翌日、朝の光の中で輝く緑の森を、アキラは一人で歩いていた。
 昨日は帰ってからご機嫌取りに随分と苦労した。そして今朝は起きた早々、虎は朝の散歩に出かけてしまい帰ってきていない。
 どうやら朝から不貞腐れたようで、部屋を散らかして八つ当たりした後、外へ出たようだった。アキラとしてもそのまま無視して学校に行くのも嫌で、結局虎を
探しに森に入ってきている。
 時折立ち止まっては虎を探すように周囲を見回し、声を上げて呼びかけ、また歩き出すといった行為をさっきから繰り返していた。
 だがアキラが探し求める虎は、姿を現さない。
 恐らく虎にはアキラの声が聞こえている筈だ。それなのに近づいてこないということは、かなり不貞腐れている証拠だといえる。
 アキラ自身が見つけないと、虎は見つからない可能性も高い。
 だからといって見つけられずに諦めて登校すると、帰ってきてからの報復攻撃がどんなものになるのか、想像するだに恐ろしい。
 きっとアキラの部屋は物凄い状態にされるだろうし、四天王の三人からは散々愚痴を聞かされる破目になる。そしてその後は寂しさで不貞腐れた虎を構い倒
し、機嫌が直るまで徹底して尽くす。
 むくれた虎の機嫌をとるのもこれはこれで楽しいのだが、色々と体力を使うこともあって疲れを覚えることもしばしばあった。
 ゆっくりと秋の気配が近づきつつあるにも関わらず、濃密な大気は未だに夏の名残を残している。
 まるで空気そのものがエメラルドグリーンに染まっているように思える。
 アキラは歩きながら時計をちらりと見やり、僅かに眉を顰めた。
 時刻はもうすぐ七時三十分になろうとしている。そろそろ食事をして仕度をしないと、学校に遅刻するかもしれない。
 丁度高校生という年齢に達しているアキラの考えとすれば、それは至極真っ当であり当然の認識といえる。真面目そうな見た目からしても、遅刻など一度も
したことがないのだろう。昨日も散々虎の可愛い誘惑に大変な思いをしながら登校したというのに、彼は懲りずに探しにきている。
 学習能力がないというよりも、やはり虎を無視したまま登校するのは気が進まないのだ。仲直りをしないままでは、やはり気まずい。
 真っ直ぐな黒髪を爽やかな風に揺らし、アキラは口元に片手を当てると、精一杯声を張り上げた。
「進藤ーっ!」
 虎の名前にしては奇妙だが、彼の声は朝の森の中に吸い込まれ、小さくこだましながら消えていく。アキラはしばらくその場に立ち尽くして様子を見ていたが、
緑に覆われた世界からは何の返事もない。
「進藤!」
 持っていた荷物を持ち直してもう一度呼ぶが、やはり返事も気配もしなかった。思わず盛大な溜息が零れる。
 アキラの荷物は奇妙なことに、一枚の白い布切れだった。大きさはシーツほどではなく、また風呂敷ほどでもない。恐らくその中間辺りというべきか、人間が
一人丁度包めるくらいの大きさだ。
 昨日の朝、ヒカルが自分の身体を覆っていた布である。
 虎に対して進藤と呼び、人間の進藤ヒカルが着ていた布を後生大事に持って、森の中をアキラは闊歩している。アキラの行動はまるで虎を人間と同様に思っ
ているようなところもあった。
 いかにも育ちの良さそうな気品を漂わせた美貌の少年が、森の中を虎の名を呼びながら歩き回るというのも奇異な取り合わせだ。
 かなり風景とそぐわないように思えるが、不思議とこの自然の中に溶け込んでいた。まるで森が彼を歓迎しているようにすら見える。
 アキラは再び時計を見て、周りを見回しながら歩き出した。
 そんな彼の斜め後方、ほんの二メートルほどの距離の茂みに何かが潜んでいた。
