貰えるさ」
「スッゲーこじつけだな、おい」
「キミだって以前ここで一人で打っていたじゃないか。それとも相手がボクでは不満だとでも?」
「……………ううん」
ヒカルはゆるゆると首を振って、ひどく嬉しそうな笑みを浮かべた。その笑顔が余りに綺麗で、アキラは声を失って見惚れてしまう。
月のように儚く優しくて、太陽のように眩しい微笑だった。
(前は佐為と打って、今度は塔矢とか……神様も喜んでくれるかもな…)
二年前にこの場所でヒカルと打っていたのは佐為だった。去年は対局などもあり、夏祭りに来ることはできなかったけれど、時折ふとこの神社
に来たくなる。もしかしたら、あのお蔵とここが少し雰囲気が似ているからかもしれない。
アキラが出してきた碁盤と碁石を神殿の縁側に置いて、対面に正座して背筋を伸ばした。
「じゃあ、ボクがニギるよ」
盤面に手で白石を被せてアキラが置くと、ヒカルは黒石を二つ置く。白石は全部で八つ――偶数だ。
「オレが先番だな」
ヒカルの言葉をきっかけにしたように、対局時の緊張感が周囲に流れる。そこに居るのはつい先刻まで夏祭りを楽しんでいた少年達ではなく、
一人の棋士であり牙を剥いた虎と竜であった。棋士として彼らは鋭い目線で見詰めあい、どちらからともなく頭を下げる。
「お願いします」
ヒカルはひんやりとした碁石を掴み、盤上に澄んだ音を響かせて放った。
第一手目は右上スミ小目。
盤面を睨むアキラの瞳に炯々とした輝きが宿り、ヒカルの一手に応えて白石を打ってくる。
返すアキラの二手目は4の四――星。このごくありふれた二手から、二人の激闘の火蓋は切って落とされた。
激しく熱く、時に冷たく静かに、盤上の戦いは熾烈極まりない様相を呈する。対局時計がなくても、二人の打つ一手は早い。まるで対局が待
ちきれないとでもいうような早碁である。暇さえあれば碁会所で顔を合わせ、検討と対局を行うようになって半年以上になるというのに、彼らの
碁が早碁になるのはさして珍しいことではない。打てなかった間の飢えを満たすかのように、貪るように打ち合う。
アキラが白石を放てば、間髪入れずにヒカルが黒石を打ち込む。ヒカルが猛然と噛みついていけば、アキラが迎え撃ってねじ伏せようとす
る。一進一退の攻防を繰り返し、決して譲る気配はない。
勝利を互いからもぎ取るために、戦いの苛烈さはいや増すばかりだ。
いつのまにか始まった、花火の打ち上げにも二人は全く気付かない。盤面と互いにのみ視線を集中させるだけだ。打ち上げられた花火が
夜空で巨大な花を咲かせても、雷鳴のような轟きを残して消えていっても、彼らの意識が盤面から外されることはない。
真っ黒な空のキャンパスを華麗に彩る花火の華やかさとは裏腹に、静謐に粛々と黒と白の石が盤を埋めていく。しかし二人の戦いは静か
に見えるだけで、内容は激烈な攻防の真っ只中だ。宇宙を創世する二人の神が覇権を争うように、星を、銀河を形成していく。
凄まじい戦いは一時の休戦を得たように静かになったところで、ふとヒカルの手が止まった。扇子を口元に当てて半眼に瞼を伏せる。
盤上を見詰めて微動だにせぬまま、数分が経過した。
この間も、彼らの脳裏では何百、何千、何万という手が構成され、ヨミあっているのだろう。
花火の光がヒカルの瞳に流星のような煌きを与え、アキラの端整な面を明るく照らし出した。
ゆっくりと扇子を脇に置くと、ヒカルは盤上にもう一つの星を作り上げる。この瞬間、アキラの顔色がほんの僅かに変わった。表情にこそ
出ていないものの、掌から血が滲みそうになるほど強く拳を握りこんでいる。
瞳を眇めると、ヒカルの顔を鋭い視線で射抜いたアキラは、流れるような所作で白石を掴んだ。そして怯むことなく新しい星を盤面に創造
する。この一手をきっかけに、静かだった盤上の戦いは再び激しいしのぎの削り合いを始めた。盤を黒と白が埋めるごとに、確実に終りは
近付いてくる。二人の間では既に終局図は描かれていた。
地鳴りのような音と共に金色の光が二人の髪に降り注いで、大きく広がった宇宙を照らし出す。
扇子を固く握り締めて盤面を睨み捨えていたヒカルは、強く引き結んだ唇から息を吐くと、小さく頭を垂れた。
