一時間目の授業は、ヒカルは適当に教科書を見たりして比較的大人しく座っていた。だが二時間目に入ると飽き始め、三時間目になると退屈で堪らなくなってきたようで、
欠伸を連発する始末だった。
 四時間目ともなるとすっかり飽きてしまったようで、ヒカルは既に授業を受ける気が殆どないようにアキラには見受けられた。
 休み時間中も、つまらないとアキラに文句を言っていたからだ。
 かといってヒカルを帰宅させることは難しい。家に帰そうとすれば、きっとアキラも一緒に帰らせようと誘惑してくるに決まっている。
 学校の中でアキラがヒカルに対してできることは、せいぜい授業中は大人しくしているようにと、言い聞かせるくらいが関の山だ。
 授業チャイムが鳴り、数学教師の鎌石が教室に入ってくる。
 教師が入ってきた時点で、既にヒカルはご退屈様になっていた。
 教科書を開くだけで大きな欠伸をし、見る気も全くない。
 そんなヒカルの姿を見た鎌石は頬を引きつらせた。天才の転校生だが何だか知らないが、学校に来てこの態度は許せなかった。
 鎌石は堅物で融通のきかない性格であるが、それは真面目さゆえであるからか生徒の人気も低くはなく、教育熱心な人物だった。
 それだけに、ヒカルが授業を受ける気もなく、教科書を見ずに隣のアキラの横顔ばかり眺めているのが視界に入ると正直腹立たしい。
 転入試験の成績は素晴らしかったといっても、これでは何のために学校に来ているのか分からない。
 ヒカルの目的がアキラの傍に居るためだけだという事実を知らないだけ、鎌石はまだ幸せだった。彼がこの事実を知ったら、神聖な教育現場に不埒な考えを持ち込むなと、
危うく憤死しかけていただろう。最初から眼に余るほど態度の悪い生徒に腹立たしさを隠しきれずとも、鎌石は粛々と授業を進めていた。
 そんな彼の背後では、すっかり授業に飽きたヒカルが、隣のアキラに盛んに話しかけていた。
「塔矢、腹減った。ごはん食べたい」
「昼休みまで我慢して」
「退屈なんだもん、お腹もすいたし」
「授業中は黙っているんだ、進藤」
 話しかけられる度に、アキラは何とかヒカルを大人しくさせようと小声で諌めるが、まるで効果はない。
 取り敢えず注意されたら五分くらいは黙っているのだが、すぐに飽きて性懲りもなくアキラに声をかけてくる。
「なぁ、お膝抱っこして」
「ダメ」
「いつもはしてくれるじゃん」
「授業中にするわけにいかないんだ」
 すっかり甘えモードに入っているヒカルに、アキラは泣きたいくらいだった。このままでは本当に膝の上に座ろうとしかねない。
 ヒカルはアキラが構わずにいると、とにかく甘えてくる。
 夏休みに一緒で過ごした時も、アキラが宿題を片付けていると、膝に座ってきたり、虎の姿でわざと教科書の上に寝転がったり、ノートを隠したりと、様々な妨害工作をし
てくれた。それら全ての行動が、アキラに構えというアピールなのである。
 反対にアキラが構おうとすると気分がのらなかったりと、まるで猫のように気まぐれなところがあった。
 アキラにはそこが可愛いのだから、自分としても対処に困ってしまうが。
 敢えてヒカルに眼もくれず黒板に書かれる数式を書きとめながら、すげなく答えるアキラを、頬を膨らませて睨みつけてくる。
「なんでぇ…ケチ」
(ケチだと?その可愛い口でボクにケチだなんて言うのか?)
 不当な評価に自尊心が擽られ、思わず隣の席へ視線を向ける。
 すると、上目遣いにアキラを睨んで拗ねているヒカルと眼が合った。
 不満そうに尖らせた桜色の唇は魅惑的に艶光り、思わず口付けたくなるほど愛らしい。授業中でなければ迷わず唇を奪っていただろう。
(い…いけないっ!ここで進藤の作戦にはまるな!)
