アキラが最初の出会いで佐為の圧倒的な強さに驚愕し、興味を持ったのは事実だ。だがそれだけではない。彼は父親譲りの勘が 
非常によく働く少年でもあった。アキラは佐為の棋力に驚きながらも対局の奇妙さに疑問を持ち、佐為の影に隠れているヒカルの
 
存在をどこかで感じ取っていた。佐為に言われるがままに打ちつつも、確実に自らの糧としているヒカルを。
 
 事実次の対局になると、佐為が感心するほど早く石を置くようになり、以後を殆ど理解できずとも、石の流れを無意識に取り込ん
 
でいた。この時になると、アキラは佐為を通してヒカルをより鮮明に意識し始めていた。佐為とアキラの力によって知らず知らずのうち
 
に才能が引き上げられ、無限の才能の蕾が膨らみ、覚醒へと着実に導かれていることを、対局を通して彼にも伝わっていたのである。
 
 妙に古い定石で恐ろしく強い碁の背後に、何かが守られながらこっそりと隠れているような印象をアキラは漠然と感じていた。
 
 はっきりと確信できないまでも、心のどこかではいつも引っかかりを覚えていた。
 
 囲碁の神は、自らの愛し子の隣に立つべき対等者の、好みというものをかなり熟知していたのだろう。
 
 何せ、アキラはヒカルとの最初の出会いで既に一目惚れしていたようなもので、決してヒカルの存在を認めていなかったわけではな
 
い。出会った時のヒカルはとても可愛らしく無邪気で、小学生ながらもアキラは少なからず胸が高鳴ったりしていた。
 
 容姿や性格だけでもとてつもなく好みで、囲碁においても謎めいた強さを持つ同年代、となればアキラは無視できない。
 
 いくらアキラでも、どれだけ強い相手でもとんでもない醜男や醜女では、多少は躊躇するかもしれない。その躊躇が後に響く前に、
 
先手を打ったのは確実である。そしてそれはヒカルについても同じことだった。
 
 佐為はとても美しい。見目が良いだけでなく、しかも性格も良く碁も強い。
 
 そんな彼と四六時中、寝ても醒めてもという状態で一緒に居れば、ヒカルは必然的に美的選定レベルがかなり高い面食いになる。
 
 その上、自分に向けられる愛情に関しても厳しくなるのは自明の理で、碁においても強さも絶対的に必要になる。
 
 棋聖はヒカルをとても慈しみ、手中の珠のように大切に育て、深い深い愛情を注いだ。神の寵愛を受けた最高級の存在が、神の寵児
 
の傍らに鎮座して、徹底的な英才教育を施して育てるのである。並の相手では我侭な愛し子は満足しない。
 
 こうなると、自らの寵児に与える対等者はクリアーせねばならないハードルがとてつもなく高くなる。
 
 囲碁の実力に加えて容姿、性格、愛情においてもまた然り。
 
 アキラは容姿においても相当高いレベルになっているだけでなく、ヒカルの好みにも当て嵌まっていた。そして碁の神にとっての肝心
 
要の碁の実力においては、対等者として無限の才を与えられている。
 
 当然ながら、ヒカルに傾ける愛情においても、佐為とは違った意味合いで非常に深い。
 
 このうちのどれか一つでも欠けていれば、二人の関係は成り立たなかったに違いない。
 
 後に彼らが不動の地位を手に入れ、不世出の碁打と呼ばれ、稀代の天才棋士として永く後世に語り継がれるのは、碁の神に愛され
 
たからだろう。ヒカルも、アキラも、佐為も、全てが。
 
 ヒカルは空気の中に混じる微かな金木犀の香りに砂色の瞳を細め、空を仰ぎ見た。
 
 季節は秋だが、どこかあの五月の頃を思い起こさせるのは、高く澄んだ空からだろうか。
 
「なあ、塔矢。おまえ今日は何か用事ある?」
 
「いや…特に何も」
 
 いつのまにか少し前を歩いていたアキラが振り返り、ゆっくりと首を左右に振る。その動きに伴って、艶やかな黒い髪がさらりと動い
 
た。女性が嫉妬しそうな綺麗な直毛は、ヒカルもかなり気に入っている。
 
「じゃあさ…碁会所はやめにして、ちょっとオレに付き合ってくれねぇ?」
 
