屋敷に戻ると同時に、アキラは社に泣きつかれる破目に陥った。
昼寝から目覚めたヒカルがアキラの不在に気付き、散々八つ当たりをされて生きた心地がしなかったと、訴えてきたのである。
「おまえが勝手に出かけたせいで、オレはとんだとばっちりや!」
「悪かったよ、社。ところで進藤は?」
(うわー…その一言で終わりなんや……さすが進藤の旦那やな)
さくっと一言で謝って切り替えるアキラの潔さに半ば呆れ、半ば感心しながら、社は三階の部屋を指し示した。
聞けば今は落ち着いているらしいが、ほんの半時間前まではひどい荒れようだったそうだ。社は見たところいつもと変わりない
ように見えるが、宥めるのに相当苦労を強いられたとのことである。
言葉半分に聴いていた部分もあったのだが、それが事実であると思い知らされたのは、部屋の扉を開けた瞬間だった。
(……本当にこれは凄いな………)
アキラはそっと自分の部屋に足を踏み入れ、余りの惨状に思わず天を仰ぐ。床にはこれみよがしにヒカルの脱いだ服が散らか
され、ジャンクフードの袋や雑誌などが無造作に落ちている。
他にも様々なものが床に散らばり、広い部屋はまさに足の踏み場もないという言葉そのものだ。
まるで置いてけぼりを食らった猫が、主人の留守中に不満をぶちまけるのに、わざと物にあたって散らかしたような状態だった。
他人の部屋によくもここまで物を広げられるものだ。
アキラは溜息を吐きながら床に転がったジャンクフードの空袋をゴミ箱に放り込み、雑誌を拾っては机の上に載せて道を作り
ながら、ベッドに近づいた。
年代物の大きなベッドには、一匹の虎が背中を向け、すっかり不貞腐れた様子で寝ている。
「怒っている」というより「拗ねている」意思表示をしているような、あからさまな雰囲気を醸し出していた。
猫ならばいざ知らず、虎だと妙に迫力があって近寄りがたい。
アキラでなければ、平然と近づいたりできない。彼にとっては、拗ねている虎の様子も愛情の裏返しで可愛いものなのだ。
尻尾は不満を現して鞭のようにしなってシーツを叩き、耳はアキラの足音を拾っているのか、時折ピクリと震えている。
「進藤」
寝転がってはいるが、寝てはいないのだろう。その証拠に、アキラが声をかけると耳が勢いよく動く。
声に反応するのは無意識なのか、何とも可愛らしい仕草だった。
全身でアキラの様子を窺っているのに、素直になれないのか、けっしてこちらを振り向こうとはしない。背中を向けたままだ。
巨体を載せてもびくともしないベッドにアキラは近づき、そっと腰を下ろした。だが虎の姿になっているヒカルはアキラを拒絶す
るように、小さく唸り声を上げる。
けれど本心では構って欲しいのか、尻尾がしなやかに動いてアキラの指先に触れてきた。柔らかな毛に包まれた黄金と黒の
縞模様に縁取られた尻尾を掴んで弄ってやりながら、アキラはベッドに乗り上げてヒカルの顔を覗き込んだ。
虎の眼はぱっちりと開いており、アキラの顔をじろりと睨みつけてくる。普通の人間なら、この目線だけで震え上がるだろう。
野生を強く残した虎の鋭い瞳は、威嚇の輝きを帯びただけで、威風堂々たる威厳を匂わせる。相手を傅かせる畏怖の力だ。
だがアキラは平然としたもので、優しくヒカルの身体を撫で、顔を近付けて大きな唇の端に口付ける。ふさふさとした毛並みは、
猫のように柔らかくて心地いい。暖かな体温が直に掌に伝わってくる。
しなやかな身体を辿るように撫でていると、それだけで尻尾が甘えるようにアキラの腕に絡みつき、喉が鳴りだした。
背中は向けたままではいるが、もう怒りのオーラは発していない。
この様子だとご機嫌は完全になおっているだろうが、念には念を入れて更に耳元でもう一度謝り、真摯な思いを込めて愛を囁く。
すると巨体が寝返りをうち、アキラの身体に伸しかかって、押し潰さんばかりにくっついてくる。
虎の体重に逆らわずにベッドに寝転がり、アキラはヒカルの身体に腕を回した。艶やかな体毛を撫でながら頬を寄せる。
