「……コーチ遅いさ………」
時計を何度も見て、携帯を取り出しては止めるという動作を繰り返す。
さっきから何度も色んな人に声をかけられて、天化はいい加減うんざりしていた。声をかけてくる人物の種類は様々で、どこぞの親父
から女子高生、自分は男だというのに、男もちらほらいて実にうっとうしい。
昨夜道徳と約束した時間から5分しか経っていないのに、気になって気になって仕方なかった。道徳の性格上、すっぽかすような真似
はしないと分かっているが、それでも凄く不安だ。
『夕方6時半に駅前の時計塔広場でな。スーツといかないまでもそれなりの格好で来るように』という、道徳の言葉を反芻し、自分の格
好をもう一度確認する。そうしながら何となく彼のことを考えていると、昨日店での自分の行動が唐突に思い出されて赤面した。
堂々と店でキスをしてしまうとは、我ながらなんて大胆な真似をしたのかと後で後悔の嵐だったが、あの時は羞恥心などどこかに飛ん
でしまっていた。気がついたら口付けて、食事に行くことに同意していたのである。
天化としては一緒に居られればファミレスやファーストフード店で十分良かったのだが、道徳が予約したのはどうやら高そうな店のよう
で、汚せない結婚式用の服を着る羽目になってしまった。あっさりと1件目で『予約したぞ』だなんて言ったから、てっきりどこかの居酒屋
だろうと思ったのに、まさか高級料理店とは意表をつかれた。その後も道徳は何本も電話をかけていて、忙しそうにしていたからどんな
店なのか聞きそびれてしまい、有耶無耶のうちに今日を迎えたのである。
両親は、道徳から食事マナーも教えて貰えて良いなどとお気楽なことを言っていたが、今の今までそんな敷居の高そうな店に入った事
すらない天化は恐怖すら感じる。人生の中で一度はこんな経験をしておけば、後々慌てなくて済むだろう、と自分自身に言い聞かせなけ
れば、とてもではないが逃げ出したくなりそうだった。
駅前にあるオベリスクのような形をした時計塔は、待ち合わせ場所としてよく使われている、夕方の6時半という時間帯は特にカップルが
目立つようだ。今日は平日であるにも関わらず物凄く多い気がする。どこを見ても二人連れの男女ばかりだ。きっとバレンタインデーだか
らだろう。しかも今夜は雰囲気よく白い粉雪が少し舞い、どこかロマンティックな感じがする。
そんな中に一人置いてきぼりにされた気がして、俯いて足元にある石ころを所在なげに転がしていると、不意に周囲がざわついた。
一体何事だろうと顔を上げてみて唖然とする。
一人の男が天化の眼の前に立っていた。彼にしては珍しくスーツを着込み、ネクタイをきっちり締めた白いカッターが暗い夜に鮮やかで、
加えて黒のトレンチコートとグレイのマフラーの取り合わせが実にいい。
時計塔広場でこうしてただ立っているだけで、周りの視線は彼に釘付けだった。
レトロな街灯の光と明るく輝く満月を背に受けて、手に持つ大きな花束を肩に軽く乗せ、口元に笑みを笑みを浮かべる様は物凄く似合っ
ていて格好良い。黒い髪に隠れて花が見えないところが、受け取る側に期待感を与えて焦らすようで妙に映えている。微かに舞う雪が、
存在感を更に際立たせていた。
トレンチコートの襟に掛けただけのマフラーが風に揺れたのを合図に、男は肩から花束を下ろす。
「遅れてごめんな。これは俺からのバレンタインプレゼント。確か天化はひまわりが好きだったよな?」
ぽかんとしたままでいる天化を道徳は首を傾げて覗き込むようにして見下ろし、花束を少年の腕の中に渡した。
「……あ……ありがとさ………」
周囲の女達から発せられる殺気の篭もった視線にも天化は気付かず、彼に瞳を奪われたまま花束を受け取る。
「俺が花束を渡すなんて柄じゃないって分かってるけどな。この季節珍しいからつい買っちまった」
照れから弁解めいたことを言う道徳の声も耳に入らない。それ程天化は茫然と見惚れていた。日頃見せるスポーツウェアや簡単な格好
ではなく、洒落た服を着た道徳は雰囲気が随分変わり、いつもよりもずっと大人びた印象で素敵だった。
しかし道徳からしてみると、突き刺さってくる視線が気になって仕方がない。いつもは鈍感で視線自体に気付かないのだが、今日は周囲
の人数が多いこともあるせいか、いかに鈍い道徳でも分かってしまう。
出掛ける時は大抵、隣だし天化が呼びに来るか、道徳が車を出して天化の家の前で待つかと相場が決まっている。こんな風に待ち合わ
せをすること自体滅多にないのだ。加えて道徳は自分の容姿に対してかなり無頓着で、人並以上にイイ男であるという自覚がまるでない。
別名美形商店街の異名を誇る崑崙商店街で店を構えていたら、容姿に関して何とも思わなくなるのも当然かも知れないが。
「さあ行くぞ。予約の時間に遅れるからな」
視線に晒される居心地の悪さに、惚けたように突っ立っている天化の手をぐいぐい引いて行く。一方天化は突然腕を掴まれてどきりと胸