「…いいよ。検討はまた今度にしようか」
 
 唐突なヒカルの言葉にアキラは微かに瞳を見開いたが、すぐに微笑んで頷いた。
 
「検討はオレん家でしようぜ。その前にちょっと寄りたいとこがあるんだけど……いい?」
 
「ボクは構わないよ……でもご迷惑じゃないかな?」
 
 強請るような上目遣いで尋ねてくるヒカルに快く了承したものの、アキラとて不安がないわけではなかった。
 
 アキラの自宅と違って、ヒカルの実家には両親が居る。予定もないのにアキラが訪問して、迷惑をかけるのではないかと思ったのだ。
 
「へーき、へーき。お父さんとお母さんは会社の社員旅行に行っていねぇし。ついでに泊まれよ」
 
「………は?」
 
 今度こそアキラは瞠目して声を失う。アキラがヒカルの自宅を訪ねることはあっても、泊まるような機会は滅多にない。滅多にない
 
どころか、泊まったことがあるのは去年のクリスマスに一度きりである。それ以降一度としてない。
 
 ヒカルがアキラの家に泊まりに来るのが普通になっている。アキラの両親が留守がちであるのだから、そうなるのも仕方がない。
 
 ヒカルの母は主婦で自宅に居ることが多いし、さすがに彼の両親が一つ屋根の下に居る状況では、コトにも及び難いのだ。
 
 アキラも健康的な男子だから、好きな相手がすぐ傍に居るのに、手も出せないというのは辛いものがある。
 
 それにヒカルとアキラの検討がとにかく騒がしいのは、衆目の一致するところだ。ただでさえ、彼らは互いの世界に入ると周りの様子が
 
眼に入らない傾向が強い。二人きりだと遠慮は無用とばかりに、周囲の眼も全く気にしなくなるので、更にヒートアップして碁会所の比で
 
はないのだ。住宅密集地のヒカルの自宅では、近所迷惑にもなりかねない。
 
 そうなると、閑静な住宅街の一角でも広い敷地を持ち、尚且つ留守の多い留守の多い塔矢家と自然になってしまう。だがそれだけ激し
 
い検討を行うというのに、どういうわけかヒカルが『帰る!』と言い出すことは殆どない。
 
 彼らは彼らなりに、二人きりの時間を満喫しているという表れなのだろう。余計な口出しはけられる原因にもなる。
 
「どうすんだよ?塔矢」
 
 返事もせずにぼんやりとしているアキラに業を煮やして、ヒカルは彼のネクタイを掴んで強引に引き寄せると、尊大に返事を促した。
 
 いきなり至近距離からヒカルに顔を見上げられ、アキラは思わず顎を引いて息を呑む。
 
「……あ…ああ、うん。お邪魔させて頂くよ」
 
 ヒカルの整った顔が唐突に近付いた驚きに、未だに高鳴る鼓動に焦りながらも、アキラはやっとの思いで頷いた。
 
「よし!んじゃまずじいちゃん家に寄ろうぜ」
 
 望んだ通りの返事を得られたヒカルは、あっさりとネクタイを外して嬉しそうに笑う。
 
「………?キミの……おじいさんの家?」
 
「そう。おまえに見せたい物があるんだ」
 
 怪訝そうに首を傾げて尋ねるアキラにヒカルは頷くと、先に立って歩き出した。
 
 その後をネクタイを直しながら着いていくアキラには、ヒカルの行動はどれも唐突過ぎてさっぱり意味が分からない。能天気で傍若無
 
人でマイペースなヒカルに振り回され続けている自分には、呆れるばかりだ。
 
 だがヒカルのそんなところも、アキラには可愛くて堪らないのだが。
 
 ヒカルからみたアキラも、傲慢と不遜を地で行くゴーイングマイウェイなヤツになるけれど。
 
 第三者の立場代表で北斗杯の三将であった社清春からみた二人は、アキラは『天然オレ様体質の王子様』でヒカルは『天然オレ様体
 
質の女王様』だった。同病相憐れむという諺とは正反対の認識仕方で似ている、と。
 
 そんな他人の評価のことなど気にしないアキラは、分からないながらもヒカルと一緒に祖父宅に訪れ、促されるままに古い蔵に着い 
て行った。今時珍しい土蔵の蔵は年代もので、アキラもこんなタイプの蔵は見たことがない。
 