 風の中で気配を完全に殺し、存在そのものを森の自然と一体化させた一匹の獣が。
 その動物とはアキラの探す虎だった。美しい金と黒の縞模様に覆われた巨体を茂みに同化させ、獲物を狙うように身を低くしている。
 おおよそ平和な森の風景には全くそぐわないほど完璧に、虎は少年に狙いを定めるように見詰めていた。ただ一つこの風景に合う点があるとするなら、虎に
明確な殺気がないことだけだろう。虎はアキラの隙を窺うように砂色の瞳で凝視しながら、音一つさせずにするりと茂みから抜け出して後を追い始める。
 草を踏む微かな音すらも、鳥のさえずりに掻き消されるほどに小さく、気配もない。
 この森に住む野鳥すら捕食者である虎の存在に気づいていないと思えるほど、自らの気配を自然に同化させている。
 十数メートルの距離を歩いてアキラは再び立ち止まると、先ほどと同じように手を口元へと持っていった。
 そして、アキラが立ち止まるのを待っていたように、後方からゆっくりと距離を詰めていた虎が突然走り始めた。
 それまであいていた距離が縮まり、ほんの数メートルで少年に追いつくというところで、虎の気配を察したのかアキラが振り返る。
 黒い瞳が驚愕に見開かれると殆ど同時に、虎が跳躍した。
 アキラの瞳に映ったモノに、驚くべき変化が訪れる。
 振り向いた瞬間は虎であったものが、凄まじい速さで体毛が薄くなり、延ばした四肢がほっそりとした人間の手足へと変わっていった。
 獰猛な牙の生えた口は愛らしい桜色の唇になり、野生を残した鋭い眼は謎めいた光を宿した砂色の瞳へとなる。
 やがて虎であったはずの動物は、均整のとれたしなやかな肢体の、一人の少年へと変化を遂げる。
 虎だったという名残を、金と黒の髪に残すようにして。
 そして一瞬のうちに空間がゼロになり、二つの存在が一つに重なる。
 二人の少年はもんどりうって、草地に転がった。
 綺麗な黒髪の少年の上に、前髪は黄金で残りは黒という少し変わった髪型の少年が乗りかかって、ぐりぐりと胸元に頭を擦り付けている。
 その仕草は飼い主に懐いて甘えている猫を髣髴させて愛らしい。
 アキラにくっついている彼は、紛れもなく進藤ヒカル少年だった。
 信じ難いことに虎が人間に変身してアキラに抱きついたのだ。だがアキラは驚きもせずに、くっついてくるヒカルの頭を撫でている。
 アキラに今現在しきりに甘えているヒカルは、昨日誘惑して引き止めようとした虎と同一人物だったのである。
 全裸の少年にいきなり抱きつかれたアキラは、驚きよりも相手のあられもない姿に頬といわず首筋までも真っ赤に染めていた。
「し、進藤!ちょ、ちょっと…」
 慌てて引き離そうとするアキラとは対照的に、ヒカルは均整のとれた伸びやかな肢体を惜しげもなく晒したまま、嫣然と微笑む。
「……塔矢…」
 その笑みに何かを察したのか、アキラは明らかに焦ったように瞳を泳がせ、身を起こそうとした。
 しかし、ヒカルはその動きを予想していたのか、難なく封じてしまう。
「ねぇ……しよ?アキラ」
 自分よりも幾分体格のいい少年の動きを腕一本で押さえ込んだヒカルは、艶っぽく光る口唇から甘い声で囁きを零し、顔を寄せてきた。
 最初は抵抗しようとしていたアキラも、甘い唇を感じてしまうとどうにも誘惑からは逃れられない。重なり合った唇から互いを貪るような淫猥な音が響き、爽や
かな森の景色の中に吸い込まれていく。ゆっくりと離れた唇を名残惜しむように、アキラは彼を呼んだ。
「…ヒカル……」
