X   メタモルフォーゼ

 煌々と照る月を眺めて、緒方はゆっくりと深呼吸した。決行は明晩、腹は括った。玉砕覚悟で乗り込むしかないだろう。
 
 だがその前に、するべきことが幾つかあった。
 
「芦原、おまえはここに残れ。オレはアキラ君のところへ行く。もしオレが戻らなければ、本部への報告はおまえがするんだ」
 
「……緒方さん!」
 
 緒方の意図を察したのか、青白い顔をしたまま芦原が反駁しかけたのを、目線だけで黙らせる。
 
「いいか、その時はおまえが直接本部へ行って報告しろ。ここからでは危険過ぎる」
 
「それならオレも一緒に…」
 
「おまえにはアキラ君の姿が見えない。行ったところで役に立たん」
 
 手厳しい言葉ではあるが、真実だった。芦原が緒方に同行したところで、何の役にも立ちはしない。アキラを見つけること自体が芦原には
 
もうできないのだから。あの少年の顔も姿も見えず、声すらも自分に届くことはないのだ。
 
「ひどい言い方だなぁ…もう。でもオレだってアキラが心配なんですよ?何言われたって、一緒に行きますからね」
 
 半分泣き笑いのような顔で首を振ると、緒方はぽんと肩を叩く。
 
「芦原…」
 
「しんみりしているところを悪いんだが、オレはどうしたらいい?」
 
 二人は唐突に間に入ってきた声に、我に返って振り返る。今の今まですっかり忘れていたが、この部屋にはもう一人居たのだった。
 
 韓国から助っ人の要請をして呼び寄せた、高永夏である。
 
「あんたの話を聞いていると、あのおかっぱ頭の生意気そうな奴が、『クラウン』に魅入られたらしいな」
 
 その台詞に、緒方も芦原も眼を剥いた。驚いたことに、緒方だけでなく、永夏にもアキラの姿が見えているらしい。
 
「驚いたな…アキラ君の姿が見えたのか?」
 
「当り前だ。それにしてもあんた、たかだか知り合いの為にそこまでする必要はないんじゃないか?命をかけるには軽すぎるぜ」
 
 アキラと関わりのない永夏からすればそう感じるのも無理はない。
 
 しかし緒方も芦原も、彼を小さな子供の頃から見守ってきた。血の繋がりはないが弟のような存在なのである。
 
 勿論それだけでもなく、仕事としての使命感も含まれる。アキラを救い出したいという気持ちは、どちらにしろ嘘偽りない。
 
「それを決めるのはオレであっておまえじゃない。生憎と、オレは知り合いを見殺しにして寝覚めが悪くなるのは真っ平ごめんでね」
 
 緒方に同意するように芦原も頷くと、永夏は肩を竦める。
 
「確かにオレが決めることじゃないな。それであんた達はこれからどうするつもりなんだ?どうやって探す」
 
「アキラ君の携帯には組織の作ったGPSがついていてな。持ってさえいればこちらに位置を示してくれるのさ」
 
 去年の誕生日に明子がアキラ用に携帯を買いに行く際、芦原が着き添い密かに特注の携帯電話を買うように仕向けた。
 
 今回はそれが功を奏したというべきだろう。
 
「なんだ、オレに位置を調べろとか言うのかと思ったぜ」
 
 確かに永夏の能力は群を抜いており、彼の力ならそれくらいのことはできる。だが生憎とその必要はない。永夏には、自分達の行く手を阻
 
む敵を倒す協力をして貰う方がいい。
 
「芦原にアキラ君の姿が見えない以上、悪いがおまえさんにも来て貰うことになりそうだ。嫌なら韓国に帰ってくれても構わない」
 
「『クラウン』を相手にするのはあんただろう?オレはそこまで付き合うつもりはないが、雑魚の始末には手は貸すぜ」
 
 自分よりも年下の癖に随分と生意気な口のきき方だが、今はそんな事を言って余計な時間を潰している暇はない。時は一刻を争う。
 
 クラウンがいつアキラの命を食らうのか分からないのだから。今夜は比較的明るい満月――動くなら今しかなかった。
 
 だが緒方は知らない。いや上層部以外は誰も知りはしない。
 
 創始者が組織を作った当時の理念は、一族を倒すことであって『クラウン』と敵対することではなかった。
 
 長い歴史の流れの中で理念が無視され、やがて忌むべき存在として『クラウン』を敵対視するようになったのである。昨今になって過去の
 
非常に重要な文献が発見され、『クラウン』の力の強大さの裏付けを確信できたからこそ、上層部は暗黙のうちに『クラウン』と距離をとる方
 
針をとっている。当初の理念を遂行する方向に傾き始めているのだ。
 
 ほぼ完全な状態で発見された創始者の文献に残された記述には、こう記されている。
 
 『彼の者は現世を支配する「世界の王」である。
 
 美しき者である。
 
 不死の者である。
 
 誘惑する者である。
 
