U 再会
送迎用の車から外を眺めると、日本の都会とは比べものにならないほどの緑に瞳が奪われる。空港とその周辺は近代的な趣であ
るのに対して、少し離れると木々や花などが多く眼につくようになる。高いビルが立ち並んで都会的で硬質な印象の中に、自然が不
思議なほど溶け込んでいた。街にはゴミなどは眼につかず清潔に清掃され、ビルの外観にもみすぼらしさはどこにもない。
豊かな国であるという、何よりの証拠だろう。彼にとっての故国である日本や他の大国よりも、経済面において繁栄しているという噂
もあながち外れてもいまい。
ここはユーラシア大陸の一角にある小さな国だ。国土については日本の約三倍であるが、総人口は半分に満たない。
国土のほぼ七十パーセントが森や湖、草原や湿地帯などに覆われ、多くの野生動物が生息している。自然保護を最重要、最優先
課題としている国柄で、多くの人々が国の政策と事業に携わっている。
この国の一番の自慢は、風光明媚な美しい自然の風景だ。
誇らしげに祖国の美しさを語る人々の姿を見ると、自分の仕事に信念を持ち、生活しているのだと当り前のように伝わってくる。
農業や畜産も盛んで自給率はほぼ百パーセント、海産物においても養殖技術の発達で高い水準を誇るのは驚異的だ。
資源の少ない日本とは違い、石油やガスなどについても輸入には一切頼っていない。この国では他国よりも遥かに先駆けてクリー
ンエネルギーの開発に当たり、殆どの電力は太陽光、風力、波力などで賄われ、車も全て排気ガスのない電気自動車である。
ここまで徹底した自然保護意識を持つ国であるというのに、国の活動は、他国の一般の人々には余り知られてはいない。
その理由は、殆ど鎖国政策と言ってもよい入国管理システムだ。
ここでは他国の人間がただ入国するだけで、入国料と称して日本円にして子供で約二百万円、大人で約五百万円を徴求される。
当然、払えなければ入国はできない。大国の大統領であったとしても、払わなければ入国を拒否されて門前払いである。
それでも支払う価値があると判断した一部のセレブは、高い入国料を支払って訪れる。この入国料収入だけでも、国家財政は相当
に潤っているのは周知の事実だった。自国の民は勿論払う必要はなく、出国も入国もスムーズにできる。
――とはいえ、どんな事でも例外はある。
入国料は、留学や自然保護、動物学、考古学などの、学術研究目的の場合はおよそ二十分の一にまで減免される。ただし純粋な
学術目的でない時は通常の入国料となり、更に政府に虚偽の申告をしたことが発覚すると、罰則として十倍の入国料を要求される
のだ。個人で支払えなければ、強制的に国外退去をさせるだけでなく、ビザの発行元である国に請求が向かう。
また、請求された国が突っぱねた時は、国際社会に大々的に問題を主張する徹底ぶりだ。
大抵の国は世界中に自国の恥を晒すことよりも、金で解決できるならと、あっさり払うのが主流である。
他にも例外はある。
飛行機や船の事故など、怪我人や病人が出て緊急を要するやむにやまれぬ事情がある時は、人道的見地から入国料は免除され
るのだ。何よりも特異な例は彼の場合である。 塔矢アキラがこの国に訪れるのは既に十数回をこえる。囲碁を嗜むこの国の王に請
われて父と共に訪れて以来、アキラは年に数度訪れているものの、今まで一度として入国料を払ったことはない。
最初に来た時も、招待客であったために免除されていた。アキラは入国も出国も、自国民と殆ど同じ扱いになっている。
――というのも、アキラが幼い頃に訪問した時の体験により、彼はこの国の神獣である虎の申し子として特例扱いを受けているから
だ。虎はここでは神聖な生物で、最も保護されている動物である。
アキラが初めてこの国に訪れた六歳の時、森で迷子になり、森林管理隊の詰所の傍まで虎に無傷で届けられたことがあった。
その時から、アキラは無条件で入国を許可されるようになり、それどころか年に数度は必ず招待されては訪問している。
アキラにとって、その虎との出会いは大きな人生の転機であった。それまでは囲碁のプロになるのが夢だったのが、今ではかの国で
