Ⅴ  臥竜覚醒


 事後の甘い気だるさに、アキラはうっとりと吐息を吐いた。
 ヒカルと肌を重ねる行為は、いつもアキラに素晴らしい充足感を与えてくれる。何度しても、飽きることがない。
 果てがないような快楽は、尽きることなく溢れてアキラを虜にする。もっと欲しいと、際限なく思ってしまうほどに。
 どことなくそれは、アキラが持つヒカルへの愛情と似ている。
 ヒカルからゆっくりと身を離して、汗で張り付いた金色の前髪を優しく愛しさを込めてかき上げる。
 気持ち良さそうに眼を細め、頬を摺り寄せる仕草は猫を思わせた。
 ヒカルは未だに熱く濡れた目でアキラを見上げると、掠れた声で小さく喉が渇いたと訴える。恋人の頼みに彼はすぐに頷いた。
「ミネラルウォーターでいい?それなら買ってこれるけど」
 炭酸のジュースなどは置いてないが、海王高校の自販機にはお茶とミネラルウォーターは常備してある。
 頷いたヒカルの額に口付けを落として、アキラは手早く制服を着込むと、布団をかけてやって保健室を出た。
 夕方になってきてだんだんと肌寒さが増してきている。誰もいない廊下を進んでいくと、自販機が鈍い光を放って佇んでいた。
 学校関係者用の玄関の裏に据えられている自販機は値段もコンビニなどより割安で、普段から教師や生徒がよく利用している。
 アキラは小銭を入れてミネラルウォーターを買い求めると、急いで踵を返した。この場所から保健室は離れており、早足で歩いても五分以上はかかってしまう。
 廊下は走らないという鉄則を守って、姿勢よく歩くアキラの姿は、夕日に照らされて長い影を廊下に刻まれていた。
 保健室で淫らな行為に耽っている間に、生徒の大半は帰宅したらしく、教室の前を通っても人の気配はせずに静まり返っている。
 颯爽と廊下を歩く少年に向かって、音もなく影が迫ったのはその時だった。アキラの影とそれが重なる直前、彼は咄嗟に飛びのいていた。
 何故自分が身の危険を察知できたのか分からない。無意識のうちに身体が動いて、狙ってきている何かを避けたのだ。
 アキラに向かって放たれた物体は、数メートル先で重力に逆らわずに床に叩きつけられ粉々に砕ける。
 破片からしてコップか何かが投げつけられたらしいが、直撃した部分は床材が捲れてひびの入ったコンクリートがむき出しになっていた。
 陶器のコップでこれだけの威力となると、相当な速さで投げられたと推測すべきである。直撃していれば人間の身体を貫通させ、風穴を開けて死に至らしめた
に違いない。今まで視線くらいしか感じられなかったというのに、薄気味悪い気配までもが迫ってくるのが察せられた。そして視線が一つではなく、複数のもので
あり、気配もまた徐々に近付いてきていることにも。
 それらには、アキラに対する憎悪と殺意が篭もっている。何故今まで気づかなかったのか自分でも不思議だった。
 ヒカルが傍に居たから、気配が打ち消されたわけではない。
 ただこれまでの生活で、アキラにはその感覚を使う必要性が全くなかっただけのことである。
 平穏な日常生活の中で必要のないモノであったからこそ、無意識に封印し身体の奥に沈めて鍵を閉めてしまっていた。
 アキラ本人がそれらの気配と明確に対峙したことがなかったから、本来自分の中にあるモノが目覚めずにいただけなのだ。
 離れているだけでは何も見えないのと同じで、近くにくれば分かることがある。目覚まし時計が傍になければ聞こえないのと同様だ。
 時計の音が聞こえるから眼を覚ます。アキラの中にあるモノは、命を狙ってくるそれに触発されて徐々に覚醒し始めていた。
 気配はするがどこに潜んでいるのかは分からない。アキラの今の力は、ゆっくりと目覚めながらも万全といえる状態ではない。
 素早く周囲を眼で窺った瞬間、殺気が針のように迫ってきた。
 今度は意識して避けることができた。どこから飛んでくるのか、それが何であるのか、一瞬にして判断して対応する。
 素早く後方へ下がったアキラの足元に銃で撃ったような穴が開き、そのまま動きを追ってくる。
 バックステップをして飛びのきながら、廊下に飾られていた花瓶を手に取った。この際、学校の所有物であっても関係ない。
 命を狙われているアキラにしてみれば、飾りなどどうでもよかった。
 攻撃してくる石礫のようなものの軌道から目測して、襲撃者が居ると思われる方向に向かって投げつける。
 花瓶は途中で粉々に粉砕され、床に乾いた音を立てて転がった。
