尹の背後にすっかり隠れていた人物が現れ、部員達は驚きの嘆声を上げる。サプライズなゲストの登場に、部室は一気にわき立った。
「うそ!?やだ!進藤ヒカル!?」
「すげぇ!北斗杯の大将と副将が揃っちゃったぜ!」
「今日来て良かったーっ!豪華メンバーよね」
しかし、声を出すこともできぬほど、何よりも驚いていたのは他ならぬアキラである。
(し、……進藤っ!?どうしてここに?)
ついさっきまで自分が想いを募らせていた相手の登場に、冷静になっていた筈の思考が再び混乱しそうになっていた。
「あ、あの……急なんだけど、よろしく」
ヒカルは部員の歓迎ぶりに照れ臭そうにしながらも、花が綻ぶような笑顔をみせる。秋の空のように晴れやかな笑みに、女生徒だけでなく
男子生徒までもが見惚れていた。
「ねぇ…なんかいけてない?」
「うんうん、ちょー可愛いよね」
「それに綺麗……」
すぐ傍でヒカルの愛らしい笑顔にうっとりと見惚れる女子集団の声を耳にしたアキラは、瞬時に怜悧で優秀な頭脳を取り戻す。不躾な視線
からヒカルを隠すように、颯爽とした足取りながらも大股に近付いた。
何せヒカルに注目しているのは女子だけではなく、よく見ると男子生徒も彼の綺麗な容姿に眼を奪われているのである。どんな存在であろ
うとも、ヒカルにほんの少しでも懸想を抱く可能性のある輩は、全てさっさと排除しておくに限ったことはない。
ヒカルはアキラだけの大切な伴侶なのだから。
「尹先生、もうお仕事は終わられたんですか?」
アキラはヒカルの眼前でさりげなさを装って足を止めて隠してしまうと、尹に向かって営業用の笑顔で尋ねた。
「お陰さまで何とかね。残り時間は短いけれど、もうしばらく頼むよ」
「こちらこそ勉強させて頂いていますから。ところで進藤、今日の手合は勝ったようだね」
にこやかに愛想良く返事をするとすぐに尹との会話は打ち切り、ヒカルには極上の笑顔で向き直る。ヒカルが相手だと、アキラはどこまでも
現金になれる男であった。
「ああ!勝ったぜ。おまえとの対局でも勝ってやるからな」
「ボクもキミに負ける気はないよ。後でいつものところで打とう」
牽制するように何気にヒカルとの親密度をアピールしつつ、笑いかけながら細い腰に腕を回そうとする。ヒカルも綺麗な笑顔で返しながら、
腰に触れてこようとするアキラの手の甲を指先で抓る。
扉を背にするヒカルの背中付近では、誰にも見えない二人の火花散る攻防が続いていた。
にこにこと笑い合いながら話しているのに、どことなく彼らの眼は挑戦的で、しかも少しも笑っていない。
(どさくさ紛れにセクハラしてんじゃねーよ!スケベおかっぱ)
(セクハラだと!?ふざけるな!ちょっとしたスキンシップじゃないか!)
(尻に触ろうとしてりゃ立派なセクハラだっ!)
(お尻じゃなくて、腰に腕を回そうとしただけだっ!)
(人前でそんな事しようとすんな!バカッ!)
眼は口ほどにものを言うとの諺通りに、ヒカルとアキラは目線だけで見事に痴話喧嘩を行っていた。周囲の者は全く気付かなかったに違
いない。声を出して喋りながら数秒間得画をかわしただけの二人が、これだけの会話(?)をアイコンタクトだけで行っているとは。
(……ったく恥ずかしげもなくワガママばっかり言いやがって……)
(人の気も知らずに勝手なことをして……今度お仕置きだな…)
視線を逸らした隙に譲り合い精神に欠けた主張を互いに零すと、二人は再び眼を合わせてにっこりと笑いあった。
(碁で白黒つけようじゃないか)
(のぞむところだ!吠え面かきやがれ)
彼らの笑顔の下に隠された不穏な空気を敏感に感じ取り、冷汗を背中にかきながら、尹は取り敢えず二人を指導碁に促す。
「そ……それじゃあ、進藤君にはこの四人を頼むよ。塔矢はあちらの四人をお願いしようかな」
無言の戦いを一旦休止して、大人しく指示された通りに歩いていくヒカルとアキラの背丈の伸びた後姿を見送ると、尹はそっと溜息を吐い
た。身体は大きくなっても、互いに我の強いところは二人揃って変わらない。
見えない火花を激しく散らしているところなど、彼ららしいといえばらしいけれど。
ヒカルを連れてきたのは間違いだったのかもしれない、と尹は今更ながら後悔する。後で悔やむから後悔と書くとは日本人は中々洒落
のきいた語学センスだ。ついつい現実逃避気味に他人事のように考えてしまうのは、ヒカルを紹介した時に浴びた元教え子の恐ろしい冷凍
ビームのような視線からだろうか。ちくちくと刺さってくる視線が痛すぎて、現実逃避もしたくなる。
品行方正と名高かった元教え子も、彼が関わると人格が豹変するところなど相変わらずだ。
(仲がいいんだか悪いんだか……。いや、もしかしたら………?)