が高鳴り、人込みの中を掻き分ける道徳の後を頬を染めたまま、俯いきながらついて歩いた。
彼らが立ち去った時計塔の前には、雪のちらつく季節には鮮やかな、黄色い花びらが一枚残されただけだった。
ディナーは食前酒・前菜・スープ……と続いて後はデザートを残すのみとなっていた。尤も食前酒は未成年の天化のことを考えて、ノン
アルコールのシャンパンを道徳が頼んでくれていたが。こういう店に来るのが初めての自分のことも道徳は分かっていて、メニューを見て
眼を白黒させているとシェフの変わりに料理の説明もしてくれ、お陰で天化はすんなり決めることができた。
さぞや堅苦しい所だろうと思っていたのに、意外なほどしゃちほこ張った感じでなくてほっとする。
『食事ってのは楽しんでするもんだからな。形式に囚われ過ぎてちゃ美味いメシを味わっても、美味くかんじられないもんなんだよ。味わっ
て食うことが店に対するマナーだと俺は思うがね』
先刻メインの肉料理が運ばれてきた時、上手く切れなかったらどうしようと固まってしまった天化に、道徳は切りやすくなるコツを教えて
くれながらそう言った。いつも彼はさり気なく天化の感じていた重荷を取り去って楽にしてくれる。こんな事ではいけないと思いつつも、つい
つい甘えてしまう自分が不甲斐ない。それでも道徳と食事を楽しめるのは幸せで、もう少し甘えさせて貰おうと現金にも思ってしまう。
「デザートでございます」
眼の前にアイスクリームとケーキの盛り合わせが置かれ、天化は瞳を輝かせる。今夜はバレンタインデーということもあり、2種類のケー
キのうち一つはザッハトルテだった。
「あれ?コーチはデザート無しなんさ……?」
コーヒーのみしか運ばれてこなかった道徳を見て、不思議そうに首を傾げる。同じようにコース料理を注文した筈なのに、道徳には何も
無くて自分にはたっぷりのデザートというのはどう見ても変だった。
道徳は天化の疑問にもさして気にした風もなく、コーヒーを一口飲んであっさり答えを引き出してみせる。
「まあな。俺の分は天化の更に乗せてもらうように頼んだんだ。調理師免許を取る時にこの店でバイトをしてたし、オーナーともシェフとも
知り合いだ。多少の無理は聞いてくれるんだよ。まけてくれねぇけどな」
まけてくれないというところに少し恨みがましげな響きが篭もっていて、天化は小さく吹き出す。道徳には悪いが、二人分のデザートを食
べられるだなんて幸せの極致だ。それに店側はケーキの種類や盛り付けを変えたりしてさり気なく配慮してくれているらしく、二人分を乗
せているようには見せていない。
「ふーんそうだったんか。俺っちはデザートが沢山で嬉しいから、ここには何回も来たいさ」
「おいおい天化、この店は結構高いんだぞ。そんなにしょっちゅうは無理だからな 」
「ちぇっ!コーチのケチ」
「ケチでなくて店の経営ができるかよ。……言い忘れてたけど、部屋とってあるし今夜はホテルで泊まりな」
さらりと告げられて眼が点になる。何十秒もかけてやっと理解した時、天化は驚愕に顎を落としそうになった。
「ホ……ホテルって……。なんでそうなるのさ…!」
小声で話すことができたのは奇跡だったように思う。もう少しで大声で騒いでしまうところだったのだから。
「ディナーの後、デートの締め括りはホテルと決まってる。バレンタインデートをするからには、セオリー通りにいかなきゃな。どうせ明日
も入試で休みだし、構わないだろ」
「……そりゃ休みは休みだけど………」
「なら決まりだな。ホテルといってもラブホじゃなくてちゃんとしたところだし、安心しとけって」
(それが余計に恥ずかしいのさ!)
道徳とそういったことをするのはいつも彼の部屋で、旅行に行かない限りホテルでしたことはない。ラブホ自体一度も使ったことがない
上に、こういった目的でまともなホテルだなんて驚きを通り越して魂が抜けそうだった。旅行にだって冬休みに行った一度だけなのだ。
昨夜何件も電話をかけていたのは、きっとホテルの予約の為に違いない。してやられた!と思っても後の祭りである。
「言い忘れてたけど、部屋は一応ツインな。ダブルの方が良かったか?」
完全に面白がっている道徳をギロリと睨みつけ、底に残っていた紅茶を一息に飲み干す。デザートのケーキを食べてからでよかった、と
天化は心底思った。食事の途中でこんな事を聞いていたら、きっと食べるどころではなかっただろう。
この周到さから考えて最初からそのつもりだったに違いない。道徳の掌の上で一人やきもきしていただけだったとは悔しくて堪らないが、
それでもこうして考えてくれていたことが嬉しくて仕方がないだなんて、本当に自分はおめでたくできている。
(……思った通り驚いてるな……素直な奴)
道徳はというと、予想通り一人で百面相をする天化の反応を悪趣味にも楽しみながら、困った顔がまた可愛いんだよなと、内心悦に浸
りながらシャンパンを傾けていたのだった。