ストローに口をつけてジュースを飲むと、さっき掻き混ぜ過ぎたのか炭酸が抜けて妙な甘ったるさしかなかった。
ヒカルは不満そうに眉を顰めると、アキラの飲んでいるカップに注目する。
「塔矢、それ何飲んでるの?」
「ああ……これ?ミネラルウォーターだけど」
「おまえ変わったの注文してんな。いいや、一口くれよ」
「いいけど…どうしたの?」
「炭酸抜けてまずかったんだ。口直しに飲ませて」
「あ、うん」
アキラに渡してもらったミネラルウォーターを飲んで、ヒカルはホッとしたように一息ついた。アキラはまるで気付いていなか
ったようだが、さっきどうして落ち着きなく振る舞ったのか、自分でもよく分からない。あんな風にストローで掻き混ぜたりなん
て、滅多なことではしないのだ。
最近、ヒカルは何だか変な気分になることが増えてきている。あの夏祭り以来、アキラのことを考えると胸が締め付けられる
ように苦しくなったり、ちくちく痛んだりする。他にも、アキラの笑顔を見ると急に胸がどきどきしだしたり、彼の姿を見ると眼がど
うしても吸い寄せられてしまったり、声を聞くだけで嬉しくなったりするのだ。
さすがにプロ試験の最中にこんな事をのんびり考える暇はなかったが、周囲も落ち着き、自分の中でもアキラと同じ世界に
行くのだと段々実感するようになった。そうなると、どういうわけだか彼のことばかりに思いを馳せていて、気がつくと胸が痛ん
だり鼓動が早くなったり、身体が熱くなったりしている。
こればっかりは、原因も全く分からず思いもつかない状態ではあるのだが、どういうわけか悲観は全くしていない。
何となくだが、この件に関しては考えて答えを出すのではなく、曖昧な感覚で理解することだと、見当がついているからだ。
その時がくれば自然に受け入れられると思う。ヒカルにはそんな確信が無意識にあった。
ミネラルウォーターをアキラに返して、同じようにストローに口をつけて飲む彼の様子を何の気なしに観察する。
動く度にさらりと揺れる髪は日本人的な漆黒の直毛で、艶があって綺麗だと思う。髪形は特徴的ではあるのだが、アキラに
は不思議と似合っている。これ以外の髪型を彼がするのをヒカルには想像がつかない程だ。
こういった髪の質は佐為とどことなく似ていて、少し羨ましい気もした。
背は知らないうちに伸びて、雰囲気も大人びてきている。中学二年生という年齢を感じさせない落ち着きは、彼が既に社会
に足を踏み出していることと、幼い頃から大人に囲まれて暮らしてきたからだろう。
出会った頃は女の子のような容貌とは裏腹な激しい気性を持つ性格とのギャップに驚いたものだ。成長して少女じみた顔の
雰囲気は消えうせ、若武者のような凛とした風情のある少年になっている。日本人形を思わせるような容姿だ。しかし人形の
持つ作り物めいたものはなく、強い光を宿した黒い眼には力があって吸い込まれるような錯覚を覚えそうに深い。
この瞳で見詰められるのが、ヒカルは嫌いではない。むしろ好きだと思う。
ヒカルが彼を追いかけようと決意したのは、アキラのあの瞳を自分だけに向けさせたかったからだ。
今アキラの眼はどこを見ているのだろう。ヒカルをその瞳に少しは映してくれているだろうか?
