アキラが注目したレリーフは、嵐の中を船が海を進む場面だ。
遺跡の規模に相応しく、レリーフも実に壮大な印象を受けるが、船は嵐に負けて転覆しそうに描かれている。
そんな中、強風に薄い衣をはためかせた細身の少年が舳先に立ち、空に向かって手を翳していた。
少年の伸ばされた指の先からは太陽が雲から姿を現し、人々は彼の足元に平伏し、畏敬を込めた驚嘆や歓喜の表情でこの奇跡に
眺めいっていた。この少年の持つ力によって嵐が去り、船を難破から救ったのだと、見てとれる。
きっとこの少年は、一種の神官や巫女のような存在なのだろう。アキラの視線は、その奇跡の場面よりも少年に吸い寄せられた。
強風が少年の衣を引き千切るように吹き、その中で彼は毅然と立っている。ほっそりとした足は力強く甲板を踏みしめ、敢然たる意志
を湛えて顔を上げ、瞳は生気に満ちて輝いていた。
可憐で初々しさの残った顔は愛らしさの中に大人びた印象も同居し、儚げな雰囲気を醸し出している、とても綺麗な少年だった。
少年のレリーフを見詰めたまま、アキラは微動だにしなかった。どういうわけか、このレリーフを見ると心がざわめく。
胸が締め付けられるように苦しく、微かな痛みを感じるのに、それらはどこかとても甘い。
幼いアキラには分からない感情がわき上がり、小さな身体の中でレリーフの嵐以上に荒れ狂う。それは名状し難い激情だった。
凝然とレリーフを食い入るように眺めていたアキラは、上着の裾を引っ張られ、不意に我に返った。慌てて眼を向けると、虎が不満そ
うに早く来いと言うように唸り声を上げた。
「あ…ごめんね」
思わず謝ったアキラに、虎は甘えるように顔を摺り寄せ、尻尾をアキラの身体にさりげなく巻き付ける。気にするなと返事をしたような
仕草に、アキラは小さく笑って虎の背中を撫でてやった。
見れば見るほど、この虎はとても綺麗で美しい。これまでの行動の一つとっても、どう考えてもただの野生の虎だとは思えなかった。
虎の堂々たる体躯を眺め、もう一度レリーフを振り返って小首を傾げる。まるで姿は違うのに、この少年と虎の印象が似通っているよ
うに感じたのだ。アキラが虎に視線を戻すと、不思議な色を湛えた瞳と眼が合った。
あのレリーフを見た時以上の、奇妙な感情がわき上がる。胸一杯に広がったそれは、堰を切ったように勢いよく溢れ出し、わけがわか
らないまま虎から眼が離せなくなる。ぽたりと石畳に水が落ちて、アキラは驚いて瞬きを繰り返した。
後から後から頬を熱い液体が滑り落ちてくる。自分でも気付かないうちに、頬が涙で濡れていた。
一体何故とめどめもなく涙が溢れるのか、自分でも分からない。自覚のない涙にうろたえるアキラを宥めるように、虎は優しく頬を舐め
てきた。抱きついてきた少年を身体全体で押し包み、背中を尻尾であやすように撫でてくる。
心細いわけではない。悲しいわけでもない。ましてや辛くもない。ただ熱い感情が胸を一杯に満たしてひどく苦しい。
アキラがもっと大人であったなら、戸惑わずに受け入れられただろう、強い感情。幼いアキラにはまだ荷が重過ぎた。
一頻り柔らかな毛並みに顔を埋めていたアキラが落ち着くと、虎はゆっくりと歩調を合わせて奥にある入口へと進んで行った。
それだけでも、心は安定を取り戻して凪いだ海のように静かになる。虎の気配を感じているのが、何よりも心を満たしてくれた。
もう一度虎の瞳を見詰めたが、今度はあの不可解な感情に苦しさを覚えることはなかった。反対に心躍るような弾みが胸を打って、い
つの間にか頬をほんのりと赤く染めていた。
城の作りは非常に広大だが、虎の歩みに迷いは微塵もない。アキラは虎に寄り添うようにして歩き、窓から入り込む月明かりを頼りに
階段を上った。三階まで上がって幾つもの広間と長い廊下を進むと、バルコニーのある広い部屋に着いた。
調度品はすっかり朽ち果てて何もない殺風景な室内であったが、まるで自分の部屋のように不思議と落ち着ける。
アキラは気付かなかったが、誰もいないはずなのに、床にはゴミの類は一切なく、遺跡の保存状態もとてもよい。観光客が来るように
整備されてもないのに、実に奇妙なことだった。この遺跡が未発見なのだとしたら、考古学に携わる者ならば世紀の発見だと小躍りした
に違いない。遺跡が丁寧に保存されている点からして、現地の人々が独自に護っている場所とも憶測できるが。
何か物を置いていたのか、石造りの台の上にアキラを座らせると、虎は目線だけでそこに居ろと伝え、踵を返して出て行ってしまった。
アキラはしばらく周囲を見回しながらぼんやりとしていた。やがて未知の場所に一人ぼっちでいるという寂しさよりも、好奇心が頭を擡
