緒方精次は保健室の窓から外を眺め、いつものように登校する生徒達を見るともなしに見詰めていた。手に持っていた煙草を白衣の下の背広にしまいながら、
小さく嘆息する。これでしばらくの間、煙草を吸うのはお預けだ。
 さすがに学校に居る手前、生徒の眼の前では煙草を吸えない。
 今までの生活では自由に煙草を吸うことができたが、学校というものに赴任してからはまともに吸えない日々になっている。
 元来ヘビースモーカーの緒方にとっては苦痛でしかないのだが、それでもこれを機会に禁煙といった思考には向かない。
 緒方がこの海王学園高校に着任したのは九月からである。
 今はかなり暇な保険医に身を費やしているが、彼の本来の仕事は全くこれとはかけ離れたものだった。
 『一族』と呼ばれる者達がこの世界には居る。
 その者たちは、一般人が知らない人外の力を持つ存在だ。
 人間の生命エネルギーを糧とし、不死身に近い肉体を持ち、特殊な能力を個々に持っている。人間と変わらない姿をして、普通の一般市民にはその違いは全く
といっていいほど分からない。
 俗に言う霊能者や修験者と呼ばれるような人々でなければ、異質な存在である彼らの危険性を察知できないのだ。
 一族は基本的に不死身と言っても差し支えのない再生能力があり、歳をとることもなく生き続ける。人間の命を糧にしながら。
 だが、彼らは完全な不死身でもなければ不老不死でもない。
 多大なダメージを与えれば、如何に強固な肉体であっても倒すことはできる。各地域の宗教の影響を受けて、弱点も見つけられる。
 狼男やバンパイア伝説も、デフォルメされた同じ存在だ。つまり、聖水や呪符、真言や呪文などの攻撃も有効なのである。
 彼ら一族の能力にただの人間では太刀打ちすることは不可能だ。だが、人間とて大人しく餌として殺されるわけにはいかない。
 人間が一族への対抗措置として密かに作ったのが、各国政府でも密かに公認されている、緒方が現在属している組織である。
 その組織は、世界に破滅をもたらし均衡を乱す恐れのある一族を倒し、消し去るために密やかに活動を続けている。
 いわゆる秘密結社というものである。
 名はご大層なもので『薔薇十字団』。
 活動は五千年以上前に遡り、四千年前には各地に支部も作られた。
 昔から、本部が置かれているのがドイツであるため、ローゼンクロイツと呼ばれている。緒方はその日本支部に席を置く幹部だった。
 一族は『クラウン』を長と崇めて頂点に据え、次に『四天王』などが続く絶対的なピラミッド構造を築いている。
 『クラウン』や『四天王』といったコードネームはあくまでも組織がつけたものである。
 一般的に一族は『クラウン』をアジア方面では百華仙帝、世界各地で共通して主人、長、我が君、世界の王とも呼ぶ。
 『四天王』は『クラウン』によって作り出された側近であり、直接力を与えられているため、一族とは全く別の存在だ。一族は人類の敵だが、彼らは『クラウン』に仕
えているため他には無関心である。
 百四十年前まで『薔薇十字団』にとっては、一族が崇拝する『クラウン』とその眷族である『四天王』も排除の対象となっていたが、現在では彼らに対してのみは
不可侵という暗黙の了解事項がある。
 というのも、『薔薇十字団』の創設当時は『一族を倒して人間を護り、『クラウン』に近づけない』、この二つが目的だったからだ。
 創始者が組織を作った当時の理念は、一族を倒すことであって『クラウン』と敵対することではなかったのである。
 だからこそ、現在の薔薇十字団は『クラウン』と関わらない。
 そしてその側近である『四天王』も組織は手出し無用としている。
 では『クラウン』こと百華仙帝とはそもそも何者であるのか。
 創始者の残した書物の記述によると、このように記されている。
 『彼の者は現世を支配する「世界の王」である。
 美しき者である。
 不死の者である。
 誘惑する者である。
 気高き者である。
 自然そのものである。
 わが命である』
 『薔薇十字団』の創始者は最強と呼ばれた最高級の退魔士であっただけでなく、『クラウン』の恋人でもあり、一生を彼に捧げた。
 その後も創始者は幾度も転生を繰り返して『クラウン』の元へ戻り、逢瀬を幾度となく続け、現代にもその魂は受け継がれている。
