夏の暑い盛りにべったりとくっついて手を握り合い、身体を密着させ、挙句の果てには浴衣の人物はアキラにたこ焼きを食べさせ
てやったりするしで、一体どこのバカップルだと殴ってやりたいほどだったのである。
因みに、それを見ていたのは日高だけではない。部長の岸本と同じ部員の青木も一緒に見たのだ。
何せ、あの堅物で真面目で頑固者の塔矢アキラが、恋人と思いっきりイチャイチャしながら夏祭りを堪能している姿なんぞ、誰に
も想像すらつかないに違いあるまい。元々根が生真面目な岸本が顎を落とさんばかりに驚いたのも無理はなかった。
しかし後で日高、岸本、青木が目撃したのはこんな程度のものではなかった。
祭りの喧騒から離れた神社に偶然訪れた彼らは、そこで更にとんてもないものに出くわしたのだから。
岸本がアキラに対しての態度がよそよそしくなった根本の原因はそれだったのである。
塔矢アキラが青い浴衣の人物に愛を告白し、口付けをかわして、あまつさえ押し倒した現場に遭遇した彼らは、丸ごと全部眺める
こととなってしまったのだ。幸いにも、アキラは外で全部することはなく、キスをして浴衣の裾を捲ったところで留まってくれたが。
いくらなんでも初体験を屋外でするのはマズイと誰でも思う。先輩方もまた、後輩の濡れ場を見なくて済み、心からほっとしていた。
理性を取り戻したアキラを褒めてやりたかったほどだ。とはいえ、日高にとっては最高の見是場でも、告白現場とキスシーンを合
わせて目撃したのは、男性陣二人にはかなり気まずいものを残したのだった。
その後二人は彼らに気付かずにさっさと帰宅して、残された三人は三者三様の思いを抱いたのは言わずもがな。
これらを不可抗力とはいえ覗き見してしまった岸本は真面目な性格が災いし、物凄い現場を見た罪悪感に苛まれ、アキラに合わせ
る顔がないとないと相当戸惑っていた。それが結局今日にまで響いているのである。しかもその場のノリで、日高と岸本はアキラが『お
持ち帰り』をして一線を越えるかどうかの賭けまでしてしまい、この結果が更に岸本に追い討ちをかけていた。
日高配下(彼女の勝手な決めつけ)の津川と中村というアキラの幼馴染の遊び半分の電話により、二人が夏祭りの夜に一線を越え、
アキラが持ち前の攻め碁通りに『お持ち帰り』を決行した事実が判明したのだから。
年下で後輩のアキラが大人の階段を一歩先んじて上ったという事実は、先を越された先輩二人にとってはちょっとどころではなくか
なり難解で、複雑な心理的影響を及ぼしたのは想像に難くない。二人の心情は祝福する反面、羨ましさと共に微妙な物悲しさを感じ
るものだったとしても、無理はなかった。
賭けは日高に軍配が上がり、勝利の二文字を手に入れた彼女はジャンボフルーツパフェに舌鼓を打ちつつも、新情報を有効に使お
うとアキラに会う機会を探っていた。何故なら、日高は知っている。アキラの愛しい想い人が誰なのか。岸本も青木も、幼馴染の津川
と中村さえも知らない浴衣の人物の正体を。
日高はこれをネタに、アキラを少しばかりからかってやろうと手ぐすねを引いて待っていたのだから。
彼女はある部分で、某緒方精次十段・碁聖と非常によく似た精神構造をしているらしかった。
それだけにさっきのアキラの反応はつまらない。どうせならもっと色々焦っている姿を見なければ、楽しくないのだ。日頃から冷静沈
着で取り澄ましている感すらある、囲碁界の王子様は揺るがない力強い攻め碁で有名だ。しかしそんな彼が慌てたり焦ったりする、
素直で可愛らしい一面を見られるというのは、この上ない娯楽の一つなのだ。
「あの子って、塔矢が二年前から付き合っている子でしょ?」
この発言には、さしもの塔矢アキラの営業用ポーカーフェイスも綻び、顔に微かだが赤みがさす。
「二年前は一緒に夏祭りに行っただけです」
「あら、そうなの?けど、今はもう付き合っているでしょ?……『浴衣の君』と」