虎の保護活動を行う仕事に就きたいと思っている。その一番の理由は、あの美しい虎と一緒に過ごしたいからだ。
幼い頃に自分を助けてくれた虎は、どんな虎よりも賢く、美しい。ただの野生動物ではなく、アキラの言葉や行動を理解し、人間以上
の知性すら感じることもあった。決して助けられた欲目ではなく、明らかな客観的事実である。
助けられた時も、お腹が空いて動く気になれなかったアキラに果物などを与えてくれた。食べ方が分からずに戸惑っていると、皮を剥
きやすいように割れ目を器用に作ってみせたりもした。暗闇の中で下手に動き回らないようにアキラを安全な遺跡に連れて行き、翌朝
になるまで冷えないように温めながら、外敵からも保護をした。
夜目のきかない人間にとって、明かりのない密林は危険極まりないと、最初から判断していたように。
何よりも驚異的なのは、普通なら近づかない人間の住処の傍まで、真っ昼間にアキラを背に乗せて運んだことである。
こんな事をただの虎ができるわけがない。だからだろうか、その後もアキラはあの虎との交流を続けている。
それができるようになったのは、最初に保護された後、さる人物から一通の手紙と共に、湖の畔にある専用の家を与えられたからだ。
その人は遺跡周辺の土地などの一帯を保護する要人で、遺跡から見えた湖や門など、広大な土地を所有しているらしい。それだけで
なく、家を一軒与えられるとなると相当な財産家と推測できる。
彼によると、虎はこの辺りの森の主で、名前は『ヒカル』という。手紙を読み、アキラにはこれほど似合いの名はないように思えた。
不思議な手紙には他にも幾つかの事柄が書いてあった。
湖の傍にある屋敷には、滞在期間中の食事など全てメイドや執事が面倒をみてくれること。
この湖の畔にある屋敷にさえくれば、必ず虎――ヒカルはアキラの傍に姿を現すとも。
確かに、他の場所では姿を見せないのに、屋敷と湖、その周辺の広大な土地の中でなら、ヒカルはアキラのところに必ずやって来た。
それどころか屋敷の中にも堂々と入り込み、見ても誰も止め立てせず、平然とヒカル用に同じ食事を用意していた。その上、アキラと
一緒のベッドに潜り込んでも何も言わない。奇異なほどスムーズな対応に疑問を感じて尋ねると、この屋敷の執事やメイドは、主人から
虎のことを聞かされているため、誰にも危害を加えないとわかっているのだ、と語っていた。
何もせずに好きにさせておけば危険はないと、厳重に言い含められたこともあり、彼らは虎にアキラと同じように食事を与える以外は、
何もしなかった。とはいっても、さすがに野生動物の傍は恐ろしいのか、一切近寄ろうとはしなかったが。
そこまで教育が行き届いているのに、彼らは肝心の主人の正体について詳しいことは何一つ知らなかった。
実のところ、執事頭ともいえる人物から命令を聞いただけで、主人には一度も会ったことがないと言うのだから、奇妙な話だ。
おかしなことは他にもあった。
虎の名を教えてくれた手紙を寄越した人物は、アキラに対して身分や名を明かすのは十年後にすると、謎めいた言葉も添えていた。
アキラの為に専用のプライベートジェットを用意し、特別な優遇措置をとるように政府に圧力をかけるだけでなく、広大な私有地に屋敷
を建てて滞在先を確保する。それなのに姿と名は明かさない。息子に破格の待遇をする謎の相手に両親が不安を訴えると、事情があっ
て表に出られないだけなのだと、王自らが信用に足る人物だとわざわざ太鼓判を押しにやってきたほどだった。
名前も名乗らず、姿も一切見せない。普通なら眉を顰めて疑い、敢えて近寄りたくない輩なのだが、この国の代々の王は『彼』の一族
と懇意なのだというから、驚きである。つまりは、それだけ権力を持つ有力者ということである。
だからこそ、敢えて身分を明かさないともとれるのだが。
因みに『王』とは名乗っても、この国はあくまでも民主政治で、実質的には国民投票で国の代表として『王』は選出される。大統領のよう
な存在に近いといえば、近いかもしれない。任期は四年で、例外なく一人三期までが限度と決められている。