 気高き者である。
 
 自然そのものである。
 
 わが命である』
 
 「世界の王」が意味するのは神かそれとも悪魔か。
 
 どちらにしろ、上層部が手出し無用の方針を選んだのは、人間の手に余る驚異的な存在と認知したからなのだ。
 
 さる宗教の一派にとって「世界の王」とは、この世界に神や悪魔も全てを作り出した真の創造主を意味する。
 
 この神にとっては、善も悪も最初から意味をなさない。
 
 だからこそ、当初の組織にとって、創始者が愛した『クラウン』は敬愛と同時に畏怖を抱く存在であったという。
 
 自然を操る神を崇めるように。
 

侵入は自分達が考えたよりも、驚くほどあっさりとできた。
 
 元々自然保護区として広範囲に渡っていることもあり、有刺鉄線など物騒で不躾な類のものもない。
 
 定期的に、警備の者が見回りに来る程度だった。
 
 警備員がゆっくりと遠ざかって見えなくなると、緒方は隠れている二人に合図をして森の中に足を踏み入れる。
 
 複雑な地形をしているこの深い森は、夜に近づくものではない。
 
 多くの野生動物が生息しているだけでなく、古くからの原生林に覆われ、慣れない者ではすぐに迷ってしまう。昼間ですらガイドつきでなけ
 
れば立ち入ることが許されない場所である。夜ともなれば、その危険は否応もなく増していく。
 
 美しく輝く満月が木々を照らしているが、葉に遮られて下を歩く彼らの足元までは光は届かない。
 
 足場の悪い道はともすれば転倒などの危険が伴っているが、無粋な三人の闖入者は少しもそんな様子はなかった。緒方と芦原は暗視ス
 
コープをつけて道を危なげなく歩き、永夏は暗闇でも眼が見えるらしく、類稀な美貌を隠す余計な物体をつけずに、平然と足を運んでいる。
 
 彼らにとって問題は暗闇ではなく、その中に潜んでいる者達だった。この森の中に入ってから、気配はいや増すばかりである。
 
 一体どれだけの一族が集結しているのか。
 
 禍々しくおぞましい気配が、人間に反応して徐々に近づいて来ているのが肌に直に伝わってくるようだった。
 
 これほどあからさまに分かるということは、相当数がいる。
 
 森に入るまで気付かなかったのは、『四天王』が結界のようなものをしいて、周囲に出さないようにしていたからだろう。
 
 結界の中に進入したのなら、この森に入った時点で気付かれていてもおかしくない。襲ってこないということは、一族が不法侵入者を始末
 
する役目を負っているのだろう。
 
 ざわざわと肌があわ立つ感覚に、緒方ですら薄気味悪かった。
 
 今までの経験で、これだけの気配を感じたことはない。この多さならば『クラウン』が近くに拠点を構えている確率は高くなる。
 
 一族の者達は、『クラウン』に惹かれて引き寄せられるからだ。
 
 恐らく百や二百ではきかない数の一族が森に集まっているに違いない。遠からず最初の敵と遭遇するだろう。
 
 緒方の予想通り、木々の陰から数人の男が姿を現した。
 
 一見するとそこらにいる不良グループのようだが、醸し出す気配は人間のものではない。外見こそ人間とそっくりだが、中身はまるで違うモ
 
ノだった。人の生気を食料とし、普通の武器は全く効かない不死身に近い肉体を持ち、何百年も生き続ける化物達である。
 
 古くは吸血鬼や鬼として恐れられてきた、恐るべき一族だ。
 
「おいおい、こんな所で何してんだ?」
 
「おっさんが戦争ごっこをする場所じゃねぇぜ」
 
 緒方と芦原が動きやすいように迷彩柄の野戦服のようなものを着ているので、アーミーマニアが遊びに来ていると勘違いしたようだ。
 
 だが彼らは、永夏が普段着のような軽装を着ているのを見て、訝しげな顔をする。今更ながら、この一団の奇妙さに気付いたらしい。
 
「無駄話に耳を傾ける暇はない」
 
 緒方はにべもなく言い放つと、持っていた聖水を男達に投げつける。ただの人間ならば普通の水であるが、一族にとっては熱湯をかけられ
 
たようなものだ。
 
「ぐぁあぁぁぁぁー!」
 
 まともに頭から被った男が、白い煙を顔面からたなびかせながら掌で覆って痛みに絶叫する。
 
 咄嗟に聖水を避けた別の男は、すぐに三人の正体を見極めた。
 
「貴様らローゼンクロイツか!」
 
「ご明察!」
 
 芦原はいつものように軽い口調で応えながら、引金をひく。夜の闇に、低く押し殺したようなくぐもった銃声が響いた。
 
 サイレンサー付の銃は発射の威力こそ落ちるが、大きな銃声で他の一族を呼び寄せることはない。音は彼らの足音に消されてしまうほど
 