 ヒカルから眼を逸らせないまま、必死になって自分に言い聞かせる。
 いつもヒカルに誘惑され、毎朝のように本人と戦い続けてきた甲斐あって、警戒信号が脳裏に点灯するのも早かった。
 しかし敵側は、恋人への苛烈な攻撃手段に時と場所を選ばない。
 授業ばかり聞いているアキラが不満だったヒカルは、どんな形にしろアキラが顔を向けたことに満足げに微笑んだ。
「じゃあさ、保健室でHしよ?」
「………っ!」
 アキラは机に頭をぶつけかけ、彼らの周りで会話に聞き耳を立てていた生徒達も、ヒカルの台詞に椅子から転げ落ちそうになった。
 休み時間に校内を案内した時に、保健室にはベッドがあるということを知った上での発言だと推測できるが、保険医の緒方の迷惑について全く考えていないのは確か
である。保健室のベッドが何のために使われるのか、目的を無視した発言だ。
 これらの会話は当然ながら数学教師の鎌石にも筒抜けである。
 ヒカルは余り小声で話していなかったからだ。
 彼は自分とアキラの関係が周囲にばれても何も思わないし、いけないことだとも考えていない。ヒカルがすることは全てにおいてまかり通るのだから当然だ。
 同性同士の恋愛が禁忌であるという考えは人間が考えたもので、彼にとってはそんな事は全く問題ではない。
 授業中に隣の席のアキラに話しかけてはいけないということにも、やはり頓着していなかった。
 アキラに注意されても平然と話しかけ、授業を妨げている自覚もこれっぽっちもない。
 チョークを握る数学教師鎌石の手が小刻みに震え、我慢も忍耐も堪忍袋の尾も切れそうになっているとも気づいていない。
 生徒の大半は教師に同情の眼を向け、アキラに何とかしろと無言のプレッシャーを与え始めていた。
 いくらまだ高校二年生とはいっても、一年先の大学受験を見据えている生徒も多い。
 塾に通っていても、海王高校での授業は受ける価値が高いのだ。
 特にこの鎌石の授業は分かりやすく、受験を見越す生徒にとってはちゃんと受けていたい授業の一つなのである。
 だからこそ、彼らにとってはヒカルがアキラに盛んに話しかけて、授業の進行や集中を中断されるのは傍迷惑以外の何ものでもない。
 誰も彼もが何をしても許してしまうとはいっても、いくらなんでもヒカルのこの行動は眼に余るのだ。しかしヒカルは何一つ頓着せず、アキラに甘えた声で話しかけている。
「塔矢ぁ……」
 この瞬間、鎌石の持っていたチョークが真っ二つに折れた。
 それと同時に、忍耐の糸もぷっつりと切れたらしい。
 鎌石はこれまで書いていた数学の問題を消し去り、黒板にさる数式を凄まじい勢いで書くと、憤然とヒカルに向き直った。
「進藤君。この問題を解きたまえ」
 ヒカルは黒板に書かれた数式を眺めて、きょとんと瞳を見開いて小首を傾げた。
 ヒカルには鎌石が何を意図しているのか分からずに首を捻ったのだが、他の生徒は見たことのない数式に戸惑っていた。
 少なくとも、大学受験とは関係ない数式に見える。
 それもそのはず、その数式は学会で初めて回答について発表されたばかりで、五十年以上も全世界の数学者が答えを求めて研究に研究を重ねてきたのである。
 一般市民は当然そんな事は知らない。
 学会で発表された内容についても、多少報道された程度だ。
 誰もが訳の分からない数式だと思い、答えがあるとは思わない。
 生徒達も訳が分からず、茫然と黒板と白墨で書かれた数式を眺める。
 どう考えても、ヒカルにこの問題が解けるとは思えなかった。
 鎌石もヒカルに解けるはずがないと、完全に高を括っていた。
 授業態度の悪い生徒を少し懲らしめてやろうという、教師としては子供っぽい考えであるが、そう思いたくなるほど彼は苛立っていたのだ。
 教師とはいえやはり人間だからか、感情を抑制するのは難しい。
 「君がこの問題を解いたら、塔矢君の机と自分の机をくっつけようが、授業中に眠ろうが、授業の妨害をせずに黙ってさえいてくれれば私は何も言うつもりはない。
だが、この問題を解けないのなら、真面目に黙って授業を受けたまえ」
 この時点では、鎌石はヒカルに対する勝利を確信していた。
 彼の予想では、ヒカルは問題を解けないと言って、大人しく授業に参加する生徒になるだろうと踏んでいたのだ。なる筈だと。
 しかし彼の読みは甚だ甘かった――と言うより、相手が悪かった。
 ヒカルは黒板と数学教師の顔を見比べ、もう一度首を傾げる。
「その問題解いたら、塔矢と机くっつけてもいいの?」
「ああ、いいとも」
「話聞かずに寝ててもいいの?」
 鎌石は未だに勝利を確信しながら、力強く頷いた。