『浴衣の君』という単語を聞いた瞬間、アキラの表情は一変する。
人形めいた白皙の頬は鮮やかな薔薇色に染まり、瞳は動揺に微かに揺れ、もの言いたげな唇は言葉を紡げずに戦慄いていた。
『浴衣の君』とは、津川と中村が二年前の夏祭りで日高が見かけた人物を、アキラの恋人と勝手想定し、つけたニックネームだ。
彼らがこんな奇妙な呼び名を考えたのは、アキラが一向に相手の名前の片鱗すら窺わせない警戒ぶりだったことと、いつまでも
『あの子』では味気ないので『浴衣の君』なる名をつけた、という経緯がある。確かにアキラがずっと『浴衣の君』に強い執着を抱いて
いたのは事実だが、その頃はまだ中学二年生で恋を自覚するにはまだ少し早い時期だった。頑固者のアキラが必死に認めずにい
た内にある愛情に気付くのはもっと後で、互いの距離が縮まるようになるのには更に時間を要した。
その間には色々なことがあった。想い人は囲碁を捨てようとするほどに苦しみ、絶望を乗り越えてやめないことを決意し、互いに向
かい合って力を高めあい、今は一緒に歩いている。北斗杯を経て絆も深まって、共に居る時間も今までより増えるようになったもの
の、まさか日高にまで夏祭りの情報が筒抜けだとは思いもしなかった。
(津川…中村……さては日高先輩に逐一報告していたな)
内心臍を噛むアキラに応えるように、日高は手の甲を口元にもっていって高らかに笑う。
「あいつらにしては上出来よねぇ?あんたの恋人のニックネームに『浴衣の君』とはよく考えたものだわ」
「こっ恋人って…………」
意識しなくても返す言葉はどうしても小声になってしまい、分は益々悪くなっているが、アキラは頬を赤らめてついつい俯いた。
確かに世間一般で言う通りの関係でもあるものの、そうなってからまだ二ヶ月にもならない。恋人などと言われるのはかなり気恥
ずかしい。普段も全く恋人同士らしくもなく、好敵手としての付き合いがそのまま一緒くたになっている傾向が高い。
互いに棋士で囲碁馬鹿なのだからその点は当然である。しかし、本人同士は全く気付いていなくても、二人の醸し出す雰囲気は
十二分に甘ったるく、周囲には傍迷惑な程なのだが。囲碁バカップルと密かに囁かれているとは、知らぬのは本人ばかりなり。
これで全く馴れ合わず、それどころか凌ぎを削りあう関係であるというところが、不思議な点である。
盤上での彼らの戦いは、まさに決死の覚悟と勢いで互いの息の根を止め合おうとしているようにしか見えない。それほどに激しい
戦いを経て尚、二人は向き合い続けている。
幸いといおうか、日高は自分の楽しみは独り占めにしておきたいタイプであったので、彼女以外にアキラの変化に関心を寄せる者
は居なかった。対局を終えた部員は下校までの時間を有効に使おうと、次の対局を始めていたお陰で、アキラがうろたえる様を眺
める観戦者は日高ただ一人であった。アキラの反応に更に気を良くした日高は、どんどん容赦なく畳みかけていく。
「恋人同士だしすることはしてんでしょ?あんた、ちゃんとつけるものはつけてる?デリケートなところなんだから、気をつけないと後
が大変になるのよ」
日高が何を言わんとしているのか、分からないアキラではない。彼女が言いたいのは、男としてのエチケットである避妊具につい
てのことなのだろう。既に肌は何度も重ねているアキラには見に覚えが有り過ぎて、生々しい言葉に頬が一気に血が上った。
ついでに、想い人が十六歳の誕生日を迎えた日の一夜も思い出して焦る。想い人の綺麗な姿が鮮明に脳裏に蘇えって、自然と
アキラの首筋にまで赤みが増し、瞳も濡れたように微かに潤んだ。焦って思い出すまいとすればするほど記憶は鮮やかに描き出
され、更に慌ててしまう。あの夜の想い人はとても感じ入っていて、アキラの腕の中で身をくねらせ、甘い声をあげては縋りつき、艶
かしい姿を存分に堪能させてくれた。どっちの誕生日なのかと思えるほどに、充実した一夜だったのである。