 思わずこういう行為の時でしか呼ばない名前で呼びかけてしまってから我に返り、大いに焦った。このままでは誘惑してくる相手のペースに完全に捕まって
しまう。背中に冷汗を感じながら今更のように逃れようとしても、伸し掛かってくるヒカルの身体はびくともしない。
 単に腕力だけならばアキラよりもヒカルの方が上だろうが、彼の虎としての能力が影響しているのならば、それも頷ける。
 普通なら同年代の少年に口付けされるよりも、虎がいきなり人間に変身する方に驚くだろう。出来のいいイリュージョンではなく、それは実際に起こった出来事
なのである。だがアキラはその点についても、また同性の少年にキスをされたことについても、全く頓着していない。
 彼にとっては、それらは当たり前のことなのだ。虎の姿で可愛い仕草をして足を止めさせたのも、綺麗な少年の姿で魅惑的にアキラを誘って引きとめているの
も、紛れもなく進藤ヒカルという少年だ。
 同一人物であるからこそ、アキラにとって誘惑してくる相手はとんでもなく強敵なのである。二人は同性でありながら恋人同士で、しかもヒカルは虎に変身する
ことができる特異な能力の持ち主だ。
 可愛い動物の顔でのおねだりだけでなく、愛らしい恋人として誘う相手と、毎日のように誘惑と戦う駆け引きを行っている。
 幸せといえば幸せだが流されまいと苦労することが多いのも頷ける。
 何せ敵もさるもの、あの手この手と、手を変え品を変えてはアキラを誘惑してくる。恋人としてくる時もあれば、虎という動物特有の仕草で、飼主心(飼っている
わけではないが)を刺激するという方法も使ってくるだけに、始末が悪い。
 登校するまでの朝のこの時間が、アキラにとっては一日の正念場というべきものなのだから、彼の苦労には哀れさすらあった。
 今朝は魅惑的な恋人の顔でアキラを誘ってきている。これも中々に強烈で抗い難い誘惑だが、ここで何とかしなければ、アキラは学校に遅刻どころかずる休み
してしまうことにもなりかねない。
 再び艶光る唇を近付けてきたヒカルに流されまいと、アキラは何とかここで踏ん張って押し留めるため、必死になって言葉を紡いだ。
「ちょっと待て!進藤、ボクはこれから学校なんだぞ」
 ともすればアキラの眼はヒカルの唇や、桜色の胸元の飾り、きめ細かな美しい肌に吸い寄せられてしまう。悲しいかな、恋人を前にした男の性で、身体はすぐ
に反応しそうになるのだ。ヒカルもそれが分かっているからこそ、アキラを誘惑する手を一切緩めない。
 愛しい恋人を自分の傍に引きとめるためなら、全裸で押し倒す程度のことなど、やって当然の手段の一つだ。
 押し倒してもアキラがのってくれば主導権は全て彼のものになる。
 アキラをその気にさせてしまえば、ヒカルの勝ちだ。
 この方法で駄目だったら、明日はまた違うやり方でアキラを引きとめるだけの話である。
 この駆け引きはどこか真剣勝負ともいえるかもしれない。
 互いの想いが分かっているからこその、苛烈な戦いだ。
「サボればいいじゃんか。それよりもオレとしよ?」
 悪びれた風もなく返してきたヒカルは、アキラの着ている衣服を既に脱がしにかかっている。口元には妖艶な笑みすら浮かべて。
 このままでは外で抱き合うことにもなり兼ねないのだが、アキラの意識はそれとはまるで別方向に向かった。
 ついさっきまでは防戦一方で、ともすればヒカルの誘惑に流されそうになっていたものが、唐突に軌道修正されたのである。真面目一辺倒のアキラにしてみれ
ば、ヒカルの『サボればいい』という発言はそうそう簡単に許せるものではない。彼は体調不良などでない限り、学校を不当な理由で休んだことはないのだ。
「なっ…!」
