走り出した車の中から見える風景はしばらくすると、どことなくアキラにも覚えのある緑豊かな景色へと変わっていく。
よく見ると、車は空港から乗ってきた送迎用のものとは少し違っていた。柔らかなソファの座り心地はとてもよく、車体の揺れについても
少しも気にならない。無駄に大きくもなく、小回りがきくように設計されているようで、主に山岳地帯などの荒い道を通る為に作られた車だ
と推測できる。空港から乗った車では、アキラが滞在する屋敷まで行くには向いてはいない。
外観はさして変わらなくとも、中身が違うのだ。きっとアキラが佐為と話しているうちに変えたのだろう。
アキラは戸惑った心を落ち着かせられず、自分の身体にぴったりとくっついてくる少年を見下ろした。名前は確か、進藤ヒカル。
年齢はアキラと同じ歳か一つか二つ下だろう。前髪は金色で、黒い髪は後ろという、どこか虎を彷彿させるような髪型だ。
日本の少年が着るようなラフな服装で、態度はぞんざいで遠慮がない。それでいて、どこか人を従わせるような気品がある。
くるくると表情を変える顔は子供っぽく無邪気で微笑ましく、大きな砂色の瞳と桜色の唇は少女を思わせるほどに愛らしい。
外見はそこらのアイドルなど太刀打ちできないほど綺麗だ。茫然と少年を見入っていたが、はたとアキラは我に返る。ここでぼんやりと
流されている場合ではない。現状を把握せねば。視線を感じたのか、ヒカルは顔を見上げて軽く小首を傾げた。
(か…可愛い……な…)
自分の状況も忘れて、大きく心臓が脈打つ。あの虎と対していた時と同じかそれ以上に、どきどきする。まるで恋をしているように。
だがしかし、ここで何も聞かずに流されていたら、アキラは一つも分からないままだ。アキラは、彼が何者かすら知らない。
「あ、あの……キミは……」
「……?何だよ?」
思いきって話しかけたアキラに、ヒカルは不思議そうに問い返す。
「えーと……ボクがこの国に来れるように……」
してくれた人の身内なの?と続くはずだったが、合点がいったようにヒカルが先回りして口を開いた。
「ああ…その事なら気にしなくていいぜ。おまえを呼ぶように言ったのはオレなんだし」
「はぁ……?」
ヒカルの言葉に、アキラはぽかんとする。彼の言っていることをそのまま汲みとると、まるでヒカルがそう指示したように聞こえる。
ヒカルの姿を上から下まで見直したが、同じ歳頃にしか見えない。アキラと同じ歳頃の少年が、六歳くらいの時にそんな命令を一国の
首相クラスの人物に対して言えるとは思えない。それとも、父親にでも頼んでアキラに優遇措置を取り計らえるように頼んだのか?
だがこれもおかしい。何故なら、ヒカルとアキラには何の接点もないのだから。一度も会ったことがないのは確かだ。
アキラの混乱をよそに、ヒカルは更に続ける。
「少なくとも、おまえが見たところ全部オレのだから、おまえは遠慮せずにゆっくりしてりゃいいの」
「見たところって……」
それは即ちこの内陸に続く地平線も、遥か後方に見える海岸線と海をも指しているというのだろうか。
「だから、見えるところ全部。ここはオレのだから」
ここというのは何を指しているのか、一瞬浮かんだ考えに、ひやりと背筋に冷たいものが走った。何故そんな考えが浮かんだのか分
からなかったが、妙に実感して納得する自分がいる。けれど思い描いたものは余りに広範囲過ぎた。
宇宙全体だなんて、まず有り得ない話である。
普通ならまず思い浮かべもしないに違いない。アキラは自分の考えを打ち消すように、無意識に頭を軽く振った。
「何変な顔してんの?オレのものはおまえのでもあるんだぜ?」
ヒカルはそんな事は当り前だと言うように、怪訝そうに瞳を見開いた。そうすると大きな眼がより一層大きく見えて吸い込まれそうになる
が、寸でのところで踏み止まった。アキラは益々混乱し始めた頭を落ち着かせるように更に振る。どうして初対面の少年に、彼にとって
のものはアキラのもので、今見える全てもまた自分のものだと言われるのか、さっぱり分からない。もう本人に確認するしかなかった。
「あ、あの…ボクはキミと初対面なんだけど……」
「……あ?おまえ何寝惚けたこと言ってんだよ。休みの度に、オレに会いに来てくれてんじゃん!」
「は?」