「へぇ…人間のクセにこっちに向かって攻撃かよ」
「避ける動きだけなら、確かに並の人間じゃないな」
 廊下の影から姿を現した二人の少年は、アキラを値踏みするように見詰めながら、内容とは裏腹に嘲笑を浮かべる。外見からではアキラよりも二つか三つ年上
に見えるが、実年齢は分からない。一族は生まれたてでなければ、外見どおりの年齢ではないのだ。長じて百年以上生きている者が大多数を占めている。
 つまりは、見た目だけで判断は全くできない。同い年の子供のように見えても、何百年も生きている者も実に多くいるからだ。
「伊藤先輩、小島先輩、感心してないで早くやっちゃいましょうよ」
「うるさい、黙ってろ奥村」
 彼らの背後に隠れた小柄な少年がこそこそと制服の裾を掴んで促すが、伊藤と呼ばれた少年にぴしゃりと言い放たれて首を竦めた。
 海王高校の白い制服に身を包んだ三人の姿に、アキラはどことなく見覚えがあり、僅かに瞳を細める。興味のない相手のことはすぐに忘れるアキラだが、思い
出そうと思えば思い出せる記憶力の持主だ。ほんの数秒記憶を検索して出された答えを口にする。
「確か…囲碁部の……」
 今日の学園祭で、囲碁部の顧問に頼まれ、一度だけクラブの様子を見に行ったのだ。その時に彼らを見かけたような気がする。
「へぇ?今日一回しか見学に来なかったのに、覚えてたのか」
 言葉の上では感心していても、声には明らかな嘲弄を帯びている。
 不愉快そうに眉を顰めるアキラに対して、三人は逃げ場がないように囲んでいきながら、ゆっくりと距離を詰めて近付き始めた。アキラが見た限り、彼らは大して
目立つ生徒ではない。だがそれは単なる隠れ蓑で、人間社会に入り込むための処世術であったのだろう。
 下手に目立たずに動く一族は、大抵は三百年以上を生きている。千年近く生きるか超えてくると、中堅クラスとなって多くの配下を持つようになり、更に上位クラス
になると人間と区別がつかなくなるほど、気配を完璧に隠して社会に溶け込む。
 今アキラが相対している伊藤、小島、奥村の三人は見たところ、恐らく一族の中では三百年以上は生きている。だが実力は低い部類で、誰かの配下であることは
間違いない。独断で行動しているとは思えなかった。一人で生きている一族は、集団で行動しない。常に一人で動いて自身で判断する。
 しかし、中堅クラスの配下となっている者達は、何人かで徒党を組んで動くことによって、獲物を追い詰めていくのだ。
 恐らく彼らは、誰かに命令されて動いていると考えるべきだろう。これだけ派手に物を壊していれば、痕跡も残ってしまう。
 より強く影響力を持つ者が、全てを帳消しにして後始末をしてくれるという確証があるから、大胆かつ派手にしても構わない。
 そうでなければ、学校などというどこに人目があるのかわからない場所で手出しをしてくるはずがない。
 彼らは人間社会に溶け込んで、密やかに動くことを旨としている。今回は彼ら本来の適正な手段を無視している形だった。
 だから後始末をするバックのある一族であると判断できる――となると、襲ってくる敵の背後関係も洗わねばならない。
 自分が何故彼らを見ただけで、大体の力量や背景を測れるのか分からなかったが、それでも憶測が正しいであろうと思えた。
 一族の中では余り強くなかったとしても、普通の人間にとっては十分脅威になる。彼らの能力は人間の範疇を超越しているのだから
「言っとくが、さっきのはほんの様子見だぜ。あの程度で死なれちゃ、餌としての価値もねぇからな」
 伊藤は唇の端を吊り上げて笑い、ポケットの中からビー球を幾つか取り出す。床についた弾痕のようなものは、この玩具が正体らしい。
 考えようによっては、ビー球は効率のいい武器であった。
 小さく持ち運びに便利で、不審に思われることもない。安価で手に入り、教師に没収されたとしても購入するのに不自由もしないのだ。
 学校という空間において、人間離れした運動能力を持つ一族にとっては、効率のいい武器の一つといえるだろう。
 ビー球を伊藤が指先で弾くと、咄嗟に避けたアキラの頬を掠めて壁に減り込み、コンクリート片が廊下に散らばった。
 灼熱の熱さから痛みへと変わった頬へ手をやると、血が一筋指先から流れ落ちる。アキラが制服の袖口で頬を拭って身構えると同時に、伊藤の指先から幾つもの
ビー球が放たれた。それらを全て避けながら、アキラは何とか退路を探した。