暖かな秋の太陽の光に、アキラの姿が照らし出されている。視線を感じたのか、アキラはヒカルと眼を合わせて柔らかく微
笑んだ。その笑顔だけで、今は彼の瞳を手に入れられなくても充分だと思える。でもいつかは確実に向けさせるのだ。
アキラとは、何も話さずにいても不思議と安心できる。沈黙が嫌だと感じない、ごく自然に受け入れられた。
二人とも黙ったまま喋りもせずにいると、周囲の音が聞こえやすくなる。別に聞き耳を立てているわけでもないのに、勝手に
ざわめきが入ってくるから、少し耳障りという感もあった。
ガタガタと椅子から人が何人も立つ音が響き、穏やかな空気が破られた気がしてそちらに視線を飛ばすと、さっきの女子高
生の一団が席を外して窓際の席に移ろうとしている。店の真ん中では落ち着いてお喋りができないということらしい。
彼女らは二人の座っている席を横目で見ながら、生垣を隔てたアキラの真後ろのスペースに陣取った。アキラもヒカルも女
子高生の一団など目もくれずにいたが、席が近くなったお陰で彼女らの会話が筒抜けになってしまう。
「……でさ~、ムカツクから別れちゃった」
「え?じゃあ今フリー?」
「彼氏また作りなよ」
「うーん…考え中~」
「なんでよ、もったいないって」
「ねぇねぇ……ちょっと…」
「なによ?」
「あっちの席の子達ってさ…いけてない?」
「…あっち?」
「あ!あの前髪が金髪の子?」
「外国の人の血が混じってるのかな?眼の色もちょっと薄いよね」
「うわーマジ可愛い!年下ってとこがツボ?」
「もう一人の黒髪の子も格好良かったよ」
「うん、何か若武者みたいな感じでさ」
「しかも海王だよ、制服」
「将来有望でお買い得じゃん」
「折角だからさ、声かけてみようよ」
「えぇーでもぉ…」
「それいいかもー!」
「こんな機会滅多にないって」
アキラとヒカルの都合も考えずに、女子高生の会話は勝手に進んでいた。
ヒカルに聞こえているのだから、アキラにも当然聞こえているのは分かりきっている。さっきからちらちらと彼の様子を窺って
いたのだが、表情こそ変わらないものの決して機嫌は良くはない。むしろさっきまでの浮かれていた姿はどこへやら、背筋を
伸ばした身体からはひどく険悪な空気がじわじわと滲み出ている。
(うわ~分かんねぇけどスゲー怖い…)
ヒカルですらたじろいてしまうほど、今のアキラは恐ろしい気配を纏っている。いつもならビビッたりはしないが、今のアキラは
まるで別物だった。背後に真っ黒な炎が立ち昇っているのが見えそうなほど凶悪なオーラを放っているのだ。こんなアキラを相
手に敢えて意見することができる人が居たら、是非ともお眼にかかりたい。
彼女らの会話が進むにつれて、目付きもこれまでとは比べものにならないほどに鋭くなって、どういうわけかひたりとヒカルに
照準を合わせている。今にも獲物を頭から喰らい尽くそうとする猛獣のような眼で見詰められ、ひどく居心地が悪くてヒカルは
再びストローでジュースをかき回す。
(どうしよう…ってか何でオレのこと睨むわけー?)
何故急にアキラが不機嫌になったのかがさっぱり分からない。ヒカルは彼の剣呑な目線に冷汗を流しながら、必死に原因を
纏まらない思考の中で模索する。緊急事態だというのに、お気楽に自分達を話題にして盛り上がる女子高生集団に恨みがま
しい気分で一杯になる。今のアキラは、下手に声をかけられようなものなら、目線だけで女子高生を全員射殺しかねない。
アキラの逆鱗に触れる導火線はどこにあるのか掴みにくいだけに、原因がどれとも言い切れないところが余計に困る。
しかし、逆ナンパが原因とはさすがに考えにくい。女の子に褒められるのは、ヒカルにしてみると照れくさくてもやっぱり嬉しい
し、アキラだって同じ男なのだから女の子に格好いいと言われて嫌な気分ではない筈だ。さすがに可愛いと言われてしまうのは
