光に茜色が混じり始めた頃になって、アキラは再び蔵に入った。アキラが戻ってきたのは音で分かっただろうが、ヒカルが顔を覗かせる気配もない。 
 もう少しそっとしておいた方がいいとも感じたものの、まるで何かに呼び寄せられるようにアキラは階段を上った。一段上がるごとに軋む木製の梯子
 
を上り、二階をそっと窺い見る。
 
 それはとても美しく、神聖でいて綺麗な光景だった。
 
 ヒカルは頬を盤面につけて瞳を閉じ、大切に抱き締めるように表面を撫でていた。まるで碁盤の鼓動に、語らいに、耳を傾けるように。
 
 明かり取りの窓から入る柔らかな太陽の光が、ヒカルと碁盤を優しく照らし出している。夕刻になって仄かに赤みの差した光は、命の鼓動を彷彿
 
させるように揺れる。まるで時が止まっているような静寂が支配する中で、ヒカルだけが鮮やかに躍動し、存在感を放っていた。
 
 神秘的で神聖なる聖域の、静謐な空気を壊さぬように息すらも潜めて、アキラはヒカルの傍らに近付き膝をついた。
 
「……悲しいの?…………寂しいの?」
 
 ヒカルの金色の前髪を指先で梳き、まだ微かに湿り気を帯びた頬を優しく、愛しげに撫でる。
 
「ううん……嬉しいんだ」
 
 砂色の瞳を開くと、ヒカルはうっすらと微笑んだ。本心からの想いが、自然と唇からついて出た。
 
 佐為が現世に復活して初めて碁を打った時、彼は再び碁を打てる喜び美しい涙を零していた。
 
 彼の感じた涙を零すほどの歓喜が、喜びが、今はヒカルにも分かる。ヒカルがこうして打っているのは佐為がこの碁盤に宿り、出会えたから。
 
 佐為と出会い碁と出会わなければ、ヒカルはアキラと碁を打つこともなく、語り合うこともなかった。
 
 そして、アキラと出会うことがなければ、ヒカルは碁と真剣に関わらないまま、プロにもならなかったに違いない。
 
 宿命の歯車は、どれか一つが欠けても回らない。全ては必然であったのだ。
 
 だからこそ嬉しい。アキラが再び佐為を見つけてくれた。ヒカルにしか感じられない佐為を、アキラだけが。
 
 既にこの世にはいない、佐為の残した想いをアキラが感じ取ってくれた。ヒカルの碁の中に居る佐為を、見つけてくれたように。
 
 嬉しくて、嬉しくて、涙が溢れた。純粋に、アキラが彼を感じてくれたのが嬉しい。そして、アキラはヒカルの想いもまた全て汲み取ってくれた。何も話
 
せずに、ただ涙を零しただけなのに。
 
 きっといつかは話せるだろう、アキラに。とても優しくてお茶目で我侭な、囲碁好きの綺麗な幽霊の話を。
 
 藤原佐為と、進藤ヒカルの、そして塔矢アキラの物語を。
 
 触れてくるアキラの掌の体温がとても優しくて、心地いい。彼の存在を身近に感じられて、とても安心できた。
 
 アキラを見上げて笑いかけると、彼は綺麗な笑みを浮かべ、強い意志の宿る瞳を柔らかく細めた。
 
「………そうか…」
 
 ひんやりとした頬に温もりを伝えるように手を添えて、アキラはヒカルに頷いてみせる。
 
 ここに連れてきてくれたことが、ヒカルからアキラへの『いつか』の布石の一つなのだろう。碁盤を前に涙したヒカルの姿だけで、アキラには十分に伝
 
わってきた。言葉は何一つ必要なかった。
 
 これは彼との対局での語らいに通じるものがあり、ヒカルの涙の訳を知りたいとは少しも思わなかった。
 
 北斗杯の時は、彼の謎を知りたいと強く思った。ヒカルが秀策に拘る訳を。
 
 聞きたい、知りたい、ヒカルにとって本因坊秀策とは一体何なのか。だがその言葉と想いを呑みこんだのは、ヒカルがアキラに言った一言が起因する
 
に他ならない。『いつかおまえには話す』と、この言葉がなければアキラは強引にでも聞き出そうとしていたかもしれない。
 
 彼の想いを信じるからこそアキラは黙し、ヒカルに手厳しいことも言えた。ヒカルの力を理解しているから、誰よりも知っているから、歯に衣を着せず
 
に『無様な結果は許さない』と告げられた。
 
 そしてヒカルはアキラに成長と呼ぶ以上の進化で、素晴らしい結果を示した。それだけに残念でもあった。ヒカルの力をあれだけ引き出したのが自分
 
でないことが。同時に今回は自分であってもならないことも分かっていた。アキラとともに進化する機会はまた次にあるのだから。
 
 北斗杯においても、アキラもまたヒカルの前を一歩歩くように、彼の力をより引き上げられるように強くなった。神の一手を目指すために、互いに力を
 
研磨するために。 ヒカルの碁は、ヒカル自身の謎と同様に一言では言い表せない。
 
 斬新でありながら老獪、計算されているようで閃き重視、巧みさの中にある悪戯心。
 