 記述にある「世界の王」とは、この世界に神や悪魔も全てを作り出した真の創造主を意味する。
 『世界の王』にとっては、善も悪も最初から意味をなさない。
 完全な中立者であるが故に、恐ろしく無慈悲で無関心な、絶対的な力を持つ支配者なのである。
 緒方はかつて、その存在と真っ向から相対したことがあった。
 見た目は綺麗な少年で無害な子供に見えた。だが、緒方が自分の対応をほんの少しでも間違えていれば、ここには居なかっただろう。
 過去に彼と敵対した者達と同じように、彼の恋人を手にかけようとしていたら、怒りの鉄槌を下されて消し去られていたに違いない。
 緒方が今ここに居るのは、彼の恋人に下手な手出しをしなかったことと、その恋人のことを幼い頃から知っていたお陰でもある。
 日本支部の幹部になっている緒方ですら『クラウン』の前では子供以下の扱いで、彼の恋人のおまけで生かされたようなものだった。
 前回の任務で『クラウン』と真っ向から相対し、お情けで生かされ、何とか無事に戻ってきた次の任務がこの学校の保険医である。
 緒方が本来の仕事である『人類の敵である一族を倒す』任務をこなさずに、保険医として学校に潜り込んでいるのには訳があった。
 この学園には、その『クラウン』の恋人が通っているからだ。
 『クラウン』の恋人は創始者の転生であり稀有な魂の持主であることから、一族にも狙われやすい。緒方は彼の護衛と、もう一つは『クラウン』の動向をそれと
なく見張る役目も兼ねて学校に潜入している。
 『クラウン』は恋人の傍に居るために、わざわざ日本に来て、しかも学園のすぐ傍に居を据えているのだ。校内はまさにうってつけの張り込み場所である。
 そして予想通り保険医として赴任してすぐに、動きはあった。
 護衛として『四天王』の一人までもが入学してきたのだ。それだけでも緒方にとってはとんでもない出来事であったが、全く容認できない問題でもない。
 『四天王』が『クラウン』の命令で恋人の護衛につくことは、十分想定の範囲内であったからだ。
 そう、この日がくるまでは。
 きっと今日も暇な一日なのだろうと、流れる人波を見ていた緒方だったが、黒髪の学生の中に妙に目立つ金髪を見つけて眼を剥いた。
 緒方が組織から密かに護衛を命じられている、『クラウン』の恋人である塔矢アキラと一緒に、綺麗な少年が周囲を好奇心たっぷりに見回しながら登校して
きている。同じ制服を着込み、学生達の眼も気にせずにアキラにくっついて。
 しまおうとしていた煙草をパッケージごと握りつぶしたことにも気づかずに、唖然とその人物が校舎に入っていくのを見送った。
 組織がコードネームで『クラウン』と呼び、一族は『百華仙帝』として崇拝し、また『世界の王』と四天王が敬う存在である進藤ヒカルが、人間の通う普通の高校
にやってきている。創造主が何で学校なんぞに来る必要があるのだ。
 アキラがこの学園に通っているからといって、何も一緒に来なくてもいいものを。
 頼んでもいない余計なトラブルが、あっちから勝手に来ることにもなり兼ねない。
(…冗談じゃない!勘弁してくれ……)
 今更ながら、任務を放棄したくなった緒方であった。

 職員室で駄々を捏ねるヒカルを宥めて教室に戻ったアキラは、朝から脱力感にぐったりとしていた。
 アキラにしがみついたまま離れようとしないヒカルの姿に眼を白黒させていた、担任の門脇や周囲の教師の姿が何ともいたたまれない。
 あの後、常識の通じない転入生を相手に門脇がどんな目にあっているのか、なるべくアキラは考えないことにした。
 今日に限ってヒカルが引き止めてこないことを訝しんでいると、自分と同じ制服に身を包んだヒカルに、一緒に登校しようと誘われたのである。まさか今日から
学校に来るだなんてアキラは考えもしなかっただけに、驚きと同時に嬉しさもあった。
 ヒカルにくっつかれて登校するのはさすがに困ってしまったが、決して悪い気分ではない。ヒカルに愛されているという事実を、どんな形であるにしろ認識できる
のは幸せなことだからだ。けれど職員室で門脇に預ける時は、さしものアキラも困ってしまった。
 一緒に教室に行くと駄々を捏ねるヒカルを宥めて、先生から学校のことを聞くように諭すだけでも一苦労だったからだ。