知らない間に随分と親しくなっているようだが、二人の間に一瞬流れたあの何とも言えない甘い空気は何だったのだろう。
好奇心はあるが、敢えて理由は突っ込まない方が身のためであるに違いない。人間、知らなくていいことは知らない方が幸せだ。
短い時間だが、日高はヒカルの指導碁を受けられたことに、非常に満足していた。間近で眺めた少年の顔立ちがいつのまにか大人びて
随分綺麗になっており、アキラが惚れこんでいるのも無理はないと思える。
容姿の美しさという点では美形はごまんといるが、ヒカルは名前の通り内側から光り輝く何かがあるのだ。それは神に愛される囲碁の才
能か、穢れなき魂なのか、滲み出てくるそれに人は惹きつけられる。
彼らが中学二年生だった夏祭りではヒカルの顔は見られなかったが、今年の夏祭りではしっかりと確認させて貰った。
アキラの想い人と言われる『浴衣の君』とは進藤ヒカルであるのだから。
この事実を今のところ知っているのは日高だけだ。アキラの幼馴染の津川と中村も、一緒に夏祭りに行った岸本青木もこのことは知ら
ない。誰にも知られていない真実を知っているのは、実にいい気分だった。しかし、ヒカルにちょっかいをかけるつもりはない。ヒカルは天然
過ぎてアキラ以上に手強い面もある。やはりからかって楽しいのは素直で純粋培養なヒカルよりも、アキラだ。
今回は大人しく二人の様子を観察するに留めるに限る。お楽しみはまた次の機会にとっておけばいいのだから。
最後に豪華ゲストが現れたお陰で、今日の部活はかつてない盛り上がりをみせて終わった。ヒカルとアキラはこれから一緒に替えるとい
うことで、下手に邪魔をすると竜の怒りをかいかねないので日高は早々に止めておくことにする。
空気を読めない何人かは無謀にも、二人の対局を見学しに碁会所に行きたい、とアピールしていたがアキラに丁重にお断りされていた。
例え慇懃であってもアキラは有無を言わせない。貴公子然とした物腰柔らかな態度と笑顔にこもる迫力に押されるようにして、全員見事
に玉砕していた。王子様は高貴なだけに、押しが強くて強引な人種なのである。
下校時間が迫り、囲碁部の殆どの部員が彼らの見送りも兼ねて、校門まで一緒に着いて来ていた。
「では、次回の指導碁で」
囲碁部代表で挨拶をした岸本にアキラは快く返事をし、ヒカルと仲良く並んで歩いていく。
碁会所見学を断る時に見せた笑顔とは段違いの愛想の良さだった。
二人の連れ立って歩く姿に、岸本は奇妙な既視感を覚えたが、答えを見つけられずに何度も首を傾げる。その隣で、にやりとほくそ笑む
日高を見つけた尹と青木は、密かに冷汗を流しながら心で「ご用心、ご用心」と呟いたのだった。
海王高校の正門を出て、ヒカルとアキラは肩を並べながら帰路についた。
爽やかな秋の風が二人の髪を柔らかく揺らし、頬を撫でて過ぎていく。アキラはきっちりとスーツを着込んだ姿でいるのに対し、ヒカルはいつ
も通りのラフな格好だ。こいった服装の違いが傍目から見ると奇妙な取り合わせのようだが、彼らが並ぶと符仕事そんな風には感じさせない。
ヒカルは未だにスーツは似合わないのだが、アキラはスーツ姿が妙にしっくりくる。年齢に似合わない落ち着きと大人びた雰囲気、貴公子と
も評される気品のある顔立ちが、そう思わせるのかもしれない。
目線を少し上げると、ヒカルの横を無言で歩くアキラが居る。アキラと一緒に居る時は会話がなくても落ち着けて、その静けさが何となく心地
いい。ただ小学生の頃からの身長差は相変わらず埋まらないままで、同じ男としてヒカルは多少不満だが。
隣のアキラの横顔をヒカルは上目遣いに見上げた。同性のヒカルから見ても、整った顔の男である。
佐為も男としては随分と綺麗だったが、アキラとは明らかにタイプが違った。アキラは眼に炯々とした鋭い力を宿し、若武者のような凛とした
空気を纏っているが、佐為は柔らかで雅やかな、おっとりとした穏やかな印象だった。性格においても随分と違うし、碁のうち筋に関しても異
なっている。二人に共通しているのは和風美形という面くらいだろう。
(佐為もスゲー美形だったけど、塔矢も顔とかかなりいいよな……)
ヒカルの感覚では、一番の美形は佐為で、似た系統で並ぶのはアキラである。二人とも顔の良さでは甲乙つけがたい。アキラも佐為も、髪