ざらついた舌が顔をぺろりと舐め、肩口にぐりぐりと頭を押し付けてきた。小さく笑って抱き締めると、ふわりと甘い香りが漂って
くる。猛獣とは思えない体臭が何だかヒカルらしくていい。
虎はこれまでの態度が嘘のように機嫌を直し、シーツを身体に引っ掛けたままごろごろと猫のように喉を鳴らして甘えてきてい
た。抱き締めても背中にまでは腕が回せない大きな身体にアキラは半ば埋もれていたが、不意に感じていた体重が軽くなり、シ
ーツの山も萎み始めた。
数秒とかからずに腕には心地よく細い肢体がおさまり、シーツの中からもこりと顔を出したのは愛らしい少年だった。
まだ少し拗ねているのか、薔薇色の頬が膨らみ、桜色の唇がちょっぴり不満げに尖っている。
「ごめんね、進藤。次からはちゃんと声をかけて出かけるから」
アキラが頬と唇に口付けながら謝ると、上目遣いに睨みながらもぎゅっとしがみ付いて離れようとしない。
背中をぽんぽんと叩いて宥めていると、身を無防備に預けてくる。
「……今回は特別に許してやる。次はするなよ」
やがてぼそりと告げた声に破顔し、アキラは大きく頷いた。女王様からお許しを賜った王子様は、にっこりと笑いかける。
「うん。話してから出かけるよ」
「ホントだな?」
「約束する」
真剣に誓約すると、やっとヒカルの顔に笑顔が戻る。
「おまえは絶対に約束は守ってくれるもんな」
「キミとの約束を破る筈がないだろう?」
シーツの中に手を入れて剥き出しの肌を晒しているヒカルの背を撫でながら念押しすれば、益々嬉しそうにしがみついてきた。
そんな事をされると理性が飛んでしまいそうになるのだが、アキラとしては心地よいヒカルの肌に触れられるのは、幸せでどう
にかなりそうなほど幸福感が心を満たしてくれる。
「お詫びと言ってはなんだけど、ケーキを買ってきたんだ」
「ホント?オレケーキ大好き!」
では早速用意しようと、アキラは起き上がりかけたのだが、ヒカルに腕を掴まれてすぐに引き戻された。
身体の上に重みを感じて視線を向ければ、ソウイウコトをする時のヒカルの瞳と眼が合った。
妖しく艶かしい色合いを含ませた目線がアキラを捕らえ、ゆっくりと唇が落ちてくる。
口付けは、ケーキよりもずっと甘くて魅惑的だった。
緒方と芦原は重苦しく黙り込んだまま、韓国人青年への挨拶もそこそこにホテルに戻った。当たって欲しくない時に、勘という
ものが当たってしまうのは何故なのだろうか。
先刻届いたメールには、『クラウン』の求める魂の持ち主が既に日本に居ないこと、そして問題の人物の名が載っていた。
『塔矢アキラ』と。
緒方と芦原が見守ってきた少年の名が、無機的に綴られていたのである。それを見た瞬間、いつもは陽気な芦原ですら、顔色
が真っ青に青ざめ、携帯を持つ手も小刻みに震えていた。内容を読んで、よく動揺に取り落とさずにいたものだと思える。
緒方ですら、声を失くして衝撃からしばらく立ち直れずにいたほどだった。しかし、いつまでも驚いてばかりもいられない。
アキラは既に『クラウン』の守備範囲以内に来てしまっているのだ。
さっき偶然に会った時に何故引き止めて日本に連れ戻さなかったのか。一瞬の出遅れを今ほど後悔したことはなかった。
(いや……もう手遅れかもしれん)
芦原にはアキラの姿が見えなかったが、緒方にはアキラが見えた。
声を聞いて言葉を交わすこともできた。だがしかし、芦原にはそれはできない。アキラの存在を確認できないから。
姿だけでなく、彼にはアキラの声も聞くことはできないだろう。緒方にはその理由が分かっている。対処しようもないことも。
現代の科学でも、遠い昔から連綿と受け継がれている術などをもってしても、人間の力ではどうすることもできない。
『クラウン』と人間との決定的な力の差というものを、知らしめる一つの例でもある。どうあっても人類は、この強大な力には立ち