思わず絶句する。大いに面食らい、アキラはあんぐりと口を開けて間抜け面を晒した。怜悧で凛々しい美貌は、こんな表情をしても損
なわれなかったが、アキラは一切構わずに自問自答する。それはいくらなんでもおかしい、絶対に変だ。
アキラがこれまでこの国に訪れて会っていたのは、黒と金の縞模様が美しい若虎であって、少し華奢で綺麗な少年ではない。
以前会った動物学者によると、アキラが愛してやまない虎は、人間で言うと十五歳から十八歳くらいの若い雄だということだ。
いくら同じ名前でほぼ同年齢で同性ということでも、人間と虎では種族として大きな隔たりがある。
アキラは一度も、進藤ヒカルという少年と会った記憶はないのだ。どうしてそんな勘違いをしているのか、混乱するばかりである。
何と言えばいいのか酸欠の金魚のように口を動かすが、言葉は全く出ず、自分でもどうすればいいのやら対処に困った。
少なくとも、ヒカルは冗談でアキラにそんな事を告げたのではなく、彼は真実を告げているのだと、不機嫌そうに眇められた眼で分かり、
背中に冷汗が流れる。少年が誇大妄想癖でないのも、眼の輝きをみれば一目瞭然だ。
それだけに、辻褄の合わない言葉の羅列に惑乱する。
ではおかしいのは自分の方なのだろうか?今までにもヒカルと会っていて、自分は虎と勘違いしていたのか?――あり得ない。
誰に訊いてもアキラは確かに虎と会っていたと話すだろう。
「何だよ…おまえ。ムカツク」
ヒカルはアキラの態度に、これまでの浮かれたような様子から、一気に剣呑な雰囲気を醸し出し始める。
猫科の猛獣を思わせる猛悪な気配が少年の細身の身体の周囲に漂い、アキラはまるで威嚇されているような気分になった。
「ヒカル!ダメよ。塔矢君が困ってるじゃない」
アキラが蛇に睨まれた蛙のように硬直していると、助け舟を出すように、助手席に座っていた人物が振り返ってヒカルを窘める。
見ると、アキラとほぼ同年代の少女がにっこりと笑いかけてきた。
「そうよ、進藤。あんた忘れたの?塔矢はその姿は知らないのよ?一回もそっちでは会ったことないじゃない」
もう一人の少女の声が賛同し、運転席からサングラス越しにアキラに視線を向けて苦笑いする。どうやらこちらの少女は、アキラよりも
二歳か三歳ほど年上のようだ。アキラには理解不能な連体詞と言葉の羅列だったが、同乗者三人にはしっかり意味が通じ合っているの
か、ヒカルは合点がいったように掌を拳でぽんとを打つ。
「…あ!そっか……悪ぃ塔矢」
手を合わせて謝る仕草を見せたヒカルにアキラは曖昧に頷いたものの、何一つとして納得したわけではない。どうも釈然としない。
しかしそんなアキラをよそに、彼らは知った風に会話を続ける。
「やだ!もう…呆れた!あんた本気で忘れてたの?昨日散々言ってたくせに!これだから……」
「ヒカルらしいといえばヒカルらしいけど、塔矢君が可哀想だよ」
少女達が口々に責めると、彼は不貞腐れたように頬をぷっくりと膨らませた。こんな表情をすると妙に子供っぽくて可愛らしい。
「ちぇー…なんでぇ。愛の力で気付けっての……!」
ぼそりと呟いたヒカルのぼやきは、誰の耳にも聞きとがめられずに流され、少女がアキラに遅ればせながらの自己紹介をする。
「こんにちは、塔矢君。私は藤崎あかり。運転をしているのは奈瀬明日美。二人ともヒカルの世話係なの」
「よろしく、塔矢アキラ君」
奈瀬と呼ばれた少女はステアリングを捌きながら、サングラスをとって綺麗なウィンクをしてみせると、余裕たっぷりに正面に顔を戻し
た。その間、少しも運転は乱れることはなかった。
「屋敷には料理係が居るから、後で紹介するわね。他は今出払ってて居ないけど、戻ってきたら会えると思うわ」
「あ……はい」
勢いに押されるようにして頷いたアキラだったが、疑問は胸に残る。世話係という割には、彼女達はヒカルに少しも遠慮がない。
まるで弟の面倒をみる姉のようだ。この二人とヒカルは主従という枠組みではなく、全く別のものとしか感じられない。
「あの…お二人は進藤とはどういう…」
アキラが思いきって尋ねると、少女二人はくすりと笑う。
「後で話すわ」
前を見たまま答えた奈瀬の声には、これ以上この件に関する質問を許さないといった牽制が、ありありとこもっていた。同意を示すよう
に頷いたあかりの笑顔にも、答える気はないという意志が浮かんでいる。