選出される人物が若いのも特徴的だ。先代の王は白川といい、人望が厚く三期を勤め上げて、今は政界から離れてのんびり隠居生活
をしている。現在は藤原佐為という青年がこの国の王を名乗っている。
日本人名が眼につくのは、昔に多く移住してきたからだ。既存の現地の人々は元からが欧州系の混血が占め、それに日本人などのア
ジア人が合わさり、混血が複雑過ぎて人種も定かでない。世界でも貴重で稀な他民族国家なのである。
学者によると、民俗学的にも興味深い国だということだ。その為か、アキラはさしてこの国では浮いて見えることはない。
厚意で与えられた専用の屋敷に学校が休みに入ると必ず出かけるのが、アキラには楽しみだった。
休みになれば、ヒカルに会える。美しい虎がアキラを待っている。
プロ棋士として五冠の地位にある父から手解きを受け、周囲も期待しているにも関わらず、アキラはプロ試験を受ける気になれない。
外来で予選を受ける時期には既にアキラは日本を出国し、かの国の自然に囲まれた屋敷に滞在して虎との逢瀬に夢中になっている。
湖で泳いだり、木陰で寝たり、森の中を散歩したり、まるで恋人と会えなかった時間を埋めて過ごすように、一緒に居る。
宿題をしていると構って欲しがって、わざとノートを咥えて取り上げたり、上に寝転がって撫でて貰おうとしたり、大きな猫のような行動
を とることもしばしばある、我侭な虎のヒカルと。だがアキラにしてみると、そんな行動は凄く可愛くて堪らない。
宿題など放り出したくなる。 しかしそこを我慢して、勉強をしたいのだと訴えれば、ヒカルはとても素直に引いてくれる。
アキラが宿題を済ませてしまうまで、大人しく傍で待っている。聞き分けのいいところもあるが、どこまでも我侭なところもある。
悪戯っ子のように悪さをしたり、アキラをからかったりする時もあれば、まるで大人のように護り労わる。
ベッドにまで一緒に潜り込んで、朝になるとアキラを押し潰して大の字になって寝ていることもあった。柔らかな毛に顔を埋めて抱き締
めて眠るのは、アキラの日課にもなっていた。ヒカルと過ごす日々は毎日が楽しく、少しも飽きることがない。
だからこそ、いつも別れの時は寂しくて悲しい。少しでも早く学校を卒業して、この国に住めるようになりたい。ヒカルの傍で過ごしたい
と、いつも願っている。やっとヒカルに会えるのだと思うと、アキラは気もそぞろだった。
今回も学期末に成績表を持って家に帰ると、かの国の大使館員が玄関先で待ち構えていた。これは毎回のことで、アキラは学期末の
試験が終わると、まず旅行の荷造りをする癖がついている。
両親の了承と挨拶を済ませて専用機まで送迎車で向かい、出国手続きも入国手続きもなしで渡航する。
外交官特権を持つ要人のような扱いには、基本的には一般市民であるアキラには中々慣れられないものだった。
車窓から眺める景色は、緑の深さが増してくる。もうしばらくしたら、アキラが夏休みの間滞在する、屋敷のある一帯へ着くだろう。
だが、何気なく外を見ていたアキラは、違和感に気付いた。風景は中々見慣れたものにならないのだ。車はいつもの道を逸れて見知
らぬ土地へと入り、ホテルらしき建物の前に停車する。
恭しく扉を開けられて出ると、絨毯の厚い、見るからに豪壮な部屋へ案内された。恐らくスイートルームだろう。
いつもと違って、一体何故こんな所に連れてこられたのか分からず、アキラは落ち着かない気分で案内されるままにソファに座った。
間をおかず、別の扉から長い髪を背に垂らした麗人が現れた。
さしものアキラも驚いて、礼を失しないように思わず立ち上がった。この国で現在王と呼ばれる存在――藤原佐為である。
「こんにちは、塔矢アキラ。お久しぶりですね」
「……お久しぶりです。お招きありがとうございます」
握手を交わすと佐為はさりげなくアキラにソファに座るようにすすめ、自分も正面にゆったりと腰かける。
「いつもとは違って驚いたでしょう?実は、貴方に十年前手紙を出した人物を紹介しようと思って、こちらに招いたのです」
王と呼ばれる身分とは感じられないほど気さくで、それでいておっとりとした上品な口ぶりは、まるで平安貴族のようだ。
しかし、話の内容はのんびりと聞き流せる内容のものではない。