あれから何度も夜を過ごして、回を重ねるごとに反応はよくなっている。それもあってアキラも飽きることなく求めてしまうのだ。
「な、な、な、何を仰っているのか……」
今更誤魔化しても遅いというのに、遅まきながら往生際悪く白を切ろうとする。
だが日高はそんなアキラを無視して、彼の言葉を遮って続けた。
「これは先輩としての忠告よ?あれから二ヶ月近くになるとはいっても、あんたもまだ未成年だし親が家に居ないからって、あんまり
羽目をはずし過ぎないようにしなさいね」
日高の台詞に、アキラは自分が告白したことはおろか、閨も共にしていることすらすっかりばれているという事実を、存分に思い
知らされた。いくら津川と中村からつきあっていると知らされていたとしても、余りにも確信めいている。
この口調だと、彼女はアキラが告白した時期がいつなのかも知っているように聞こえる。
例え幼馴染でも、プライベートな件をそこまでし詳しく話していない。付き合っているなら肌を重ねるのも当然だから予想できるに
せよ、一体どこから告白と初体験が同時期という細かな情報を手に入れたのか。
さしものアキラも、自分の告白現場を日高に目撃されていたとは思いもよらず、度肝を抜かれて絶句した。
そんなアキラの様子にすっかり日高は満足し、楽しげな笑みを浮かべる。
「まあ、せいぜい気をつけなさい。『浴衣の君』と仲良くね」
「はあ……」
ぽんと肩を叩いて茫然と生返事をするアキラに最後の忠告をすると、日高はさっさと席について次の相手と碁を打つことにした。
今頃アキラは有能な頭の中であれこれとぐるぐる考えているだろうが、そんな事はどうでもいい。立ち直りの早いアキラは三分もす
れば元通りに戻るのだから。次にアキラをからかう時のために、全部のネタを一気に使うの勿体ない。どんな事でも引き際が一番肝
心だ。日高はしっかりと算段すると、次の計画を考えて一人ほくそ笑んだ。
一方アキラは、彼女の思惑通りに秀麗な額に皺を寄せて、半ば現実逃避をしつつ考え込んでいた。碁では相手の思惑などに踊ら
されることのないアキラだが、こと恋愛に関しては女性に一日の長がある。勝てる見込みのない試合に挑むようなものだった。
アキラが『浴衣の君』と正式に付き合い始めていわゆる『恋人関係』になったのは今年の八月の下旬からだ。
夏祭りの夜に自分の想いを正直に告白したことからである。
それまでは躊躇して中々言えず、互いに想いに気付きながらも、アキラはどうしても一歩を踏み出せずにいた。恋を自覚して一年
以上、正確には一目惚れだったので出会ってから約四年、アキラは相手に面と向かって想いを一度も告げずにいた。
囲碁では強気な攻めが定評であっても。アキラは恋に関しては奥手で不器用な少年であった。
アキラからの言葉を辛抱強く待ってくれていた想い人も、そこまで焦らされてはさすがにキレた。いや、キレるきっかけを与えたの
はアキラである。告白する前に口付けて行動で示してしまい、思いっきり腹を殴られた挙句に怒鳴りつけられ、激しい口論の末に告
白と相成った。碁会所で行う検討のように、売り言葉に買い言葉めいた部分もあったかもしれない。
しかし、真っ正直に想いを告げてからは、アキラの肩の荷は随分と軽くなった。あれ以来、アキラは以前ほど自分の気持ちを吐露
するのに躊躇を覚えない。きっかけはきっと、想い人がアキラを受け入れただけでなく、最高の返事をくれたからだろう。思い出すだ
けで幸せに浸れるほどの想いを、アキラに返してくれたからだ。
その勢いを借りて一気に一晩のうちに褥を共にして、名実共にアキラは想い人との関係をただのライバルからライバル兼恋人に
することに成功した。以来、数日に一度は無理矢理にでも時間を作って会っては対局、ちゃっかり肌を重ねたりもしている。