 同じクラスになるのは、永夏に聞かされて知っていたが、先刻のやり取りから鑑みて今後のことが思いやられる。
 思わず席についてから、大きな溜息が零れてしまった。
「なあなあ、塔矢。朝、君にくっついてきた子誰?」
「腕にぶら下がってた美少年だよ、塔矢君」
 小学生の頃からの幼馴染である津川と中村に早速声をかけられ、一瞬何と答えるべきかアキラは迷った。
 実はヒカルとは恋人で、一緒に暮らしているのだが、いきなりそんな事を言ってしまうのも彼らには衝撃が強過ぎる気もする。
 やはりここは無難な線を選ぶべきであろう。
アキラは友人達に説明するべく、簡単に経緯を語ることにした。
「ボクが休みの度に海外へ出かけていた時、いつも会っていたのが彼だよ。もう十年くらいの付き合いになる」
 嘘は言っていない。ヒカルとの付き合いは確かに十年を超える。
 例え殆どが虎の姿をしていたヒカルであったとしても、嘘ではない。
 付き合っているというのも、友人としても恋人としての付き合いも含まれているので、どちらで解釈するのも彼ら次第だ。
「へぇぇ〜、あの子とね」
「海外育ちなら、スキンシップが濃いのも当り前か…」
 中村も津川も、取り敢えず納得したように頷く。どうやら彼らは、帰国子女の少年が慣れない日本で不安を感じ、保護者のようにアキラを慕っていると解釈
したらしい。ヒカルはそんな大人しいタマではない。むしろ正反対だ。
 今まで一度も通ったことがない学校とはどんなものかと好奇心一杯で、校内を探検したがっていたのだから。
 登校してきた時も、ヒカルが勝手に歩き回らないように、アキラが自分の傍に引き寄せていたことと、彼が甘えてきていただけなのだ。
 しかしわざわざ訂正はせずに、アキラは黙っておいた。どうせすぐに真実は知れるであろうと既に予測もしていたし、覚悟も決めている。
 ヒカルが同じクラスに転入してくれば、必ず騒動の一つや二つや三つは、絶対にあるに決まっているからだ。
 よくよく考えれば、ヒカルは学校に行ったこともなければ、集団生活もしたことがない。彼は自分の好きに、自由に生きてきた。
 学校という狭い社会のことを何一つ知らない。
 どれだけ知識を持っていたとしても、人間の一般常識は分からない。
 進藤ヒカルはそういう存在だ。
 転入初日から一波乱を二波乱もありそうだと、アキラは思った。
 そうこうしているうちにチャイムが鳴り響き、クラス中の学生達が次々に席につく。誰もが今日転入生が来ることを知っており、興味津々で好奇心をむき出し
にして待っていた。九月も下旬に入り十月に近付いている時期外れの転入生。興味を持つなと言われても持ってしまうものである。
 しかもその人物はアキラの知り合いでもあるのだから。
 アキラ自身に自覚はないが、美貌もあって校内でも他校においても結構な有名人だ。登校の様子から転入生がアキラと親しいと、既にクラスの全員が知って
いれば尚更だろう。唐突に扉が開き、担任の門脇がヒカルを連れて教室に入ってきた。
 心なしか門脇の歩調はよろめき、疲れているように見えた。
 クラス中の注目が、門脇に続いて歩くヒカルに集まっている。
「転入生の進藤ヒカル君だ。皆仲良くするように」
 教壇の脇に立ったヒカルを紹介した門脇は、疲労の篭もった溜息を吐いた。朝からもう既に今日一日の体力を使い切った気分である。
 物凄い天才少年だと学年主任には聞かされ、新理事長からもくれぐれも彼の扱いには気をつけるように念を押された。
 だが、実際に会ってみると子供のように無邪気な愛らしさと同時に、物事の常識が通じない、とてつもないオレ様的ワガママ女王様であると判明した。
 弄ばれたい気持ちもあるが、そんな危険に首を突っ込んで泥沼にはまるのもゴメンである。
 この先のことを考えるだけで門脇は不安で胸が押し潰される。
 何せ、早速のように彼は生徒に紹介した門脇の意図を理解できていない。それどころか、聞く気も全くない。
 普通の少年なら、このように紹介されれば「自分は何某です、よろしくお願いします」と口を開くところだ。しかし、ヒカルは何も話さず、物珍しげにきょろきょろと
教室を見回している。門脇がヒカルに自己紹介するように促そうと眼を向け、生徒達もヒカルの言葉を待っているというのに。