余計な説明や長ったらしい挨拶を省き、単刀直入に要点のみを知らせるのは悪くはないが、それだけに驚きも一入だった。
一匹の虎と会わせるためだけに、アキラに広大な私有地への立ち入りを許可し、滞在できる屋敷を貸し与え、専用の車やジェット機で
送迎する謎の人物と、これから引き合わせると言うのだから。我知らず、アキラは固唾を呑む。
ある意味足長おじさんのような存在と、今ここで対面することになるのである。緊張するなという方がおかしいだろう。僅かに身体を強
張らせて次の言葉を待っていたアキラだったが、突然、何かが勢いよく身体にぶつかり、ソファの背もたれに深々と背中が押し付けられ
た。続いて胸元に懐くようにぐりぐりと頭を擦りつけてくる。
この国で自分にこんな事をするのは、虎のヒカル以外には考えられない。彼はよく、アキラにそうやってじゃれつくのだ。
「ヒ…ヒカル……?」
我知らず虎に対するように呼びかけながら視線を向け、唖然とする。アキラの胸に頭をくっつけてしがみ付いてきているのは、前髪が
金色で後ろ髪が黒色という変わった髪形の、細身の少年だった。
「ああもう!ヒカル!駄目じゃないですか、まだ紹介してませんよ」
慌てて少年に呼びかける佐為を無視し、彼はアキラに懐いて離れようとしない。アキラもまた呆然としてされるがままだった。
(……ヒカルっていうんだ…)
どことなく虎を髣髴させるツートンカラーの髪を見下ろすと、少年が顔を上げて嬉しそうににこりと笑う。
その笑顔と面差しを見て、心臓が大きく跳ね上がった。一気に体温が上昇し、忙しなく鼓動が胸を打つ。
初めて会うはずなのに、まるでずっと以前から彼を知っているような気がしてならなかった。
「……彼は進藤ヒカルといいます。挨拶もなしにすみません」
佐為は大きな溜息をついて天を仰ぎ、アキラに深々と頭を下げる。佐為としては、礼節に無頓着な子供を持った親のような気分であ
る。 まさか紹介する前にアキラに飛びつくとは考えもしなかった。
「あ…いえ……こちらこそ、よろしく」
一国の元首に頭を下げられて慌てるアキラだったが、状況についていけなくて、答え方もすっかりしどろもどろになっていた。
対して進藤ヒカルと紹介された少年は、いつのまにやらアキラの膝の上に横座りし、さも当り前のように首に腕を回して抱きつきなが
ら、佐為を不思議そうに振り返る。
「何でオレが改めて紹介されなきゃならねぇんだよ。こんな所でわざわざ会う必要ねぇじゃんか」
「あのね、ヒカル。いきなり貴方と会ったら塔矢はびっくりするでしょう?彼は何も知らされていないのですから」
だからこうしてお膳立てしたのにと、何とかヒカルに説明し説得しようとする佐為だが、全く相手には伝わってはいなかった。
「そんなのどうだっていいって!へーき、へーき!」
あっけらかんと答えると、ヒカルはそれで話は済んだとばかりに立ち上がると、アキラの腕を引っ張る。
「お待ちなさい、ヒカル」
わけがわからずふらふらと立ち上がったアキラの腕を取り、佐為が声をかけてくるのも知らん振りで、強引に外に連れ出した。
「ほら行こうぜ、塔矢」
「え?あ…うん」
ヒカルに引っ張られるままに車まで連れてこられたが、頭が飽和状態でついていかない。
足長おじさんを紹介されると思いきや、いきなり同年代の少年に抱きつかれて話を勝手に進められてしまえば、誰でも驚くだろう。
いつものアキラなら、そんな行動をとられてしまうと腕を振り払うなり行動をおこすのだが、すっかり相手のペースに嵌っていた。
ずるずるとされるがまま階下に下り、車の傍まで連れてこられる。
車に乗せられる寸前、やっと佐為が追いついてアキラの手を強く握ってくる。続いて優しく愛情を込めた声で告げられた。
「すみません、塔矢。この子は突拍子もない行動をしますが、決して悪い子ではないのです。どうか何があっても信じてあげて下さい」
意味と意図は不明だったが、佐為のヒカルに対する真摯な気持ちは十分にアキラにも伝わった。
アキラは自然と顔を引き締め、佐為にしっかりと頷くことで応える。それに佐為が微笑み返すと同時に、アキラは車中の人となった。