二人はそのまま無言で正面を向いて、アキラをさりげなく自らの視界から隔絶した。さしものアキラも、曖昧にかわされ続けていれば
腹も立つ。全てのことが未消化で何一つ解決されていない状況は、アキラにとってはひどく不快でもあり、また大きな疑念でもあった。
身体の奥底からじわじわとせり上がってきた不満は、理性でギリギリ押さえつけたが、今にも堰をきって溢れそうになる。
そんなアキラの心を読んだように、ヒカルが口を開いた。
「奈瀬、車はあそこに回してくれ。そこで降りる」
「……分かったわ」
一瞬、もの言いたげに唇を震わせた奈瀬だったが、ヒカルがちらりと向けた鋭い目線に素直に頷く。
「塔矢は動きやすい服に着替えろよ。これから少し奥に入るから、靴はトレッキングシューズな」
ヒカルの有無を言わせぬ口調にアキラの怒りは出口を失い、あっさりと萎んでしまった。何となくだがヒカルがアキラに一つの答えを示
そうとしているのが、伝わってきたのもある。
アキラが無言のまま首を縦に振ると、ヒカルは微笑んで、いつも虎の『ヒカル』がするように胸に頭を預けて擦り寄ってきた。
無意識のうちに髪を撫でて、その感触のよさにどきりとする。柔らかく心地よく、荒れた心が静まって和んだ。まるで旧来から知っている
ように、髪に触れたりすることに躊躇がない。
それどころか胸の奥からは熱くて激しい感情がこみ上がり、ヒカルをこのまま自分の腕の中に閉じ込めたいとすら思った。
感情を持て余して困惑しながら、自分を必死に押さえるアキラの顔をちらりと見上げ、ヒカルは謎めいた笑みをふわりと浮かべた。
山岳地帯の悪路に入っても、車のスピードは一向に落ちなかった。奈瀬は峠を攻める走り屋のような軽快なハンドル捌きで、山道を駆
け上ってゆく。いつもアキラが滞在する屋敷の傍にある湖がどこにあるのかまるで分からない場所で、車は唐突に停車した。
着いたのは、鬱蒼と下草の生えた、薄暗い森の入口付近である。車の停まった位置から少し離れた所からは原生林の聖地だ。
「…着いたわよ」
「サンキュ!夕飯までには帰るから、用意しといてくれよ」
「気をつけてね、ヒカル」
奈瀬にヒカルは礼を述べ、あかりには安心させるように笑いかけて車を降りる。アキラはそんな彼らのやりとりを尻目に、トランクから着
替えと靴を取り出した。女性二人の眼の前で着替えるのもどうかと躊躇する間もなく、ヒカルは何か操作をして後部座席と前の席との間
に仕切りを下ろし、アキラに中に入って着替えるように促す。
スーツを脱いで手早く動きやすい軽装を着込み、革靴も脱いでトレッキングシューズに履き替え、車から降り立った。
ヒカルはアキラの姿に一つ頷き、少女二人に帰っていいと手振りだけで伝えると、慣れた仕草で森の奥へと足を踏み入れる。
アキラが驚くほど、ヒカルは健脚だった。毎日ジョギングを欠かさず行い、休みの日になるとトレッキングなどをして歩き回るように心がけ
るアキラですら、少し気を抜くと置いていかれそうになる。元から森の地形などを覚えて歩き慣れているというだけでなく、彼は虎さながら
に身軽で、身のこなしが鋭い。いつも険しい山野を動き回っていると、一目で分かる。
渋谷などに居そうな、ごくありきたりな少年の格好をしたヒカルが、獣道を軽々と登っていく。
それなのに、不思議とヒカルは森の風景に溶け込んでいた。体力が削られないようになるべく話さずにヒカルに着いて行ったが、一時間
以上経過した頃、アキラは素朴な疑問を口にした。
「ここはどの辺りなの?進藤……君」
「湖の裏側だよ。表の畔には屋敷を建ててるから、その反対だな」
「……随分屋敷から離れているみたいだが、こんな場所から夕方までに帰れるのか?車もないのに」
「車なんて必要ねぇんだよ」
ヒカルはくすりと笑って答えると、アキラを振り返って早く来いと言うように手を振る。立ち止まって待つヒカルに追いついて並ぶと、眼前
には美しく澄んだ泉が水を湛えて二人を待っていた。
アキラは思わず息を呑んだ。幼い頃、初めて虎と出会った夜に見た、あの夢に出てきた泉が、現実にそこにある。アキラの眼の前に。
そして今ここでアキラが立っている場所は、夢でアキラが立っていた位置そのままなのだ。眼に見える光景が全く同じである。