複雑ではあるのだが、でも悪い気はしない。ヒカルも男だ、異性から好意的な視線で見られるのは嬉しくないはずがなかった。
そうなると原因は自分になるのかと考えるものの、アキラを怒らせるようなことを言ったつもりはない。以前にとんでもない失言
をしてしまったが、あれは本当に碁の世界を理解していなかったからで、今のヒカルはあの発言がどれだけ失礼だったのかちゃ
んと理解している。ヒカルも必死に努力をしてここまで上がってきたのだから。
ストローで掻き混ぜながら一生懸命原因を考えるのだが、結局何も思い当たらない。それも当然である。ヒカルは何も悪いこと
はしていないし、アキラが一方的に怒っているだけなのだ。
「……そろそろ出ようか」
ヒカルが落ち着きなくおろおろしていると、不意にアキラが能面のように無表情な顔で声をかけてきた。
「え?あ…うん。そうだな」
「じゃあ行こう」
有無を言わせぬ勢いで席を立ち、アキラは二人分のカップとトレイをさっさと片付けてしまう。
(さ、佐為。外に出るぞ)
佐為に声をかけながら棋譜をしまって鞄を持った頃には、アキラに手をとられて歩き始めていた。その時のアキラの素早さと
きたら、彼らが立ち去る気配に慌てて逆ナンパに踏み切ろうとした女子高生集団が追いつけないほどのもので、彼女達が席か
ら立ち上がる暇すら与えなかったのである。
一瞬の隙すらも鉄壁の護りで作らずに、アキラはヒカルを連れてファーストフード店を足早に出た。
腕を引っ張られて通りを歩く間も、アキラはずっと無言だった。何も話さないし後ろも振り向かないのに、ヒカルの手だけはし
っかりと握っている。これまでとは違い、ヒカルにとってはひどく気まずい沈黙で、だからといって下手に喋ってこれ以上アキラ
を不機嫌にしたくもない。折角久し振りに会えたというのに、怒った顔をしたアキラと帰り際に別れるのも辛いものがある。
けれど、どこか懐かしい気もした。アキラと出会った当初、二度目の対局の時、自分は彼に腕を掴まれて碁会所まで連れて
行かれたのだ。そういえば、あの時もアキラはひどく怒っていた。ヒカルは思い出の懐かしさに綻びかけた口をへの字に曲げ
て、振り向かないアキラを見やって不満そうに頬を膨らませる。
これでは、あの頃から自分とアキラの関係は何一つ変わっていないように思えた。何がどう変わっていることを望んでいるの
か、自分でもはっきり分からないけれど。
一方のアキラは、思い出に浸る余裕も無く一人で葛藤し悶々としていた。
とにもかくにも腹立たしくて堪らない。ヒカルが見ず知らずの他人に好意を寄せられている事実を聞かされるだけで、その場
でカップを握り潰してしまいそうになるぐらい不快だった。持っていたのが頼りない紙のカップだったから、潰すまいと理性を総
動員して耐えられたが、あれがスチール缶などの頑丈なものだったら確実に音を立てて潰していたに違いない。
あの女達の声がヒカルの耳にも届いていたことすら、考えただけで嫌悪感で一杯になる。
一層のこと、ヒカルをどこかに閉じ込めてしまえればいいのに。そうすれば、ヒカルはアキラだけのものだ。誰の眼にも触れ
させず、自分だけのものにしていられる。ヒカルを誰にも渡したくなかった。
彼の中で暴れまわっている昏い激情は、紛れも無く嫉妬と独占欲だ。
これがただの友人や仲間に対しての感情でないことはアキラにも分かっている。分かっていても、どうしても直接的に恋愛
感情と結びつけることができない。それが素直にできればアキラがここまで不快な気分を味わうこともなかったかもしれない。
逆に、認めれば認めたで更に独占欲が煽られる可能性もある。現時点では認められないのだから可能性に過ぎないが。
大抵のことは素直で聞き分けの良いアキラだが、ことヒカルに対する不可解な感情に関しては意地をはったり頑固になる