 今年の夏祭りの後に一度だけ、ヒカルの祖父の家に来たことがあるが、夜も遅くてこんな立派な蔵があるとは気がつきもしなかった。
 
浴衣だったヒカルの着替え用の荷物を引き取ってすぐにお暇しただけでなく、非常識な時間の訪問なのにお茶を出されたりなどして歓
 
待されて恐縮し、それどころではなかったのだ。
 
 物珍しげにアキラがお蔵を見上げていると、ヒカルが慣れた手つきで鍵を外して中に入って手招く。
 
「おい、塔矢。こっち!上がってこいよ」
 
 呼ばれるままに戸を潜って入ると、蔵の中は以外にも綺麗に掃除されていて、埃っぽいイメージからはかけ離れた印象を受けた。
 
 二階から覗き込んでくるヒカルを見上げ、アキラは動きにくいスーツ姿のまま、梯子のような急な階段を慎重に上っていく。
 
 階段から見えた二階部分は両方の窓際に雑多な物が置かれており、一番奥には明り取りと換気を兼ねた小さな窓があった。そこから
 
夕方の少し黄色がかった色合いの光が差し込んでいる。伝統的な日本家屋の蔵だが、天上は高いので十分余裕があり、アキラは階段
 
を上りきって立ち上がる。明り取りの窓の傍で待つヒカルがアキラを手招いた。
 
「おまえに見せたいのはこれなんだ」
 
 そう言いながら腰を下ろして大事そうにヒカルが触れた物を凝視して、アキラは小さく首を傾げて呟く。
 
「………碁盤……?」
 
「うん、オレのもう一つの宝物」
 
 ヒカルはにっこりと笑いながらもどこか寂しげに瞼を伏せ、優しく碁盤の表面を撫でる。呼びかけるように、懐かしむように見詰める目線
 
は深い何かを湛えていて、宝物だと語った通り、とても丁寧で大事そうな手つきだった。
 
「あの…進藤…、触ってみてもいい?」
 
 アキラはそんなヒカルと碁盤を交互に見詰め、躊躇しながら確認をとった。
 
「いいよ。おまえなら」
 
 ヒカルの許しを得て、そっと碁盤の表面に触れてみる。一見すると何の変哲もないただの碁盤にしか見えないが、不思議と温かみの
 
ある優しい雰囲気が伝わってくる気がした。長久の歳月を過ごした深みを感じさせるのに、生き生きとした若さも同居している。
 
「とても……そう、とてもいい碁盤だね。まるで生きているみたいに暖かくて優しい…そんな気がするよ」
 
 感じたままに囁くアキラの横顔を見詰め、ヒカルは心底嬉しそうに微笑んだ。今にも泣きだしそうな潤んだ瞳で。 
 ここにアキラを連れてきて良かった。アキラはやはり、ヒカルと同じく佐為を感じられる唯一の存在なのだ。
 
