金属的な剣戟とは違った、乾いた木と木のぶつかり合う音の合間を縫うようにして、女性の声が通る。
「道徳様、お茶が入りましてよ」
飛虎の友人である女性に呼びかけられ、道徳は天祥との打ち合いの手を止めた。女性に女性に軽く頭を下げて礼を言うと、
目線を合わせて天祥の顔を覗き込む。
「天祥君、一休みしようか」
「ええ〜!?もうちょっとしようよぅ」
道徳は不満げに唇を尖らせている少年に笑いかけ、困ったように首を傾げてみせた。
「お菓子も今朝沢山作ったんだけどね。天祥君はお腹とかすいてないかい?」
つい今しがたまで模擬戦を続けたがっていたのが嘘のように、天祥は『お菓子』の言葉を聞いた途端、父の待つ茶の席へと
一目散に走り出す。道徳はその後姿を眺めながら、天祥の放り出した槍代わりの棍棒と自分の木刀を手近な岩に立てかけ、岩
の後ろにある繁みに何気なく声をかけた。
「太乙、気配を殺すならもうすこし上手くしろ」
「私が君みたくできる訳ないだろ」
姿を見せずに答える同僚に苦笑し、木刀と棍棒をの手入れをするふりをして、繁みに背を向けたまま腰を降ろす。太乙が姿
を現さず、こんな所から声をかけたのは、あの女性集団に捕まったら最後だと十分察しているからだ。
太乙ほどの美形だと、女性陣が黙って放っておいてくれる筈が無い。一言挨拶をしただけで、1週間は女性達から開放され
ずに話し相手をする破目になるだろう。
いかにお喋り好きな太乙といえども、女性集団にたった一人で立ち向かうのは至難の業である。
何せこの辺りは見通しのよい野原に小川、木陰のできる木が適当に散在し、茶を楽しむ場としてこの上ない場所だ。
武成王府では少し手狭な為、天祥との稽古方々飛虎と共にやってきたのはいいが、程なくギャラリーに囲まれ、あれよあれ
よというまに四大金剛の婦人方が茶席まで設けてしまっていた。
道徳は周の人々の『どんなことでもお祭り騒ぎにしてしまう性分』というものを改めて認識したのだった。
のんびりと布で木刀を拭きながら、道徳は背後の繁みに低い声で尋ねる。
「用向きを伺おうか?」
「天化君さぁ、凄く参ってるみたいなんだよねー」
「……だろうな。思い出を大切にするのも大事だが、それに縋って不安を感じるとはねぇ…。あの子も成長したよ」
「あれま、教えてあげようと思って来たのに。………君って時々ヘンに鋭いんだから。何で分かったわけ?」
「ナイショ」
「………………………いけず」
「用はそれだけか?」
「ううん、一つ忠告。天化君相当夜泣してるよー。帰ったら干乾びちゃうぐらい頑張らないと、許して貰えないと思うな。地
上に下りて体力蓄えといて正解だったね。日数空けた分のしっぺ返しがきついだろうからさ」
木刀を取り落としそうになった道徳を尻目に、太乙はしてやったりとニンマリほくそ笑む。天化の気持ちを掴めたとはいっ
ても、コッチ方面に関しては頭が回らなかったらしい。
太乙は呆然と微かに青ざめている道徳に、せいぜい頑張りなよと一声かけて、繁みに隠れたまま移動し始めた。草の塊が高
速で移動する様は奇妙としかいいようがない。
完全に面白がっている太乙を恨めしく思いながら、道徳は重い腰を上げる。明日早々にでも帰った方が無難かもしれない。
いくらなんでも、干乾びるのは嫌だった。
「………素敵よねぇ……」
「若くて強くて顔も良くて、気配り上手で性格だって申し分ないし………」
木刀と棍棒の手入れを終えてこちらに向ってくる道徳を眺め、婦人方は頬を微かに赤く染めてほうっと溜息を吐く。
その姿を横目で見、飛虎は良心の呵責に苛まれて吐息を零す。外見はともかく実年齢は爺どころか化石かも知れない上に、
友人の息子とは真っ赤な偽りで、本当は息子の師匠だったりするのだ。
人間界の服を着込み頭にいつも巻いているバンダナを外すと、道徳は普通の人間の範疇に収まって見える。まあ、本人もそ
う見せるようにしているらしいのだが。
本人の希望で臨時雇いの使用人として紹介する筈が、紹介する前に誰もが道徳のことを身分の高い武人だと思い込んでしま
い、結局友人の息子がしばらく滞在しに来ている、と誤魔化し現在に至っている。大体からして道徳の見目もかなりのものだ
し、服装も使用人として紹介するには仕立ても良過ぎた。雰囲気も堂々としていて、とてもではないが使用人には見えない。
友人の息子だと紹介した方が、遥かに周囲が納得するというものだ。
彼女達には分からないだろうが、天祥に稽古をつけれる時点で道徳は明らかに他の人間とは違うことを如実に表している。
同じ天然道士かそれ以上の存在でなければ天祥の相手は務まらない。
それにしても、道徳が一人で訪ねてくるとは非常に珍しい。天化に洞府で一人暮らしを経験させたいとのことだったが、こ
れは表向きで喧嘩をして追い出されたか、家出してきたかのどちらかだろう。夫婦喧嘩じゃあるまいにこんな事で洞府を出る
とは、仙人なのに道徳は妙なところで人間臭い。まあ、そんな道徳だからこそ天化を預ける気になったのだ。
今回天化が一人を経験するのも良いことだ。いつも当たり前に傍に居てくれる人が居なくなる。その寂しさを味わうことも
一つの修行なのだから。
ふと、亡き妻と妹のことを考えてしまい、ふうっと大きく息をつく。忘れようとして忘れられるものではない。