誘われるように泉に向かって歩を進め、アキラは周囲を見回した。信じられないことに、何もかもが夢の通りである。あの夢の時代から
長い時が流れている筈なのに、何一つ変わっていない。鼓動が大きく胸を打った。我知らず茫然と泉を見入る。
そんなアキラをヒカルは少し下の目線から見上げると、ゆっくりと泉に沿うようにして歩き出した。
数歩離れた場所で振り返り、アキラに悪戯っぽく笑いかける。
「オレと初めて会った時のこと、覚えてるか?」
頷きもせず、また否定もせず、何の反応も返さずに自分を見詰めるアキラに焦れた風もなく、ヒカルは淡々と喋りだす。
「オレは水浴びをしにここに来た。おまえはあの辺りから、オレを見てた。……もうずっと昔の話だけど、オレはよく覚えてるよ」
アキラがさっきまで立っていた場所を指で差すと、服に手をかける。シャツを脱ぎ、ズボンを脱ぎ捨て、下着も全て取り払って全裸になっ
たヒカルの姿に、アキラは我に返って顔を真っ赤に染めた。
完璧で美しく、しなやかな少年の裸体に眼が奪われそうになりつつも、理性を必死に喚起して舌をもどかしく動かす。
「し…し、しっ進藤!ふ、ふ、服を…」
呼び捨てにしていることを気にしている余裕などない。
あられもない姿に動揺してまともに喋ることもできないアキラが全てを言う前に、ヒカルの身体に変化が起きた。
小柄な少年の肉体が膨れ上がり、倍以上に膨張する。体表を黄金色の光の波が走ったかと思うと、密生した体毛が表れた。漆黒の闇
と、眩い太陽の光を表現したような金と黒の縞模様である。肢体を凄まじい速さで覆い尽くした毛皮からは元の姿は窺い知れない。
地面に着いた足は強力な四肢となり、巨体を十分に支えた。夢で見た光景を逆回しにしたものが、眼の前で繰り広げられる。
息を吐いて吸うほどの短時間で、変化は終わった。柔軟性と瞬発性、引き締まった力感を持つしなやかな筋肉。
勢いよく立った両耳、生き生きと星のように輝く金色がかった砂色の瞳。黄金色の身体に真っ黒な縞模様。
呼吸すら忘れて見入っていたアキラのすぐ傍には、いつも彼が会うことを楽しみにしていた虎の『ヒカル』が悠然と立っていた。
信じ難い現実を受け入れきれず、無意識に首を左右に振る。
とんでもない光景を見た驚愕の余り、その場にへたり込んだアキラの肩にヒカルは前脚をかけて押し倒す。虎の体重に逆らうことなど当
然できずに、アキラは大の字に寝転がった。肩には猫科の動物の太い前脚がずっしりと伸し掛かり、至近距離に虎の顔がある。
身体はしっかりと押さえ込まれ、びくともしない。
これまでヒカルと触れ合ってこなかったら、喰われるかと恐怖に凍りついたかもしれないが、心に怯えは少しもわいてこない。
茫然と瞳を見開いたままのアキラの顔をぺろりと舐め上げ、虎は分かったか?というように小首を傾げてみせた。
その仕草は、何度も見てきたものである。同時に、人間のヒカルがアキラによく見せていた動作でもあった。
「進藤…キミは……」
驚愕のままに喘ぐように呟いたアキラに応えるかのごとく、彼を四肢でしっかりと押さえた虎が、同じ過程を経て人間に戻っていく。
出来のいい手品でもイリュージョンでもない。アキラがこれまで会っていた虎は、人間にもなれる能力を持っているのだ。
いや、むしろ逆である。ヒカルは虎に変身する能力を持ち、ずっとアキラの前では虎の姿で傍に居たのだ。
十年もの間、彼は虎の姿のヒカルと逢瀬を重ねていたのである。アキラが人間のようだと感じたのも当り前だ。ヒカルは虎に変身できる
特殊能力を持つ存在なのだから。アキラには虎の加齢と現実の年齢との差は分からない。虎の姿ならばヒカルが普通と違うとすぐには
気付かれない。歳をとらないことが人間の姿なら外見で分かるが、虎などの動物だと専門家でなければ判別は難しい。
アキラを傍に呼び寄せ、彼との逢瀬を楽しみにしながら、ヒカルはこの時をひたすら待っていた。十年もの間。
自分と外見的に彼が同じ年頃になるまでずっと。
人間に戻ったヒカルは艶やかに微笑み、アキラに伸し掛かったまま、ゆっくりと瞳を閉じて顔を近付けてくる。
自然とアキラも応えるようにヒカルを抱き締め、唇を重ね合わせた。最初は触れるだけの柔らかな、羽根のような口付け。
次は少し長くなり、徐々に二人のキスは深くなっていく。舌を絡め、唇をなぞり、角度を変えて何度も口付けをかわす。