 今日アキラとこの碁盤を会わせたのには、大した理由もなければ目的もない。ただ何となくである。
 
 ふと空を見上げた時、ぽっかりと浮かぶ雲が鯉のぼりのように見えて、唐突に「少しでもいい、塔矢に話したい」とそんな風に思ったの
 
だ。秋が深まり、赤くなった紅葉の葉を見たのもあるだろう。佐為と出会った頃も紅葉は真っ赤になっていた。紅葉は葉が出たばかりの
 
五月にも、品種によっては真っ赤になっているものがあって、その鮮やかな紅は彼との別れもまた思い出させる。
 
 他にあるとするならば、高校で指導碁をしていたアキラの姿が挙げられるかもしれない。
 
 アキラは実に巧みに導くだけでなく、彼の真剣な姿勢に引き込まれるように、年上の高校生も真摯に碁を打っていた。佐為とは棋風
 
も碁から受ける印象も何もかも違うが、あんな風に導いていく姿を見るにつけ、ヒカルの中にある佐為への郷愁や憧憬といったものを
 
刺激したのだろう。アキラが碁盤に丁寧に触れながら呟く言葉を聞いて、ヒカルはこみ上げてくる喜びと幸せを噛み締めた。
 
「キミが大切だと言うのも分かる気がするな。この碁盤には……まるで神様が宿っているように思えるね」
 
 何故そんな風に思ったのか、自分でも分からない。ただ、触れる掌からほんのりと伝わってくる何かが、アキラにそう感じさせた。
 
 碁の神、或いは碁の精が宿るなら、きっとこんな不思議と味のある碁盤に違いない。とてもよく使い込まれて誰かの勉強の跡が多く
 
見られ、同時に大切に大事に使っていたのだと、伝わってくる。
 
 年代物の古い碁盤は奇妙な風格と威圧感があり、それだけでなく優しく見守るような慈愛があった。
 
 アキラは基本的にリアリストで幽霊などの非科学的なものは一切信じない方であるが、意外にも勘が働く。
 
 ヒカルと佐為の件にしてもそうだ。勘のよさと鋭い洞察力に明晰な思考が加わり、他の誰も気付かなかったことについて、最も核心
 
に近付いている。勿論それだけではなく、決定的なのはアキラが数多の棋士の中で、一番佐為と打っていることだった。
 
 ヒカルが佐為と一番多く打っているのは当然だが、その次に多く打っているのはアキラなのである。
 
 一度目と二度目の碁会所、囲碁大会、そしてネット碁。都合四度の対局は、彼の父である塔矢行洋ですら成し得なかった。それは
 
まさに神の与えたもうた僥倖といえるだろう。佐為はアキラとの初めての対局で、その才能に驚かされた。獅子に化けるか竜に化け
 
るかと例えたのも、戯言でも世辞でも冗談でもなければ誇張でもない。彼にとっては当り前の評価であった。
 
 ヒカルの才能を伸ばすうちに、佐為はアキラもまたヒカルの成長のために神が用意した存在だと理解した。だからこそ、ヒカルの成
 
長を見守り導いた佐為は納得した。自分の千年はヒカルのためであったのだと。
 
 無駄なことは何一つなかったのだと、思えた。ほんの三年足らず一緒に居ただけであったというのに、これほど輝かしい日々はな
 
かった。なんと充実し楽しい毎日であっただろう。
 
 それもヒカルと共にいたからだ。我侭で天然で明るく元気な、とても心根の優しいヒカル。
 
 佐為の残した情熱は、確かにヒカルの中で受け継がれ、大切に息衝いている。
 
 彼が見出した二つの才能は互いに凌ぎを削り合い、かたや虎、かたや竜として披見しているのである。
 
 今や若き竜とも呼ばれるアキラは碁盤をそっと撫でて、傍らで無言のまま座るヒカルに視線を移し、思わず息を呑んだ。
 
「………進藤…………」
 
 呼ぶだけが精一杯で、それ以上の言葉が一切出てこない。
 
 ヒカルは声も立てずに泣いていた。ただ頬を透明な涙が滑り落ち、碁盤に落ちて幾つもの小さな染みを作る。
 
 嗚咽すら洩らすことなく、静かに涙だけが大きな瞳から流れ、顎を伝い落ちていた。
 
 こんなにも純粋で美しい涙を、アキラは知らない。
 
 ヒカルがどれほどこの碁盤を大切に思い、どれだけ大事にしているのかを、改めて思い知らされた気がした。
 
 この碁盤とヒカルとの関わりに何があったのかは分からない。だが、ヒカルの想いは自然と理解できるような気がした。
 
 きっと、自分は初めてヒカルの語った『いつか』に一つ関わり、同時に一歩近付いたのだろう。
 
 ヒカルはアキラに無言のまま教えてくれたのだ。――その透明で美しい純粋な涙で。
 
 アキラは何も言わずにゆっくりと立ち上がると、ヒカルの背中を力づけるように優しく叩く。そして敢えて声をかけることなく階段を静か
 
に下りた。何故だか、あの碁盤とヒカルと二人きりにする方がいいと思えたのだ。彼らの神聖な語らいを邪魔したくなかった。
 
 碁盤を人間のように考えてしまったのはおかしいかもしれないが、アキラにとっては、あの碁盤にはそれが相応しく自然なように感じ
 
たのである。蔵の外に出て空を見上げると、秋だというのに五月晴れのように澄んだ濃い青空が広がっていた。その下では、鮮やか
 
な紅に染まった紅葉が、一枚、また一枚と葉を落として、殺風景な地面に紅い彩りを添えている。
 
 ヒカルが落ち着くまでの間、平八に請われるままに碁を打ち、彼としばらくの間囲碁談議に花を咲かせた。
 



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