「構わんよ。でも塔矢君の勉強の邪魔はしないように」
「ふーん、分かった」
 あっさりとヒカルは頷くと、徐に立ち上がった。勝手にアキラの机に自分の机をピタリと合わせる。アキラはその間も無言を貫いていた。
 理由は簡単である。止めるだけ無駄だからだ。
「こらこら、この問題をちゃんと解きなさい」
 少年の勝手な行動に声を荒げた鎌石に頓着せず、平然と言い放った。
「だってそんな問題、すぐ解けるもん」
「……はぁ?」
 素っ頓狂な声を鎌石は上げる。この問題は、全世界の天才と呼ばれる数学者が五十年以上もかけて必死になって解いた難問中の難問なのである。
 それをあっさり解けるなどと言いきったのだ。
 今更ながら旗色の悪さを感じ始めた鎌石を完全無視して、白墨を手にとるやいなや、さらさらと躊躇もなく数字や記号を書き込む。
 それに伴い黒板を見ている鎌石の顔が、少しずつ驚愕に歪んでいく。
 徐々に顔色を失い、持っていたコピーとヒカルの字の間とを、何度も視線を往復させ、信じがたい現象に声をなくした。
 この問題を解くための数式を書き連ね、最後に一つの答えをヒカルが書き加えた時には、鎌石は顔面蒼白になっていた。
 黒板に所狭しと書かれた数字と記号の羅列を、先刻パソコンで印刷したばかりの答えと何度も見比べる。まさに完璧だった。
 それどころか、数学者の考えた答えに及ぶ数式の中でも無駄なものは悉く省かれ、更に効率よく計算できる新たな式が書き込まれている。
 斬新かつ文句のつけようのない、見事な回答であった。
 一般向けにこの数式の答えが発表されたのは、日本時間で約三十分前である。
 鎌石は授業の直前であるにも関わらず待ちきれずにダウンロードし、後でゆっくり見ようと印刷したばかりだった。
 授業を受けていたヒカルがこの答えを知っているはずがない。
 元から答えを知らない限り。
(ば…馬鹿な……!)
 世界中の天才が五十年かけて解き明かした答えを、この少年は僅か数分で解いてしまったのである。それも何の躊躇もなくあっさりと。
 彼はこの時、真の天才というものが何たるか知った気がした。
「これで文句ねぇだろ?」
「は…はひ……」
 白墨を置いて尋ねるヒカルに、茫然と何度も頷いてみせる。
 この少年ならば、二百年以上研究されている数式すらも、ものの数分で解いてしまう可能性もあるだろう。それを想像すると信じがたい。
 ヒカルがアキラの隣に腰を落ち着けるのと、授業終了のチャイムが鳴るのとは殆ど同時であった。
 魂が抜けたようにふらふらと職員室に戻った鎌石は、後で黒板の数式を書き写さなかったことを後悔した。

 昼休みはヒカルが外で弁当を食べたいというので、アキラは中庭のベンチに座って昼食をとることにする。社がヒカル用に詰めた弁当は、大きな重箱に五段重ね
で入った豪華なものだった。
 それに比べると、アキラの弁当は上品過ぎるほど小さい。だが、彼にはこのくらいの分量で食べるには丁度いいくらいだ。
 ヒカルは嬉々として弁当を広げ、美味しそうに平らげていく。
「進藤、初めての学校の感想はどう?」
 アキラはヒカルの見事な食べっぷりに眼を細めながら、自分の弁当に箸をつけてゆっくりと口に運びながら尋ねた。
「想像したよりも面白くない」
 唇を不満そうに尖らせ、正直でいて率直な感想に、軽く肩を竦める。
 ヒカルがこう答えるであろうとは、最初から予測できたことだ。
「確かにキミにはつまらないかもしれないね」
「うん!つまんねぇ」
 力強く頷いたヒカルは、自分のおかずとアキラのおかずを勝手に交換して食べながら、青い空を見上げる。アキラがあんなに行きたがるからどんなに面白い場所
だろうと思ったら、こんなにも面白みのない所だったとは、正直がっかりだ。
 偉そうに教師が教える授業とやらも、まったくもってくだらない。
 人間の持つ能力の低さを、アキラの通う学校で認識してしまったのも皮肉としか言いようがないだろう。この程度で万物の霊長類などとのたまうのだから、厚かまし
いにも程がある。今更ながら人類はさっさと滅ぼすべきであったと、ヒカルは思った。
 アキラがイヤだというからしぶしぶ残し、どうせそんなに待たずに絶滅するのは分かりきっているから放っておけばいいと考えていても、我慢の限界がきたら消して
やろうかとすら思う。一族をもっと増やせば、人類が滅びる日も近づくだろうが、ヒカルは一族も好きではない。むしろ大嫌いだ。
 さっさと両方で共倒れになってくれれば一層すっきりするのに。