向かえないのだと知らしめるように。
アキラは十年前からこの国に来ている。恐らく『クラウン』はそれよりも前から準備を始めていたに違いない。
『クラウン』の能力は人間の感覚など及びもつかないほど計り知れないものだ。生まれる前から周到に準備を重ね、薔薇十字団
の眼を完璧に潜り抜けてアキラを呼び寄せ続けた。そうやって着実に、アキラに毒を染み込ませて虜にした。
悔しいが、自分達よりも一枚も二枚も上手なのだ。そして結果がこれである。
アキラは既に『クラウン』のものになってしまっている。緒方に見えて芦原に確認できないということは、これまでの例で考えても
明らかだ。『クラウン』に魅入られた者は存在そのものが確認できなくなる。
伝説通りの実例を、緒方は自分自身で実感してしまった。
十中八九、あの二人の少女は『クラウン』の眷属だ。彼の存在を認めて当然のように一緒に居られる者は、僅かしか居ない。
緒方のようにたまたま『気』の波長が合った者か、『クラウン』本人、そしてその眷属である『四天王』と一族の者達。
これだけに絞られる。それ以外の者は、血の繋がった家族であったとしてもアキラを見つけることなどできない。つまり、敵以外
でアキラを『クラウン』の元から離せるのは緒方だけなのだ。
アキラの傍に居る彼女達が、偶然にも彼と波長が合ったと考えるのは確率的にどうしても無理がある。『クラウン』は一族を傍
に寄せつけないというから、二人は『四天王』の一角という可能性が高い。
既に『四天王』が傍で護りについている点からみて、『クラウン』の虜となっているアキラを保護できる確率は殆どゼロだ。
『四天王』と『クラウン』を相手に勝てる保証はどこにもない。
緒方は唇を噛み締めた。例え勝てなくても、『クラウン』を相手に打ちたくもない大博打を打つ破目に陥りそうだ。
自分とて命は惜しい。『クラウン』の手から生贄を救おうとして失敗した者達の悲惨な末路は、聞くだに恐ろしいものばかりである。
奴は決して自分の手は汚さない。捕まえた暁には、一族の者に薔薇十字団の刺客の後始末を押し付ける。
刺客は一族の者達に生気を吸い取られ、地獄のような苦しみを味わった末に命を落とす。
薔薇十字団の者達はそれなりに特殊な能力を持っているが故に、一族が好む生気を放っているのも災いしているだろう。
奴はそれが分かっていて、最終的な始末は一族にさせるのだ。だが、例えそうなったとしても、緒方にはアキラを見捨てることな
どできない。幼い頃から見守ってきたアキラが殺されるのを、みすみす見殺しにするなど、冗談ではなかった。
寝覚めが悪いことこの上ない。緒方は煙草を揉み消し、考えを纏めるように頭を振った。
とにかく、アキラをどんな方法を使ってでも『クラウン』から引き離すしかない。だが、それが一番の難題でもある。
『クラウン』の誘惑から逃れる術などありはしない。もしも引き離せば、その生贄は気がふれる程相手を求め、やがては狂死に
至る。幸いというべきか『クラウン』がその前に居所を突き止めて、生贄を連れ去るお陰で死人が出たという記録はなかったが、
放っておけばそうなることは火を見るより明らかだ。
生贄を安全のために幽閉したものの、発狂寸前にまで追い詰められ、『クラウン』が姿を現したことで、ほんの数分で精神状態
が安定したという残酷な観察記録も残されていた。
記録を残した者の行方はその後ようとして知れない点から、『クラウン』が一族に命じて粛清したと予想される。
様々な文献を読めば組織が『クラウン』よりも生贄の確保に重点を置いていたことがよくわかる。人間外の相手を敵に回して戦
うよりも、生贄である人間を手許に置いておびき出すことを選んだ。
つまり『クラウン』に心を奪われた者を早めに見つけた上で、半ば強引に保護と称して幽閉するのである。
いわば組織は生贄を人質にとって盾にしたとも解釈できる。その際に手酷い扱いを受けた生贄も数多く居たという。