 思わず絶句したアキラは、みるみるうちに顔を険しいものへと変えていく。
 瞳に刀剣の刃を思わせる輝きが宿り、眦がくっきりと吊り上がって、頬が怒気で紅潮していった。
「ふざけるなっ!学生の本分は勉強だぞ!」
 如何にも優等生らしい台詞をのせた怒鳴り声に、ヒカルはぽかんと口を開ける。ボタンを外そうとした手も宙に浮いたままだ。
 どうやら何故アキラが突然怒り出したのか分からないらしい。
 力の抜けたヒカルの手を振り払ったアキラは、素早く立ち上がると持っていた白い布で想い人の身体を包んで、腕を掴まえて立たせた。
 ヒカルは唖然とした様子で、アキラの成すがままになっている。
 余りにもアキラの反応が予想外で、驚いているらしい。
「帰るよ」
 そのまま歩き出したアキラに腕を引かれて着いていきながら、ヒカルは大きな瞳を不安そうに揺らして上目遣いに見上げる。
「何で怒ってんの?なぁ、塔矢」
 胸元で布をぎゅっと掴んで、アキラの腕に取り縋るようにして尋ねる。必死なその様子は、つい先ほどまでアキラに自ら口付けを求め、蠱惑的に彼を誘っていた
とは思えないほど幼さがある。何だか自分がヒカルを苛めているようで、可哀想になってくる。
 小さな子供のように頼りない声で問われたアキラは、ヒカルを腕の中に抱き締めて、愛しげに髪を撫でて顔を埋めた。
「ごめんね、言い過ぎた。キミを怒るつもりはなかったのに……」
 ヒカルの頬を挟んで顔を上げさせると、軽く口付けを落とす。
「離れてるくらいなら塔矢に学校行って欲しくない。そんなに学校って面白い?オレと一緒に居るよりも?」
 まるっきり幼い子供のような問いかけに呆れるよりも、アキラの胸に沸いてきたのは深い愛情だった。こんなにも可愛いことを言ってくる愛しい人を、置いて出かけ
るのはいつも苦痛で仕方がない。だからといって、自分の好きに生きるわけにもいかないのだ。
 溢れる愛しさに任せ、アキラはヒカルを抱き締める腕に力を込める。
 少しでも彼に自分の気持ちが伝わるように。
 離れる時間を少しでも減らすためにヒカルはこの日本にやってきた。
 アキラと一緒に居たいという、それだけのために。
 けれどアキラはいつも、ヒカルを置いて学校というものに行ってしまう。ヒカルにはそれが不満なのだ。
 転入手続きがまだできておらず、待ちぼうけを喰わされているのも彼には不服なのだろう。
「家に帰ったらずっと傍に居るよ。明日は半日で帰ってくる。明後日は日曜日だから一日中一緒に過ごすから」
「ホント?」
 また自分を置いて出かけるというのが気に入らないのか、少し頬を膨らませているヒカルの額に唇を落とす。
「約束する。夕方まで会えないし朝食は一緒に食べてくれるだろう?」
「うん!」
 顔を輝かせて力強く頷いたヒカルは、次の瞬間には虎の姿に戻っていた。膳は急げとせっつくように、アキラのベルトを銜えて背中に乗れと促してくる。
 アキラは白い布を拾って手早く畳むと、ヒカルの背に掴まった。
 風のように走り出したヒカルの背からは、朝靄に煙るようにして、下方に広大な敷地を持つ屋敷が見えた。


                                                                   百華仙帝 T誘惑者(前編)百華仙帝 T誘惑者(中編)百華仙帝 T誘惑者(中編)百華仙帝 T誘惑者(中編)百華仙帝 T誘惑者(中編)   百華仙帝 U闇の胎動(前編)百華仙帝 U闇の胎動(前編)百華仙帝 U闇の胎動(前編)百華仙帝 U闇の胎動(前編)百華仙帝 U闇の胎動(前編)