「……負けました」
「ありがとうございました」
アキラも応えて一礼すると、初めて気付いたように上空を見上げる。夜空には大輪の花が咲き誇っていた。いつ始まったのかも気付か
なかったことに、小さく苦笑を零す。
「花火大会が始まっているね。検討はボクの家でしないか?両親は居ないから気兼ねなく泊まっていけばいいし」
微笑んで検討を誘ってくるアキラに、ヒカルは少し考えたもののすぐに頷いた。
「うーん……じゃあそうするか。帰りにじいちゃんとこ寄って、着替えとってこねぇとな。おまえ送れよ」
「勿論そのつもりだとも」
お互いに納得できて満足のいく対局だったのか、アキラとヒカルの声はどことなく弾んでいる。ジャラジャラと音を立てて碁石を片付けて
元の場所に戻すと、本殿の板敷きの階段に並んで腰を下ろした。
「なあなあ、碁の神様…オレ達の一局に満足したかな?」
「どうだろう?たった一局では不満かもしれないよ。もっと沢山捧げないと無理なんじゃないか?」
「……じゃあさ、来年も再来年も、毎年ここで打とうぜ」
「うん、そうだね」
ヒカルの提案にアキラも快く頷き、互いに笑みを向け合った。
その姿は仲の良い友人同士に見えながらも、長い年月を連れ添った恋人同士や夫婦のようでもあり、また虎と竜が威嚇しあっているよう
にも見える。そして棋士である二人が挑戦的に見合っている雰囲気をも醸し出していた。アキラもヒカルも互いに想いを寄せ合いながらも、
碁という勝負の世界では互いに絶対に敗れたくない相手だと感じている。それが小さなやりとりの中でも、こんな風に滲み出てきているの
かもしれない。誰にも負けたくないから強くなる。そんな事はヒカルとアキラにとっては当然であり、当り前のことである。
高段者でも、海外棋士でも、強い相手ならばいくらでもいる。彼らに打ち勝っていかねば前へは進めない。
だが、眼の前にいる相手と打つ碁は全くの別物だった。自分達が互いに強くなるためには多くの者と打ち、より高みへと昇るための糧とし
て経験を積まなければならない。しかし究極的には、互いでなければ意味がないのである。
口に出さなくても、二人は盤上で全ての力を出し切り、当然のように理解しあっていた。
例え負けても未来に繋がる碁を打つために。
一際大きな音と共に広がる花火に、アキラとヒカルは同時に視線を外して見上げた。
綺麗で儚い、一瞬の光の花。夜空の星のように恒久的に輝くのではなく、その命は短く刹那的だ。それ故に、鮮烈に強く印象に残る。
だからこそ、人々は毎年のように花火を見るのかもしれない。
花火の輝きと満月や星の明かりでそこそこ明るいといっても、人為的な光が全くない境内はとても暗い。
それだけに、花火を見たり天体観測をしたりするのには非常に適していたが、二人以外に人影はなかった。神社から少し離れた場所で
は、花火見物と夜店客の喧騒で、きっと賑やかだろう。ここだけが、まるで忘れられたように静かで別の空間のようだった。
玉込めで花火の音と光が止まると、碁石の音すらしなくなった神社には静寂が満ちる。
風で揺れる梢と落葉が舞い踊る軽い擦過恩音と、静けさに思い出したように鳴きだす虫の声がするだけだった。
花火が尾を引いて上がり、夜空に巨大な菊を咲かせる。様々に色を変えて散りゆく様は実に美しく見応えがあった。
アキラは打ち上げられる花火に照らされるヒカルの横顔を、食い入るように見詰めた。
前髪の金髪が光の中で一際輝いて、色素の薄い砂色の瞳が花火に共鳴するように次々と塗り変わっていく。
綺麗だった。花火よりも、夜空の月よりも、アキラにとってヒカルはどんな存在よりも綺麗に輝いて見えた。
「……進…藤……」
自分自身、気付かないうちにヒカルに呼びかけていた。花火の音に掻き消されてしまいそうなか細い声であったにも関わらず、ヒカルは
砂浜の時と同じようにすぐに身体ごと視線をむけてくる。間近にヒカルの整った顔があった。手を伸ばせばすぐそこに。
花火に彩られて唇が赤く色付き、清廉な瞳を星のように輝かせて、アキラを見詰めてくる。無意識に手が伸びていた。そっと両手で頬を
包み込んでも、抵抗もせずにただアキラだけを瞳に映している。その眼にまるで吸い寄せられるように、アキラはヒカルに唇を重ねていた。