小さなものだった。だがしかし、如何に正確な射撃であろうとも、相手はただの人間ではない。銃撃によって額に黒い点が空いた男は吹き飛
 
んだが、すぐ立ち上がって平然と彼らに向かってくる。
 
「あわわわ…銀の玉が効きませんよ〜」
 
「泣き言を言うな、芦原。別のもので試せ」
 
 魔除けの銀が効かない一族など幾らでもいるのだ。この程度のことでびびっていては話にならない。土着の宗教などで、彼らの弱点は変
 
わってくる。それに対応して倒すのが一番だ。違う銃に持ち替えて撃つが、少しも怯まない。
 
 どうやらこの一族の男には銃撃の類は全く効かないらしい。
 
「おっさん達、眼を瞑れ」
 
 永夏の言葉に咄嗟に瞳を閉じた直後、
 
「九天応元雷!」
 
 呪文の詠唱と共に轟音が轟いた。稲妻が走ったような光が、音が消え去ってからも周囲を真昼のように照らし出す。
 
 僅かな光を拾う暗視スコープ越しに見るには強烈過ぎる光だった。閉じていなければ、恐らく彼らの眼は眩んでいただろう。
 
 閉じていた瞳を恐る恐る開けると、一瞬の放電が収まった後、白い灰のようになった一族の者達が、風に流されて森の奥へと消えていくの
 
が見えた。まさに一撃必殺の技だ。
 
「驚いたなぁ……」
 
 相当な使い手だと聞いていたが、予想以上の強さである。ぽかんと口を開けて、芦原は長身の永夏を見上げた。
 
 緒方ですら感嘆の吐息を零したのに、永夏は軽く鼻を鳴らしただけだった。彼にとってはこの程度のことは、造作もないらしい。
 
「だが…少し派手にいき過ぎたな。奴らが集まってくる」
 
 銃以上の音がした上に、あれだけの閃光だ。一族の者達が気付いて向かってくるに違いない。
 
「オレとしてはこれでも押さえたつもりなんだぜ」
 
 緒方の指摘に悪びれた風もなく、永夏は肩を竦める。一言何か言いたい気分ではあったが、こんな所で立ち止まっているわけにはいかな
 
い。奥へ行けば行くほど、一族の数は増えるだろう。そうなってくると派手も地味も関係ない。倒すだけだ。
 
 今の相手はかなりの雑魚で、まさしく下っ端だ。恐らく一族として生きてきた時間は百年にも満たないに違いない。
 
 一族の者は生まれた時から目覚めている者もいるし、後天的に目覚める者もいる。長く生きる者ほど力は強くなり、生まれて間もない者
 
ほどその力は弱い。それぞれに何らかの特性があり、宗教や生まれた環境などで弱点を持っている。
 
 その弱点をつきさえすれば、倒すのは困難ではない。だがしかし、弱点を見つけることができなければ、先刻の芦原のように、致命的なダ
 
メージを与えることは難しい。余程強力な武器や兵器でないと、凄まじい再生力に阻まれてしまう。
 
 弱点などを完璧に無視して、灰になるほどのダメージを与えた永夏の術は、つまりそれだけ威力が強い現われなのである。
 
 相手が弱かったからこそ攻撃に効き目があったのも確かだろうが、やはり本来の永夏の能力の高さがなせる業だろう。
 
 いかに不死身に近い肉体を持ち、また長い年月を生きる力を持っていても、生き残ることができなければ弱い雑魚ということだ。
 
 先ほどの一族でも少し強めの相手も居たが、たかだか三百年生きた程度では、彼らの中では大物とはいえないだろう。
 
 薔薇十字団で上級クラスと分類されるのは、基本的に千年以上生きている一族になる。このクラスになってくると、知恵もついて恐ろしくし
 
たたかに立ち回るのだ。上級になってくると、見つけることすら至難の技である。
 
 彼らの賢い点は、一族を好まない『クラウン』に下手に近づき過ぎず、距離をとって取り入る面だ。また気配を殺して薔薇十字団の目もくら
 
まし、人の中に溶け込んで静かに動く。もしもここに『クラウン』が来ているのなら、殆どの上級クラスは居ないとみるべきだ。
 
 彼らは『クラウン』の逆鱗に触れないように、わざと同じ国に入りすらしない。知恵が回るからこそ、雑魚のように光に惹かれてふらふらと近
 
寄るような真似はしないのだ。だから、この森に居る一族の数は多くても、梃子摺るような強敵はいない。
 
 問題があるとするならば、それは『クラウン』と『四天王』だ。そしてそれが一番、厄介なのである。
 
 唇を噛み締めて、満月を見上げた。これはまだ始まりに過ぎない。
 
「急ごう、アキラ君は南西に移動している」
 
 衛星から送られてくるGPSの信号を見ながら促すと、緒方は草を掻き分けて再び歩き出す。
 
 禍々しい気配の多くは、着実に彼らに近づきつつあった。
 



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