の質や切れ長の眼など日本的な顔立ちが共通し、和の調和がとれているのだ。
出会った当初は幼さが目立って少女のようだったアキラも、成長するにつれて男らしくなり、最近の彼を女の子だと思う相手は殆どいないだ
ろう。外面のいいアキラは品行方正で礼儀正しく、折り目正しい好青年予備軍といった評価が世間一般の見識だ。
実際、アキラは真面目なのでその評価は分からないでもないのだが、ヒカルは彼の激しい気性も、嫉妬深くて執着心が強いところも、傲慢
で頑固で我侭な上に不遜、という一面も熟知している。
アキラはどうでもいい相手には慇懃無礼、弱い相手は存在自体を視界と意識から完全無視という徹底ぶりだ。それを極自然に行っておきな
がら、一般的な世間の評判が落ちないところが凄い。
意外と敵が多いくせにそういった噂も余り聞かない点からして、余程立ち回りがうまいのだろう。しかしその反面、アキラは自分が認め、許容
する相手に対しては態度もまるで違ってくる。特にヒカルに関しては、どんな存在よりも特別視しているのは間違いない。
そこが面映くて照れ臭いが、同時に嬉しくもある。
碁に対する我侭ぶりでは、佐為といい勝負かもしれないと思うと、何だか可笑しい気がした。
考えてみると自分達は結構似ているところがある。特に碁に対する姿勢が。
それぞれに拘るところは違えど、我が強くて我侭で譲らないところや、子供っぽくなってしまうところなんて全員に共通する。つまりは、三人が
三人とも見事な囲碁馬鹿という証拠なのだ。
自分達が出会ったのも当然なのかもしれない。子供っぽさはどんぐりの背比べの似た者同士、類は友を呼ぶのだから。
(物好きって点でも似てるかな?オレみたいなこわれものが好きだなんて物好き、きっとこいつくらいだし)
ヒカルの横か前がアキラの定位置だ。それは物理的な側面もあるが、どちらかというと精神的な割合が強い。ヒカルが魂を寄り添わせる相手
という面で、彼の位置は既に決まっているようなものだった。
あの真剣な強い眼差しが欲しくて、ヒカルは彼を追ってプロになった。アキラもまた生涯のライバルとしてヒカルを追い続けている。
二人の抜きつ抜かれつの追いかけっこは、囲碁と愛情の双方でメビウスの和を走るように永遠に終わりそうにない。
ヒカルの斜め後ろともう一つの横は、佐為の定位置だった。
よくい一緒に並んで歩いた。そして振り返ると、いつも穏やかに微笑んでヒカルを見詰めていてくれた。ヒカルの大切な棋聖。囲碁の楽しさを
教えてくれた、永遠に敬愛する存在。
アキラに対しての気持ちと、佐為に向ける気持ちはまるで違う。愛情でも全く別の種類のものだ。
まだ全てをアキラには話せない。確信にはすぐに触れられないけれど、少しずつ打ち明けていきたいと思っている。一気に全部話してしまうと、
きっとヒカルは途中で惑乱する。心があの時の重みと苦しみに耐え切れずに軋んでしまう。
最初の唐突な出会いから、彼が余りにも突然に消えてしまうあの日までの長い話は、すぐには話せない内容だ。
彼の喪失により魂の一部を欠けさせたヒカルが、アキラの存在にどれだけ救われたかも。
囲碁が何かも知らなかった佐為と出会った間もない頃に、ヒカルはアキラとの邂逅を果たした。それは神が用意した必然であった。アキラと
あの時打っていなければ、アキラはヒカルと出会わず、ヒカルもまた囲碁に興味を持たなかっただろう。
二度目の対局で、自分が一人仲間外れたような感覚をもった――それは幼かったヒカルの気持ちだった。しかし今なら分かる。
幼い子供だったあの頃とは違って、今なら。
ヒカルと佐為――アキラを前にした時のみ、ヒカルと佐為の立場が完全に入れ替わっていたことが。
あの時のアキラは一度としてヒカルを見ていなかった。彼は佐為を見ていたのだ、ずっと、ずっと。
誰にも見えない佐為。ヒカルにしか見えない。けれど、アキラを前にした時は、アキラはヒカルではなく佐為を見ていた。ヒカルを無視して、彼
は佐為だけを見詰めていた。いや、無視というよりも透明人間か幽霊のように、実体がある筈のヒカルはその存在自体が掻き消されてしまって
いたのだ。少なくとも囲碁ではそうだった。
あの頃のアキラはヒカルを一顧だにしていない。尤も、それはあくまでもヒカル自身のみの認識である。