げ始める。最初こそ大人しく台の上で腰を下ろして待っていたが、すぐに手持ち無沙汰になり、そわそわしだした。
何もない部屋を見回すが、やはり眼につく品はない。そこで、バルコニーに出て外を眺めることにした。もし虎が外に出かけていたら、
帰ってくるのを見つけられるかもしれない。一人ぼっちで森を彷徨っていた間は恐ろしいとすら思ったのに、バルコニーから見下ろす風
景は美しかった。青白い満月に仄かな明るさに照らされ、森はそれ自体が発光するように輝いていた。左には門が白く光って聳え立ち、
右には湖の湖面が月明かりに反射している。
アキラの居るバルコニーから斜め下にもう一つのバルコニーがあり、直接行ける階段が昔は備え付けられていたらしい。だが今では、
崩れて途中で途切れてしまっていた。それに一抹の寂しさを感じたアキラだったが、夜風の冷たさに身を震わせ、寒さから逃れるように
室内に戻り、台に座りなおした。部屋の広さと規模からして、きっとここは貴賓室か或いは王族専用で、すぐ下の階には妻や恋人が住ん
でいたのかもしれない。バルコニーに階段が備え付けられていたのはここだけで、他にはそれがないのが、一つの裏付けになる。
尤も、そういった知識のないアキラにはどうでもいいことだったが。
広々とした室内で、アキラは寒さに震えながら待っていた。夜風はバルコニーから入り込み、正面の扉の跡に吹き抜ける。
日中は汗が滴り落ちるほどの暑さだったというのに、夜は意外なほどに冷える。風にしばらく当たっていたこともあって、身体はすっかり
冷えきってしまっていた。昔は扉があったと思しき、回廊に通じる壁に空いた空間から入ってくるであろう虎を待って何分が過ぎたのか。
不意に背後に気配を感じて振り返ると、虎がふわりとバルコニーに降り立ったところだった。
三階であるにも関わらず来られたのは、下の階のバルコニーから壊れた階段を上ってきたからだろう。虎の運動能力をもってすれば、
階段の崩れた部分を飛び越えるなど造作もないことだ。虎がバルコニーから当り前のように室内に入ってきた瞬間、奇妙な既視感を覚
えて心が波立つ。いつか…どこかで……アキラが記憶を探っても答えは霧を掴むようにおぼろげで頼りない。
こんな風に、夜の闇に紛れて自分の傍に誰かが訪れていた筈なのに……それはいつのことだったのだろう?
もどかしさに軽く頭を振って違和感を払うと、眼の前の虎が咥えていたリュックと沢山の果物の入った手提げ袋をそっと下ろした。
アキラは眼を丸くして、何の変哲もないビニールの手提げ袋を見やった。リュックは確かに、森の中で失くしたと思った自分のものであ
る。だが奇妙なのは、手提げ袋だった。日本のスーパーで一般的に使われている、何の変哲もないビニール製の手提げ袋である。
ちゃんと、アキラが住む家の近所にある、大型スーパー店のロゴが入っていた。しかしそれこそが、奇異な現象の原因だった。
ゴミを持ち帰る為に入れた日本のスーパーのビニール袋なのだが、これはリュックの奥にしまい込んだはずで、出した記憶はない。
さっき落とした時に中身をぶちまけていたとしても、戻ってきたリュックはしっかりと閉められているのだ。
一体どうして?と疑問を感じたアキラだったが、盛大になった腹の虫にそんな些細な事柄は一瞬のうちに雲散霧消してしまった。
空腹を満たす食欲に勝るものは、今はない。
「ありがとう、持ってきてくれたんだね」
虎に丁寧に礼を言い、ビニール袋から果物を取り出した。
だがしかし、アキラは果物の皮を剥くナイフの類は一切持っていない。それに分厚い皮は大人でも素手では剥けないだろう。
どうやって食べたものかと途方にくれていると、虎は心得たように果物を先刻と同じ要領で半分に割り、鼻先でアキラに押しやった。
大きな果実を二つ平らげると、さすがに満腹になる。腹が膨れると昼間の疲れもあって途端に眠気を感じて欠伸をした。
何とか寝ないでいようと思っても、瞼は重くなるばかりだった。
大人でも疲れきってしまう距離を歩き回ったのだから、子供のアキラが疲労を感じないはずがない。身体は休息を求めていた。
虎の身体に凭れると、心地よい体温に更に眠気が増す。うつらうつらと船を漕ぎ始めたアキラの身体は、ひんやりとした石造りの床に
向かってずるずると横に傾いていった。そのまま眠ったりすれば、冷えて確実に風邪をひくに違いない。
床に落ちそうになったアキラの身体は、虎によって留められる。虎は眠り込んだアキラの上着を咥えると、丸まった自分の身体をベッド
代わりにするように中に包み込んだ。巨体の白い腹の部分に載せられたアキラは、殊更小さく見える。