天化にはあんな思いはさせたくなかった。ちょっとした仲違いがそのまま永遠の破局に繋がることもある。尤もあの師と弟子
にはとてもではないが有り得ない話しだし、きっとちゃんと仲直りするに違いないが。
「急なんですが、明日にでも洞府に戻ろうかと思っています。長い間お世話をかけて申し訳ありません」
夕食を食べ始めようとしたところでの、道徳の言葉に全員が鳩が豆鉄砲を食らったように瞳を見開いた。だがそれも束の間、
天祥が引き止めたがってすぐに駄々をこね始めた。
「剣術の稽古とか、もっと遊んでくれるって言ってたのに。兄様が迎えに来るまで居てよー」
自慢の兄が尊敬している師は天祥にも興味のある存在なのだが、大抵道徳は天化の送り迎えに顔を出すだけですぐに帰って
しまう。たまに滞在しても殆どの時間を天化と飛虎に独占されて話すことすらままならない。今回のように天化が居ない状態
で降りてきて、自分に稽古をつけてくれたりするなんて滅多なことではないのだ。
それに、彼がここに居れば大好きな兄も顔を出しに来てくれることも天祥には分かっていた。
「道徳殿にお薦めの酒が酒があるんで今取り寄せてんだよ。後2、3日ぐらい構わねぇだろ。何なら天化を呼べばいいんだし」
飛虎も道徳が降り立った日に注文した酒が近々着くとの報告を受けたばかりで、昼間天化を心配したことも忘れ果て、天祥
と一緒になってぶうぶうと子供のようにごねだしている。飛虎にとっては自分と同等以上に酒を飲める相手がそうそう居ない
(大抵の相手が先に酔い潰れる)ので、道徳が降りてくると珍しい酒を取り寄せ、大喜びで酒肴を楽しんでいたりする。
予想外の二人の反応に道徳は何と言ってよいものか口ごもった。居候の分際でここまで長居するつもりも無かったのだ。
「道徳様がお困りですよ。お父さんまでそんな我儘を言わないで下さい」
見かねて長兄の天禄窘めると、飛虎も天祥もムッとしたように睨みつけてきた。それでも天禄は平然と知らぬふりをつきと
うしている。伊達に黄家の長男をはっているわけではない。母が亡くなってからというもの、男所帯で何かにつけて大変なこ
の家を長兄として切り盛りしてきたのだ。近所付き合いから父の秘書まで、その内容は千差万別で結構大変なのである。
使用人がいるとはいっても、何から何までして貰えるほど贅沢な家ではないのだ。少なくとも自分達の身の回りぐらいは何
とかしなければならない。四大金剛の婦人方に、男では余りできない裁縫などに関してはかなり手伝って貰っているものの、
それが問題ではないほど彼は精神的に鍛えられている。天然道士の一睨み程度ではびくともしない。
男所帯で弟達の面倒を見ながら父親の補佐をするからには、影は薄くても結構ツワモノな天禄だった。
「道徳様は天化のお師匠様なんですよ?仙界でのお仕事もあるでしょうし、お引止めしてはご迷惑です」
「なんだよ天禄。お前だって料理や掃除・洗濯とか裁縫とかまで毎日やって貰えて大助かりだって言ってたじゃねぇか。俺達
が交代で作ってたメシと違って美味いし、栄養も満点だってよ。使用人の手が回らなくて荒れ放題だった庭はキレイになって、
ちらかってた部屋も全部片付いたし良かったって。それにお前、道徳殿が女だったら、天化の嫁さんとして来て貰えたのにっ
て確か残念がってたろうが」
「それはお父さんの台詞です」
「お前だって」
「お父さんですよ」
「二人とも言ってたよ。天化兄様は亭主関白なところがあるし、夫を立てといて、影ではしっかり手綱を掴んで主導権を握る
人がお似合いだから、道徳さんが女の人なら良かったのにって」
子供はとても正直だった。親子が二人揃って赤面して俯く姿に、道徳は己れが周囲からどう見られているのか理解した。
天化にも昔、嫁にするとか言われたな、と思い出を振り返って自問自答してみる。夜の生活においては嫁ではない。では、
男がおさんどんが得意だと変だろうか?だが父は家事をする傍ら、剣を取って闘っていた。
自分の一族ではこれが当たり前で、母はおさんどんなど何一つせずに戦場で戦うのが常だった。それに道徳の一族の訓戒は、
男は女に尽くし捧げよ、だったのである。大体からして、母がきまぐれでおさんどんをしたりしたら眼もあてられず、家の中
はメチャクチャになって却って迷惑極まりなかったのだ。
そう言えば、族長として多忙な母と共に他所の家を見回った時思ったものだ。何故他所の家では母親が家事をしているのだ
ろうと……。齢数千年にして、若くして亡くなった父親と自分の行動が、世間一般とかなりずれていることに気がついた清虚
道徳真君だった。しかしながら、今更そんな事を言っても仕方ないだろうが、それがどうした!と逆に開き直るのが仙人様の
することなのである。
「天祥君、今度は天化兄様一緒に来るから、3人で剣術の稽古をしよう。武成王殿のお薦めのお酒はその時にでも」
穏やかな笑顔でそう諭されてしまっただけでなく、あんな事を本人に聞かれてしまうと立つ瀬がないこと甚だしい。今後の
ことを考えると引き止めたいのは山々だが、やはり決まりが悪い。この清潔で男所帯のむさくるしかが感じられない状態がそ
う長く続かないことを彼らは経験的に分かっていたのだ。
誰でもいいから早く嫁さん貰わんかい、と家族全員が牽制の目線を互いに向け合っていたことを、一応のところは客人扱い
である道徳は見て見ぬふりをしておいた。