 蝶のように華麗で雅やか、女王のように高慢で気高く、咲き誇る花のように美しく驕慢。
 
 日本刀のような鋭い切れ味と、威圧感ある野生の虎のしなやかさと敏捷さをもち、加えて冷酷なまでに容赦がない。
 
 ヒカルの碁の魅力には誰も抗えない。誰もが心を惹かれる。だからこそ、アキラはヒカルを誰にも渡したくないとも思う。
 
 故に、アキラは常に自らの力を高めながら、相乗効果による力を互いに得られるよう、極上の好敵手であり続けなければならない。彼を唯一心から満
 
足させられ、進化を促せるのはアキラだけなのである。
 
 神の寵児の対等者にとっても、それは同様だ。アキラの力をより引き上げ、誰よりも満足させてくれる相手もまた、ヒカル以外には有り得ないのだから。
 
 ヒカルが作り出す対局時の神聖なる聖域に、アキラは入って直接触れることができる。
 
 どれだけ高段の棋士であっても、それだけはできない。足を踏み入れどれだけ蹂躙しようとしても、必ず何かが行く手を阻む。薄く柔らかな、何も通さ
 
ない神秘のベールに守られるように包まれている神の子を、捕まえることはできない。
 
 紗布をすり抜けて聖域に入り、身持ちのかたい神の寵児に直接対面し触れられるのはアキラのみだ。
 
 それが神の定めた神童の対等者に許された特権なのだから。
 
 彼と共に高処とも深遠ともいえる場所へと、対局を重ねるごとに高く昇り、同時に深く突き進んでいく。
 
 けれどその後は、不思議とヒカルを抱き締めたくて堪らなくなる時がある。余りにも近くに行き過ぎて、彼の心に感化され影響を受けてしまうから。
 
 普段見えない空虚な悲しい部分にもじかに触れてしまうが故に、それらを全て包み込んで覆いたくなる。決して埋められない場所をアキラ自身が埋め
 
て、癒すように。対局と同様にヒカルの大切な聖域にアキラを招いてくれた想いが、とてつもなく愛しい。
 
 無理に話さなくても構わない。ヒカルにとっての『いつか』が来るときまで、アキラはいくらでも待てる。
 
 何故なら、アキラは既に答えに行き着いているから。回答は得られている。その間の過程が抜けているだけ。
 
 ヒカルの打つ碁がヒカルの全て――即ち『ヒカルの碁』そのものが何よりの答えなのである。
 
 彼と打てる、共に居られる、ならば焦る必要などどこにもない。
 
「行こう、進藤」
 
「うん」
 
 顔を上げたヒカルの穏やかな笑顔に、アキラは思わず見惚れて小さく息を吐いた。
 
 その笑顔は見る者の心を切なく掻き立てるものがある。だが、強い芯が通っていて、儚くもありながらとても綺麗で、忘れられないほど強い印象を
 
アキラに残した。しっかりと握られた手に答える様に握り返したヒカルは、ゆっくりと立ち上がった。
 
「ん?どうかしたか?」
 
 自分の手を握ったまま、感慨深げに指先を絡めるアキラの様子に、小首を傾げる。
 
「ああ…『碁打の手』だなと思って」
 
「当たり前じゃんか。オレもプロなんだし」
 
「うん……そうだね」
 
 大切そうにヒカルの爪の擦り減った指に口付けを落とし、アキラは澄んだ微笑を向けて頷いた。
 

 結局夕方遅くまでヒカルの祖父宅にお邪魔していたこともあって、二人は夕飯もお相伴に与ってから、家へ行くことにした。
 
 ヒカルの家は塔矢家とは違い、どこにでもあるような建売住宅で、隣近所からそう離れているわけでもない。余り派手に検討をするのも憚られることも
 
あり、検討はそこそこで切り上げ、対局に重点をおくことにした。
 
「ねぇ、進藤。一年前の今日は何をしていたと思う?」
 
「へ?」
 
 対局の準備のために碁笥に伸ばしかけた手を止め、アキラの唐突な問いにヒカルは怪訝そうに小首を傾げる。
 
「去年…キミと初めてプロとして対局した、名人戦の一次予選の日だよ」
 
 ヒカルは大きく眼を瞠り、声を失ってアキラを見詰める。
 
 まさか今日が名人戦一次予選から丁度一年目とは、ヒカル自身全く考えもしなかった。
 
 ヒカルはどちらかというとこういったことはすぐに忘れがちだ。その点アキラは囲碁部の三将戦から名人戦一次予選までの期間を覚えていたほどだっ
 
たから、きっとこの日のことも記憶していたに違いない。
 
 これも偶然なのだろうか。アキラに佐為が宿っていた碁盤を見せた日と、アキラとヒカルが本当の意味で初めて対局した日が重なるだなんて。
 
 もしかしたら、佐為がそんな風に導いてくれたのかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。佐為はアキラのこともとても気に入っていたし、きっと彼も
 