石造りの床にそのまま寝転がせないように配慮する虎は、高い知能を持っているのは明らかだった。それも人間のような。
だが既に殆ど夢の世界に引き込まれたアキラは、ふかふかとした毛並みと包まれた温かさのお陰で、少しも寒さを感じなかった。
温もりは安心感と共に更に深い眠りをアキラに与える。
ほどよく心地よい体温と、獣とは思えない甘く芳しい体臭に包まれ、アキラは安らかな夢の中に引き込まれていった。
自然豊かな森の中を、アキラは慣れた足取りで歩いている。
この深い森は自分にはよく分かった場所だった。いつも通りに道を何気なく足を止めずに進めていると、美しい泉に辿り着いた。
鮮やかな緑の木漏れ日の中に、周囲の風景を鏡のように映し出す、青く澄んだ綺麗な水が湧き出ている、慣れ親しんだ泉の畔だ。
泉に向かおうとしたところで、アキラは気配を感じて足を止める。そちらに視線を流すと、美しい毛並みの虎がこちらに気付いた風もな
く、悠然と歩いて泉に入って行った。この泉は人間だけでなく森の動物にとっても貴重な、大切な場所なのだろう。
アキラは茂みの影から音を立てずにしばらく虎の様子を窺っていた。相手は猛獣の虎だ。余計なことをして気付かれれば、襲ってくる
危険性もある。ここは気配を殺して虎が去るのを待つべきだ。虎は心地よさげに泉に身を浸していたが、不意に後ろ足で立ち上がった。
すると、黒と黄金の体毛が薄くなり、巨体が縮んで人型へと変じていく。気がつけば虎はほっそりとした少年に変化していた。
それは殆ど瞬きをする時間で行われた。爆発的ではなく滑らかで静かなものである。とてもではないが、虎が人間に変身したとは俄
かには信じられないほど自然に。
虎の時と変わらない見事に均整のとれたしなやかな裸体を晒した少年の姿を、アキラは驚愕したまま凝然と見詰めた。
正直、驚きで声の一つも出ない。
泉に足を浸けたまま、澄んだ水を掬おうと少年は手を伸ばす。
しかし、彼はそこで動きを止めた。アキラの視線と気配を感じたのか、こちらをゆっくりと振り返ってくる。
虎であった時の名残のように日に照らされて輝いた金色の髪が、絢爛豪華な宝冠のようだと、アキラは思った。
夢の終わりと共に、アキラは眼を覚ました。
朝の眼覚めはこれまでにないほどすっきりとしたもので、奇妙な夢の残滓もない。奇妙なことに違和感なく受け入れられた。
差し込んでくる朝日にぱっちりと眼を開き、柔らかな毛並みに身体を包まれたまま虎の顔を覗き込む。夢で見た虎は確かにこの虎
で、変身した少年はあのレリーフの人物だった。
既に虎は目覚めており、覗き込んだアキラの顔を、おはようと挨拶をするようにざらついた舌で舐めてきた。やはり、虎は虎のまま
で、少年の名残などどこにもない。ただの夢だったのだろうが、何か暗示的でアキラは気になった。
だが例え尋ねたところで、この虎は何も答えないだろう。
少年の胸に宿った疑問のことなど知らぬげに、虎は寝返りをうって器用にアキラを下ろすと、昨夜とは違う果物を与える。
この虎にしてみれば、硬い果物の皮を適当に割って食べることなど何の問題もなく、難しいことではないのだろう。
アキラが食べ終われば、当り前のように背中に乗せてバルコニーから二階に飛び降り、更に一階へとふわりと降りた。
その後はあっという間だった。虎はアキラを乗せて遺跡を出て行き、山岳警備隊の小屋が見えるところまで連れて行ってくれたので
ある。どう足掻いても迷いようのない、一本道のところまで。
アキラを下ろすと、背中を後押しするように鼻で押した。思わずアキラは振り返るが、早く行けというようにもう一度押しやられる。
離れがたくて、ぎゅっと虎の首に腕を回して抱きついた。けれど、やんわりと解かれて距離をとられてしまった。
自分としては離れたくはないのだが、虎はそれを望んでいない。アキラを家族の下に帰そうとしてくれている。
名残惜しそうに躊躇しながら、アキラは渋々小屋に眼を向けた。心配そうな様子で小屋の前で所在なげに立ち尽くす、両親の姿を
見つけると、いてもたってもいられなかった。わき目もふらずに弾かれたように走り出す。
アキラの母親である明子は、すぐに息子の姿を見つけて駆け寄り、しっかりと腕の中に抱き上げた。
丸一日行方不明になっていた息子は、掠り傷一つなく元気な姿で戻ってきた。安堵と同時に喜びが心を満たして小さく息をつく。
夫の行洋も憔悴しきった顔に泣き笑いのような笑顔を浮かべる。
無事を喜ぶ両親の腕に代わる代わる抱き締められながら、アキラはふと虎のことが気になって振り返った。
先ほどまで自分の居た木の辺りには、動物の影も形もない。既に虎は姿を消していた。
まるで、あの夢と同じように儚い一瞬のうちに。