掌から伝わる滑らかな頬の手触りと心地よい体温。触れた唇の柔らかさと甘い微かな 吐息に、眩暈すら覚えそうな触れ合う感触。
微かな息遣いの持つ現実感とは裏腹に、閉じた瞼の奥に瞬く花火の光も、雷鳴のような炸裂音も、遠い世界の出来事のようだった。
唐突なアキラの行動に大きな瞳を零れんばかりに見開いて、身を強張らせているヒカルの様子にもアキラは気付かなかった。ヒカルの
拳が固く握り締められ、微かに震えていたことにも。触れ合っていた時間は決して長くなかったに違いない。
しかしアキラにとっては、永遠とも思える長い時間のように感じられた。ずっとこうしていたいと思っていた。
いつ会っても、どこに居ても、何度でも強い想いを抱く。ヒカルといつまでも一緒に居たいと。名残惜しく感じながら口唇を離すと、閉じて
いた瞳をゆっくりと開いたヒカルと眼が合った。その刹那、アキラの腹部から鈍い音が響き、続いて強烈な痛みが走った。
「――――――――っ!!」
多少は鍛えている自覚のあるアキラですら、呻き声すら出せずに蹲る。それほど情け容赦のない一撃だった。
真横で青い浴衣が揺れるのを俯いた視界の隅で捉えながら、ヒカルが立ち上がった気配を他人事のようにぼんやりと認める。警戒など
一切していなかっただけに効いた。肝臓を突き上げてくるような悶絶ものの鋭い衝撃に、一瞬意識が刈り取られてしまいそうになったが、
その次には痛みで反対に意識が鮮明になる。あんな細い腕でここまで身体に重く響く、威力のある拳を繰り出すとは、アキラは信じられ
ずに驚愕する。しかも、大人しやかな浴衣姿でだ。誰でもこんな攻撃的なお返しは想定しない。
これだけ力強い拳を放てるのも、伊達にボクシングジムに通っていないということだろう。
「塔矢……おまえなぁ……。オレにこんな事する前に、先に言うべきことがあるんじゃねぇのか!?」
拳を震わせて怒鳴りつけてくるヒカルを、アキラは痛む腹を押さえながら見上げる。今まで見たことがないくらい、ヒカルは怒りに瞳を燃
え立たせていた。それも当然だ。いきなり同性の男にキスされれば、誰だって怒る。
自分でもどうしてこんな行動をとったのか分からない。ただヒカルが綺麗だと思って見惚れていたら、唇を重ねていたのである。
だがヒカルが怒っているのはそんな理由ではない。想いも告げずに不躾な行動に出たのに腹が立ったのだ。
何の前触れもない突然の口付けは、ヒカルの気持ちなど最初から無視しているようにすら感じた。
「………………」
咎めるようなヒカルの視線を感じてアキラは口を開きかけたが、眼を逸らしてすぐに口を噤んでしまう。二人の間にある気まずい沈黙と
は裏腹に、花火はこれから迎えるクライマックスに向けてどんどん打ち上げられ、夜空を明るく照らし出していた。
「……すまない………」
やっと言葉を発したかと思うと、何も言わなかったばかりか謝ってきたアキラに、ヒカルは一気に眦を吊り上げた。黙っているよりも尚
悪い行動である。まるでヒカルとキスしたことが最初から間違いだったとでもいうように、こんな風に謝ってくるとは、とてもではないが許
せるものではない。躊躇いもなく口付けてきたくせに、どこまでこの少年は迷い続けるつもりなのだろう。
ここまでしたのなら、謝る前に一言告げろというのだ。無理矢理引き起こして、もう一発殴ってやろうかとも思ったが、理性を総動員し
て自分を抑える。碁になるとあんなに強気で傲慢とすらいえる台詞をぽんぽん飛ばすくせに、いざこういう時になると途端に口が重くな
る。盤上で勝利をもぎ取る強引な攻めも、思い切りのよさも、どこへやったのか訊きたいほどだ。
自分からとっとと言った方が遥かに展開が早いに違いない。しかし、こうなったからには意地でもヒカルからアキラに告げる気はなか
った。アキラが何も言わずに済ませるつもりなら、金輪際口も聞いてやらない。
「おまえ…いい加減にしないと、いくらオレでも怒るぞ。言いたいことがあるならさっさと言いやがれっ!!」
本当は見捨てるぞ、とも言ってやろうかと思ったが、元から見捨てるつもりはないから言わずにおいた。