 ヒカルは一言も言わないどころか、門脇からの挨拶を促す目線も生徒の有象無象の視線にも気づくこともなく、アキラを見つけた途端にひどく嬉しそうに微笑
んだ。これだけでクラスの誰もが、彼の魅力に魅了されてしまう。その笑顔を見ただけで、彼が何をしても全てを許したくなる。
 誘惑する者と、遠い過去の人物が評したように、彼が無意識に放つ魅惑の力の前には、どんな人間も抗う術などないのだ。
「あー…では進藤君の席は石川さんの隣だから」
 門脇ですら、自己紹介もせずによろしくと挨拶もしないヒカルを咎めようとせずに、さっさと席を案内する始末だった。
 丁度空いていた席を示した門脇だが、ヒカルは彼が示した席に着こうとはせずに、きっぱりと拒絶する。
「ヤダ!オレは塔矢の隣がいい」
 クラス全員の目が、一瞬にして点になった。
(やはりこうなったか……)
 自分の予想通りの展開に、内心大きな溜息を吐く。アキラは既に半分諦めの境地に至っていた。
 少し考えれば分かることで、ヒカルはこういった学校生活の中でも、自分のワガママを平然と突き通すのは当り前だからだ。
 彼は全てにおいて他者に傅かれる存在であり、誰もが平伏する。
 ヒカルからの要求や希望を叶えるのは至極当然なのである。
 それはヒカルにとって、呼吸をすることと同じくらい自然だ。
 ヒカルに対して逆らうことは、創造主に叛旗を翻すと同義である。
 目の前にいる者の正体に気づいていようがいまいが、どんな存在にしろ、本能でそれを避けようとする。
 例え連続殺人犯でも、幼い子供でも、ヒカルの言葉には逆らえない。
 勘弁して下さいと頼むことはできても、真っ向から逆らえない。
 彼と真っ向から意見を対立させたり、逆らおうとするには、並外れた強靭な意志と力が必要になるのだ。
 ただの人間にそうそうできることではない。
「え、えーっとだね、進藤君。塔矢君の隣はその……」
 既に埋まっている席に座りたいと駄々を捏ねられてしまい、しどろもどろでヒカルを窘めようとする門脇だが、ヒカルは一向に彼の言葉を聞く気はないらしく、
もう一度繰り返す。
「塔矢の隣じゃなきゃヤダ」
 教師生活五年の門脇にとって、これはまさに前代未聞の珍事であった。小学生低学年の子供のように、誰々君の隣じゃなきゃヤダとか、誰々ちゃんと一緒
じゃなきゃイヤなどと、言った生徒は一人も居ない。
 例え心で思っていたとしても、周囲の状況などから判断して、自分の考えや希望を我慢するだけの社会的常識は、高校生というこの年になれば誰でも身に
ついているものだ。既に高校生にもなっている少年や少女が、こんな台詞を口にするなど、常識的に考えると有り得ない。有り得る筈がない。
 しかし、門脇の眼の前には居た。歩く非常識が。
「塔矢の隣がいい。そこじゃなきゃイヤ」
 三度も繰り返され、門脇はどうにもこうにも進退が窮まった気がした。この望みを叶えないとどうなるのか、本能が警鐘を鳴らしている。
 それはアキラのクラス全体に伝播したようで、アキラの隣の席に座っていた中村が素早く挙手を行った。
「先生!オレ、席代わります」
「おっ!そうか!じゃあすぐに移れ」
 門脇には彼の行動が、まるで救世主が世界を救おうとしているように見えたほど有り難かった。彼の場合は面白がっている面も多々あるのだろうが、ここは
厚意として素直に受け取るべきだろう。
 門脇は明らかにほっとした顔をして、中村を促した。彼は手早く鞄と荷物を生徒にリレーして貰って新しい席に移すと、自分も席を立ち上がって石川という女子
の隣の席へ引っ越す。これでヒカルの席は出来上がり、再び門脇に促されるまでもなく、彼はそれが当り前というようにアキラの隣に腰を下ろしたのだった。


                                                                      百華仙帝 U闇の胎動(後編)百華仙帝 U闇の胎動(前編)百華仙帝 U闇の胎動(前編)百華仙帝 U闇の胎動(前編)百華仙帝 U闇の胎動(前編)   百華仙帝 U闇の胎動(後編)百華仙帝 U闇の胎動(後編)百華仙帝 U闇の胎動(後編)百華仙帝 U闇の胎動(後編)百華仙帝 U闇の胎動(後編)