傾向が強い。元から頑固で負けず嫌いで意地っ張りな性格であるのも否めない。囲碁に関しては特に顕著だ。この性格に加
えてヒカルと囲碁とが関わり、認められない恋愛感情までもが絡まると、複雑すぎてどうしようもない。
たった一歩を踏み出せば得られる答えを、一本の糸を抜きさえすれば解ける絡まりを、アキラは自らの感情を無理に認め
ず無視することによって、見える筈の糸口すら掴めずに堂々巡りの悪循環を続けている。
だがそれも、彼自身が少し視点をかえるだけで解れるのだ。きっかけさえ掴めれば。
ぐいぐい引っ張って歩いていくと、いつの間にか夏にヒカルの写真を撮った公園の傍にまで来ていた。アキラはヒカルの了
解すらとらずに、秋の穏やかな日差しが降り注ぐ公園に足を踏み入れる。
「……痛い…」
ベンチのすぐ傍まで来ると、不意にヒカルがか細い声で呟いた。
「…何?」
不機嫌な気分のままで振り返って問うと、ヒカルは上目遣いにアキラを睨んでぼそりと抗議する。
「痛い……腕…」
そこまで言われて、アキラは自分がヒカルの細い手首を掴まえたままだったことに気付き、慌てて離した。手を退けると、手
首にはくっきりとアキラの手の跡が赤くなって残っている。そんなに強く掴んでいたつもりもなかったのだが、ヒカルが痛みを
訴えたことからみても、相当きつく握ってしまっていたのだろう。
「ご、ごめん」
「塔矢のバカ力」
これまで嫉妬で怒っていたのもどこへやら、途端にバツが悪くなって殊勝に謝るが、ヒカルの頬は膨れたままだ。
「……悪かったよ、進藤」
もう一度謝って今度は柔らかく握ってベンチに促して座らせると、アキラは近くの噴水にハンカチを浸して絞り、赤くなった
ヒカルの手首に巻いてやる。
「どう?」
「……冷たくて気持ちいい」
一応はこれで多少は許してくれたらしいが、ぶすくれた表情のままでこちらを見ようともしない。アキラはつきそうになる溜息
を呑み込んで、ヒカルの頬にそっと手を添える。
「ごめんね」
「…うん」
顔を覗き込んで眼を合わせた三度目の謝罪で、ヒカルはやっと頷いた。それにホッとしたのも束の間、ヒカルにまたも振り回
されている自分に苦笑する。さっきの行動などは我侭な女王様に尽くす侍従のようで、何だか滑稽な気がした。けれど、こうし
て触れて言葉をかわしただけで、さっきまでのどす黒く醜い感情が嘘のように洗い流されている。ヒカルと二人で居られれば、
アキラに欲しいものなど何もない。
「なあ…おまえさっき何で怒ってたの?何かオレ怒るようなこと言った?」
あれだけ露骨に嫉妬と独占欲に狂ったオーラを飛ばしていれば、誰でも気がつく。いくらヒカルが鈍くても、アキラが怒ってい
るぐらいのことは察せられるというものだ。さすがにアキラの感情の細かな機微までは把握できていなかったが。
どこかしら不安げに見上げられた表情に、鼓動が跳ね上がる。不覚にもこの場で抱き締めたい衝動にかられ、さっきとは違
った意味で理性を総動員して押し止め、内面の葛藤を押し隠して表面上は冷静に取り繕った。
「……別に大した理由じゃないよ。ボクが勝手に怒っただけなんだ、キミには何の非もないから」
できれば怒っていたことがばれていなければいいと思っていたが、やはりばれてしまっていたらしい。アキラは笑顔をみせな
がらも、これ以上突っ込んだことをヒカルが聞いてこないようにひたすら祈った。どのみち聞かれたところで、アキラにも明確
な答えというものが出せないのだから、祈るだけ無駄とも言えるのに。自分でもどうしてそう考えるのか分からないまま。
昏く醜い負の感情でヒカルを穢したくないという、己の無意識の想いにアキラはこの時気付いていなかった。
何よりも、自分の想いを知られてヒカルが離れていくことを恐れていたことにさえ。
「……おまえがそう言うなら、もういい」
随分経って小さく呟いたヒカルの声に、アキラはやっと心から穏やかな笑みを浮かべることが出来た。