このままでいつまでもうじうじ しているつもりなら切り捨てることも考えるかもしれないが、それはまだ分からないのだから。
それにヒカルは例え言葉のあやでも、相手を傷つけるような考えなしな台詞を言わないように、自分を戒めている。以前に佐為の悲痛
な叫びを本気でとらず、永遠に彼の想いを聞き逃してしまった贖罪として、ヒカルの内にある密かな決意だった。だから言わずに堪えて
我慢したし、殴ってやりたい気持ちも抑えた。
「…もう怒っているくせに……」
「あぁっ!?」
ぼそりと事実を指摘してまぜっ返してきたアキラの声を聞きとがめ、ヒカルは射殺しかねないような恐ろしい一瞥をくれてやる。対局中
でもここまで物凄い眼で睨みつけたことはない。余計なことを指摘する暇があったら、言うべき台詞をさっさと口にすればいいのだ。
苛々も頂点に達して、アキラを睨んだままヒカルは厳しい声音で憤然と言い放った。
「塔矢アキラの卑怯者」
これにはさしものアキラも瞳にも怒りが宿る。階段に手をついていた体勢だったが、下から対局者も逃げ出すような白刃の煌きにも似
た剣呑な目線でヒカルを斬りつけてきた。
「……どういう意味だ?」
「言葉通りの意味だぜ。卑怯者を卑怯者と言って何が悪いんだよ」
合わさった視線に退くことなく、仁王立ちで尊大にアキラを見下ろし、腕を組んでヒカルは繰り返した。
アキラも怒りに瞳を輝かせながら、ゆらりと立ち上がる。
「ボクがいつ卑怯な手を使った!?……取り消せっ!」
低く静かな声で恫喝するように怒鳴りつけてきたアキラの様子にも、微塵もヒカルは怯まない。
それどころか、冷徹さの増した眼の輝きで傲然と睨み据えてきた。
「対局のことじゃねぇよっ!このバカっ!!」
虎の咆哮の如く、神社の境内中に轟くような大喝であった。花火の金色の閃光に照らされ、憤怒に身を振るわせるヒカルの瞳は本物の
虎のような威圧感を滲ませて爛々と輝いていた。それはまさに東洋の百獣の王たる虎の怒りだった。猛々しい虎が激する姿そのものであ
った。密林の王者が身の内から吹きだす憤怒を押さえず、相手に容赦なく叩きつけている。
殺気すら孕む凄まじい怒りの前では、誰もがひれ伏さずにはいられないに違いない。小柄な身体が激昂に大きく膨らんで見えるほどだ
というのに、アキラは威圧感にも全く臆することなくヒカルを睨み返した。
虎の逆鱗に触れたからといって、臆病風に吹かれて畏怖なぞするわけがない。
それも当然だろう。彼もまた誇り高き竜なのだから。竜は決して虎に平伏したりしない。二人は額がくっつかんばかりの至近距離まで顔
を近づけ、今にも取っ組み合いの喧嘩すらしそうな勢いで睨み合う。いや、喧嘩などと生易しい言葉で片付けられるものではなかった。
剣士のように手に剣を持っていたら、本気で叩きつけて斬激を重ねていたに違いない。この程度の殺気と裂帛の気合が彼らにはある。
「じゃあ、何だっていうんだ!?言ってみろっ!!」
睨み合いの末に、最初に舌戦の口火をきったのはアキラだった。
「おまえ、ぶち殺されてぇのか!?何も言わずにいきなりキスしやがって!!オレをムシすんじゃねぇよ!」
「無視したんじゃないっ!自分を抑えられなかっただけだ!」
「この野郎…!開き直ってんじゃねぇぞっ!胸はって平然と言い切る台詞かよ!?」
「事実は事実だっ!それにキミにキスして何が悪い!!当然だろう!」
「はんっ!どこが当然だ!?おまえはどうでもいい相手にキスすんのかよ?……ふざけんな!」
「馬鹿にするな!どうでもいいわけないだろうっ!!ボクはキミが……」
思わず言いかけた言葉をアキラが飲み込むと、ヒカルの醸し出す剣呑な雰囲気が更に険悪になる。
瞳がすっと眇められ、絶対零度の冷たさで睨みつけてきた。
「……また言わねぇのかよ?おまえはいっつもそうだよな……結局ただの臆病者じゃねぇか」
霜の降りた声が冷ややかに斬りつけてくるのにアキラも黙っておらず、その氷を溶かす熱さで反駁する。
「ボクが臆病者だと!?ふざけるなっ!!」
「違うなら証明してみせろよっ!!」
「ああっ!証明してやるっ!!」
虎と竜の意地がぶつかり合って、怒りの咆哮が境内にこだまし、花火の炸裂音すらも完全に打ち消した。