『クラウン』にしてみればなるべく無傷で健康な状態でいることの方が望ましいからか、回を重ねるごとに周到に素早く奪いにく
るようになったそうだ。中には生贄を殺すことで『クラウン』の再生を阻止することを打ち出す過激な一派も存在した。
考えてみれば、組織のしていることもかなり悪役めいている。お陰で『クラウン』は報復のように人間の命を食らう一族を着実に
増やし、百四十年前の大発生後組織はてんやわんやの大忙しだ。しかし当面、そんな事を気にしている暇はない。
もしアキラを『クラウン』から離せば、彼の精神が崩壊する恐れがあるのだ。緒方としてもそんな真似はしたくない。
それに問題はまだある。アキラの姿が、緒方にしか見えないことだ。これも非常に厄介だった。
誰にも存在を認識されないままでいるのは、生き地獄だといっても過言ではない。アキラを『クラウン』から引き離せば、彼は自
分を認知されないまま一生を過ごすことになる。
それはそれで、アキラを不幸にするだろう。その前に誘惑者を求めて発狂する可能性も高い。
どちらにしろ、アキラが幸福になれる選択はないに等しい。引き離せばいずれは狂死、放っておいても『クラウン』に殺される。
むしろ、恋人の手にかかる方がより幸せなのだろうか?
遠い昔にさる人物が、『クラウン』について一冊の文献にこのような記述を残した。
『彼の者は□□□□□□□□□□□□□である。(□は剥落部分)
美しき者である。
不死の者である。
誘惑する者である。(続けて二行剥落)
わが命である』
記述にそう著した人物こそが秘密結社『薔薇十字団』の母体を作った創始者であり、また組織で初めて『クラウン』の虜となっ
て行方をくらまし、犠牲になった者でもある。そして当時、最高の能力を持ち合わせた最強の退魔士でもあった。
現在、世界で使われている全ての退魔に関する技術を体系化させ、高度に発展させた脅威の天才がこの人物だ。
言うなれば、退魔術の祖である。今現在世界で使われている様々な術式は、彼が作ったものを基礎に各宗教の特徴や民族
文化を組み入れたものであり、独自性など欠片も有りはしない。恐らく、彼という存在がなければ、今の薔薇十字団はなかった
だろう。それどころか、人類は一族に滅ぼされていたかもしれない。
その創始者である彼が『クラウン』に関する記述を残していたのだから、これほど重要で真実味のある文献はないだろう。
文献は幾つかの大切な部分がことごとく剥落し、多くが謎のままであったが、文面を見れば明らかに、創始者が『クラウン』に
心を奪われていたことは確かだ。創始者ですら『クラウン』の誘惑に堕ちたのだから、普通の人間では抗うことなどできまい。
尤も、創始者自らこれでは示しがつかないとして、薔薇十字団上層部は彼の存在そのものを封印してきた。
むしろ封印せざるを得なかった。だが、この話で一番重要なのは別のことだ。
確かに彼は行方を眩ましたが、組織の運営はその後も彼の的確な支持によって行なわれていたという事実である。
姿はないのに、いつも執務室には彼の指示書があったという。
つまり、『クラウン』のモノとなった彼の姿は誰にも見えなかったが、本人は部下の様子をどこかで見て指示を下していた。
奇妙なことに、その後も自ら一族を倒し続けていたという。
『クラウン』は何故止めなかったのだろう?今はそんな事を悠長に考えている場合ではないが、奇異な点だった。
他にも生贄を幽閉して観察記録を残した者には生贄の姿が見えたが、部下にはその姿が見えなかったという記述もある。
様々な記録から、生贄は『クラウン』と何らかの接触を行うと、他人の眼には映らない存在に変化するということが分かる。
どの問題も非常に厄介で緒方としても頭が痛い。
しかし、アキラの命を一番に考えるなら、『クラウン』の傍から引き離すしかないのだ。彼の心を壊すことになっても。
アキラに一生恨まれることになったとしても。