久しぶりにアキラに会いたかったのだ。
 
「へへ……そっか…」
 
 再び滲みそうになった涙を堪え、ヒカルは満面の笑みを浮かべて嬉しそうに一人頷いた。それに応えてるようにアキラも微笑むと、碁笥の蓋をとって
 
中に入っている石を一瞥する。
 
「ボクがニギるよ」
 
「ああ」
 
 アキラが白石を握るとヒカルも二つ黒石を置く。白石の数は奇数で、二人は碁笥を交換して背筋を伸ばした。
 
「お願いします」
 
 声と同時に、二人の間には公式戦のような緊張感漲る空気が流れ、部屋全体を押し包むように広がる。
 
 碁会所であろうとアキラの家であろうと、例えどこであったとしても、ヒカルとアキラが対局をする時は一種独特な磁場ともいえるものが形成される。
 
 静謐に流れる石のように美しく、それでいて厳粛で入りがたい重々しい場が。
 
 彼らの対局時の雰囲気は非常に独特であるが故に、まるでそこだけが切り離された別世界のようだ。隔絶された二人の世界は神聖で静謐である。
 
 しかし、本人同士は盤面の集中していてそんな事には気づきもしない。彼らはいつも通り最善の一手を追求し、相手の息の根をいかに止めるかしか
 
考えないのだ。アキラとヒカルにとって、それぞれを相手にする時は常に真剣勝負である。
 
 だからこそ面白い。碁の楽しさ、面白さ、奥深さを実力の拮抗した好敵手と真剣勝負の場で味わえるのだ。
 
 それがどれだけ幸運であり、幸福なことなのか――ヒカルはアキラと対局するまで気付かなかった。
 
 石を打つ音だけが響く部屋はいつものと変わらないのに、一人で打つときとはまた違った様相を呈している。
 
 一人ではない。アキラが居る。互いにとっての唯一無二のライバルである、相手が。
 
 佐為にはその相手がいなかった。ヒカルにとってのアキラ、アキラにとってのヒカルという存在が。
 
 少なくともヒカルが知る限り、彼が負けたことは一度としてない。負けない佐為、勝ち続ける佐為。
 
 彼は最強だった。それゆえに、佐為は誰よりも孤独だったのかもしれない。碁の神のように――。
 
 ヒカルの一手にアキラが応える。アキラの一手にヒカルが応える。二人はそうして、一局一局を紡いでいく。
 
 対等の相手がいるからこそ、できることなのだから。
 

「……ありません」
 
 アキラは投了の言葉と同時に、アゲハマを盤上に軽い音をさせて落とした。石の音とは裏腹に、アキラの声はひどく重い。この対局に負けたことが、
 
それだけ悔しかった。大きく息を吐き、ヒカルも頭を下げて返す。
 
「ありがとうございました」
 
 集中して打っていただけに、体力の消耗も激しく、二人ともまだ息が乱れている。気温も高くないのに、うっすらと汗もかいていた。
 
 半目勝負で細かい碁になったが、ヒカルとしてはこの日に勝てたのは意義のあることのように思えた。
 
 昨年の名人戦一次予選ではアキラに負けている。今日勝てて、自分が去年よりも確実に成長している証だと、やっと素直に受け止められたような気
 