少々強引にでも時間を作って会うのは、アキラが我慢できなくなってしまうからだ。一日会えないだけでも辛くて、何日も会えない
と麻薬の禁断症状のように求める想いが溢れて、気が狂いそうになる。
アキラにとっては、一日会えないだけでも拷問のような苦しみだ。この苦しみとは初めての出会いからずっと付き合い続けていると
いうのに、慣れるどころか会うごとに、対局を重ねるごとに強くなる。一層のこと一緒に暮らしたいくらいだが、未成年という立場では
難しい上に、下手にそんな事をするとアキラは大切な想い人をこれまで以上に束縛しかねない。
それほどの執着があるだけに、慎重にならざるを得なかった。
対照的にアキラの想い人は淡白な性格で、一週間以上会えなくても、肌を重ねなくても平然としている。決して寂しいわけでもなけ
れば、会いたくないわけでも求めていないこともない。アキラを好いていないこともなければ、執着していないわけでもないのだ。
ただ単に互いの性格の相違である。アキラは好きな相手に対しては粘着質で尽くす方だが、想い人は淡白であっさりしている。
だからこそ二人は惹かれあっているのかもしれないが。
数日前に会い、今日も指導碁を終えたら会うことになっている。逢瀬までに少しでも間が空くとすぐに飢えを感じてしまうだけに、日高
の言葉はアキラの飢餓感をかなり刺激した。
欲しいと思い始めると、際限なく底なしのようにわき上がり、自分でも抑えるのにかなり苦労してしまう。
明るいのに寂しがり屋で独りを嫌うアキラの想い人は、今頃どうしているのだろうか。
(そろそろ手合も終わっているかもしれないな……)
この間名前を聞いたが、アキラは思い出しもしなかったから、さほど強くないに違いない。
アキラの兄貴分と称する芦原の話ではアキラも戦ったことがあるらしいが、全く記憶になかったから確実だ。アキラは自分でも、対
戦相手がそれなりに強くなければ顔はおろか名前も覚えない自覚がある。つまり弱い相手は記憶に微塵も留めない。
アキラはこの点においても非常に潔い男だった。彼のライバルでもどうでもいい相手はすぱっと忘れてしまうので、二人は似たもの
同士なところがある。二人揃って無意識に無自覚にそれを行うのだから、何とも始末に悪い。
思考が生涯のライバルであり伴侶の手合のことなどに行き着くと、アキラは完全に平静を取り戻していた。やはり勝負師だけあって、
手合になると恋愛一色に染まった頭も平常に戻るらしい。
アキラが恋をしている相手――即ち『浴衣の君』とは、彼の終生のライバルである進藤ヒカルだ。彼らにとっては同性であるとか、ラ
イバルであるとか、そんな事は一切関係ない。自分自身が魂ごと惹かれた存在が、互いであっただけのことなのだから。
ヒカルの今日の手合の内容はどんなものだったのだろうかと考えていたアキラは、ふと顔を上げて小首を傾げた。空耳だろうか、彼
の少し高めの元気な声が聞こえたような気がしたのだが。
軽く頭を振って窓の傍を離れたアキラの頬は、既に赤みのあった状態から元通りの白皙の肌に戻っている。対局を終えたばかりの
数人の高校生が盛んに行う検討に耳を傾けながら、机に近付いた。丁度その瞬間、教室の戸が引かれて一人の人物が入ってくる。
「尹先生」
「やあ、途中で抜け出して済まなかったね」
岸本の声に応えて尹は微笑み、部室内を見渡した。海王高校は付属の海王中学での成績が高ければ進学できるため、囲碁部には
見知った顔ぶれも多い。進学率の高さから外部入学も多数を占めることもあり、勿論全く顔の知らない生徒もいた。他にも、中学囲碁
大会に出場していた生徒も海王高校に進学して囲碁部に入部する者もおり、中々にバラエティに富んでいる。
「さてと……。皆、抜け出したお詫びといってはなんだけど、特別ゲストを連れてきたよ」
全員の注目を集めるように手を叩くと、生徒達は一旦手を止めて何事かを顔を上げた。
彼らの反応に尹は楽しげな笑顔をみせて、ゆっくりと横に退いた。