 アキラが庇護したがる人類が滅亡すれば、この世界を壊して新しい世界を創ってもいい。アキラが望む理想の世界を創るなんて、ヒカルにはすぐにできることだ。
 我ながら名案だと思ったが、彼がそんな事を望まないのも分かっている。アキラは自分の同族が滅びるのを、指を銜えて見ていられないだろう。
 遠い過去にヒカルに人類の救済を求めたように。
 仕方ないからあの時、ヒカルは洪水で全てを沈めるのはやめた。
 後の世にノアの大洪水と呼ばれた天変地異は、今では何とかという宗教で奇跡の題材にされていて、正直面白くない。かといって、その宗教の語るところの黙示録
通りに世界を滅ぼしてやるのも癪だ。
 アキラが諦めるまで静観するか、眼を盗んで滅ぼすのが一番いい方法かもしれない。どのみち彼はヒカルから離れられないのだから。
 暖かな日差しが降り注ぐベンチに座って、手作り弁当を食べながら考えるにしては何とも物騒な内容の思考を巡らせるヒカルとは対照的に、アキラは心配そうに愛
しい少年の顔を覗き込んだ。
「じゃあ、明日から学校に登校するのはやめる?」
 やはりヒカルには、こうして学校に来るのは性に合わないらしい。
 さっきの数学の授業でもそうだが、ヒカルにとっては学校の勉強など『つまらない』以外何ものでもないのだ。
 彼は全ての答えを知っている。知っているから教わる必要もない。
 世界の理を何もかも知り尽くしているのだから。
 そんなヒカルが学校に来るのは、退屈でしかないに違いない。
 それが分かるからこそ、ヒカルに無理強いをさせるわけにもいかないと思う。彼にはいつも自由に生活を楽しんでいて貰いたい。
 自由奔放で明るく無邪気なヒカルが、アキラは好きだ。
 だからこそ、無理に我慢せずに自由に羽根を伸ばしていて欲しい。
 アキラは自分がヒカルに選ばれ、愛されていることに対して、さほど優越感を持ったことはない。
 全くないとはいいきれないが、それが自分にとっては当然であるという認識が先にあった。
 アキラはヒカルに愛される為に、そして愛する為に存在するから。
 気が遠くなるほど遥かな過去から何百億年とかけて、創られては潰されてきた世界が自らの身を護るために捧げた創造主への生贄。
 最初にヒカルと出会った頃の自分の記憶を断片的に取り戻した時、アキラは自分の立場というものを理解した。
 ヒカルによって創られ、同時に消される運命にある多くの世界は、常に滅びに怯え、救済を求めている。そんな世界が自分達の命運を護るために、遥かな時をかけて
生み出した存在がアキラだ。
 世界を滅ぼそうとする創造主への抑制のために。
 生贄への特権は創造主の孤独を癒し、愛を一身に受けられる幸せを得られることだ。けれど決して離れることはできない、許されない。
 どのみちヒカルから離れる気など、アキラには毛頭ないが。
 学校に居る期間は決して長いわけではないのだから、離れている時間も短い。ヒカルが嫌ならば学校に来る必要はないだろう。
 だがアキラの考えとは裏腹に、ヒカルはきっぱりと言い切った。
「学校には来るぜ、おまえと一緒に居られるもん」
「無理しなくてもいいのに…」
 どうやらヒカルは少し依怙地になっているらしい。子供っぽく意地になっているところがまた可愛くて、アキラは苦笑を零した。
 敬愛されながら恐れを抱かれる世界の王とはとても思えない。
「とりあえず、授業中におまえに話しかけたりしなきゃいいんだろ?黙って寝てるか、おまえの顔でも眺めとくよ」
 こともなげに言い放つヒカルだが、本当にそれが守れるのかどうか、とてつもなく不安を覚えるところだ。
 残り二時間の授業を、ヒカルが大人しく受けていられるかすら既に問題である。
 ヒカルの気紛れな性格からして、明日も学校に来るかどうかは分からない。どちらにしろ、誘惑者がアキラに誘惑をしかけてくることは今後も変わらないだろう。
 学校に来たら学校で、ヒカルはきっとアキラの眼を自分に向けようとする。彼には場所なんて最初から関係ないのだから。
 結局どこに行っても、誘惑から逃れられる術はないに等しい。



                                                           百華仙帝 U闇の胎動(中編)百華仙帝 U闇の胎動(中編)百華仙帝 U闇の胎動(中編)百華仙帝 U闇の胎動(中編)百華仙帝 U闇の胎動(中編)   百華仙帝 Vハロウィンパーティー(前編)百華仙帝 Vハロウィンパーティー(前編)百華仙帝 Vハロウィンパーティー(前編)百華仙帝 Vハロウィンパーティー(前編)百華仙帝 Vハロウィンパーティー(前編)