がした。北斗杯以降、誰もがヒカルの成長ぶりを褒め湛えてくれたが、ヒカルとしては全く自覚できない状態であったこともあり、褒められても非常に
 
複雑な気分だったのだ。とはいえ、今回は勝てたといっても、現状ではアキラに負け越している状態であるのは変わらない。
 
 これからもっともっと強くならなければ。自分と同じように、アキラも負けじと益々強くなるだろう。
 
 アキラはプライドが高い分、ヒカル以上に負けず嫌いな面がある。彼はヒカルに負けると、次の対局では絶対に譲らずに勝利を強引にもぎ取りにくる。
 
 そして必ず勝つ。
 
 ヒカルとて負けたくはない。必死にアキラに抵抗して死力を振り絞って勝利を奪おうとするのだが、最終的にはアキラが物凄い強さで勝ちを引き寄せ
 
ものにする。二人で打つようになって一年近くになるというのに、ヒカルは未だにアキラから連勝できた記憶がない。それだけアキラの勝利への執念と
 
執着は強いのだろう。ヒカルはまだまだ学ばなければならないことが多い。
 
「塔矢、おまえ風呂に入ってこいよ」
 
「……え?あ、うん」
 
 石を片付けながら促すヒカルに頷いて立ち上がったアキラは、しばらくヒカルの様子を眺めてから、やがて言い難そうに口を開いた。
 
「あの……進藤?……着替えを貸してくれないか?」
 
「……へ?着替え?」
 
 思った通り、ヒカルは意味が分からないというような顔をして小首を傾げている。
 
「…………あ!そうか…。おまえ着替え取りに行く時間なかったっけ!?」
 
 きょとんと大きな瞳を見開いていて見返していたが、すぐに合点がいったらしい。慌てたように口元に手を当てて素っ頓狂な声を上げる。
 
「悪い、スーツじゃ寝れねぇもんな。オレのジャージでよけりゃ貸すぜ。着ろよ」
 
 言葉通りジャージとTシャツをヒカルに渡され、アキラはしばし固まった。ヒカルがいつも着ている服に袖を通すのである。男心としてはどことなく嬉し
 
いような、恥ずかしいような、複雑で微妙な気分だ。
 
「何だよ?……ちゃんと洗いたてなんだからな」
 
 ヒカルはアキラの反応に勘違いしたらしく、拗ねたように唇を尖らせる。それに慌ててアキラは首を振った。
 
「いや、その…何でもない。借りるよ、ありがとう」
 
 素早くヒカルの手から着替えを確保して礼を言うが、ヒカルの機嫌はいっかなよくならない。
 
「風呂は分かるよな?さっさと入ってこいよ」
 
 ぶっきらぼうにアキラに告げると、追いやるようにしっしっと手を振ってそっぽを向く。どうやらすっかり拗ねているらしい。
 
「別に一緒に入っても、ボクとしては構わないけど……?」
 
 その態度が気に食わなくてさらりとアキラは爆弾発言を落とす。聞かされたヒカルは思わず、飲んでもいないお茶をふき出しかけた。風呂に一緒に
 
数度は行ったことがあるだけに、これは聞き捨てならない。
 
 それにこの間アキラと会った時に、浴室でアレコレ致してしまったことを思い出し、恥ずかしさも手伝だってみるみる頬が赤くなる。
 



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