 こんな狭い場所で、三人に囲まれて戦うのは絶対的に不利だ。ましてや、アキラは武器の一つも持っていない。
 持っているのはミネラルウォーターの入ったペットボトルだけだ。
「押さえろ!小島」
 勝利を確信した伊藤の声に振り返ろうとした瞬間、腕をとられて捩じ上げられる。容赦のない攻撃を避け続けていたアキラは、背後に回っていた小島の存在に気づく
ことができなかった。掴まえたアキラを、小島は手加減なしにそのまま廊下に叩きつける。
「………ぅっ!」
 強かに背中を打ち付けられ、一瞬呼吸が止まる。身体の上に馬乗りになった小島は、アキラの首を片手で廊下に縫いとめた。
 腕を離そうとしてもがくが、体勢が悪いのか力が入らない。
「驚いたな…こいつまだ生きてるぜ。本当に人間か?」
 小島に押さえつけられているアキラを見て、不審そうに眉を顰めながら伊藤は一人ごちる。普通の人間なら、小島に手加減なしに投げ飛ばされれば、内臓破裂を起
こして死ぬのが当り前だ。それなのにアキラは、痛みに顔を歪めながらも、まだ自由になる手足を動かして小島に必死に抵抗しているのだ。
 これだけの頑健さは人間が持てる範囲を超えている。さっきの運動能力にしても、アキラの反応速度は一族以上だった。
 命令では百華仙帝に気に入られている少年を殺せということだけで、本人についての情報は皆無であっただけに、不審さが募る。
 だがこの少年の『気』は明らかに人間のものである。一族のものは、例え上位であっても人間の『気』とは異なるのだ。
 百華仙帝ともなると、更に『気』の性質は変わり神々しさが増す。
 一つ不審な点を上げるとするなら、彼の『気』は人間でも持つことができないほど清浄に輝き、光に満ちていることである。
 独特で美しいこの『気』に最も近い『気』を持つ者が居るとするならば、それは百華仙帝しかいない。
 アキラが百華仙帝でないのは、三人とも分かっている。雲上の人である本人に会ったことがないので何とも言いようがないが、少なくとも違うという確信はあった。それに
百華仙帝ならば、自分達の無礼を許さず、即座に消滅させられていたに違いない。
 では、眼の前にいる塔矢アキラという少年の存在を定義付けるにはどうすればいいのか、悩むところだ。
(こいつ……一体何者だ?)
 伊藤は不信感も露わにアキラを見詰めながら、ゆっくりと近付く。
「小島先輩、ちょっとくらいつまみ食いさせて下さいよ」
「バカかお前、食あたり起こすぞ」
 奥村はアキラの『気』に違和感を持つだけの能力がないから、軽々しくそんな口を叩けるが、実際に押さえ込んで間近で触れている小島にしてみると、冷汗ものだった。
 もしかしたらこれはとんでもない存在かもしれない。抵抗してくる力も、どういうわけかどんどん増してくる。普通ならこれだけ暴れていれば体力もなくなって、抵抗も衰
えていく。床に身体を叩きつけた時に、アキラは気を失いかけいていたから、意識においても半濁状態のはずだった。
 今は自己防衛本能だけで動いているとしか思えない。それなのに、眼の前の細身の少年は明らかに小島の腕力に対抗する力を着実に持ち始めている。
 まるでこれまで封印されていた力が、目覚めていくように。とてもではないが、これ以上一人で抑えていられる自信はなかった。
「おい!奥村、伊藤!おまえらも手伝え!」
 切羽詰った声で呼びかけると、慌てて二人が近寄ってくる。濁った意識の中でアキラは近付く足音を聞きつけ、無意識に不利な状況を打開しようと闇雲に手足をばた
つかせた。小島に弾かれた手が床につくと、冷たい水の感触が掌に伝わり、うっすらと瞳を開く。
 ヒカルのために持っていくはずのミネラルウォーターのペットボトルは、小島に床に叩きつけられた際に割れてしまったらしい。
 指先に触れた水のひんやりとした流れに、背中に当たる土から作られたコンクリートに、窓から入ってくる風に、どこからか漂ってくる煙の香りに、アキラの中の何かが
反応する。知らず知らずのうちに、アキラは水に手をつけた。そして何事かを口の中で囁く。自分でも何を言ったのか分からないまま。
 足音が近付く。アキラの命を奪おうとする『敵』がくる。死ぬわけにはいかない。自分に何かがあれば『彼』が泣くのだ。
 悲しい涙を流させたくない。アキラは『彼』の笑顔を護りたい。
 そして『彼』の希望を叶えたい。愛しい『彼』の望みであるなら、『彼』の意に沿わぬ輩を制裁し、排除することも厭わない。
 傍に戻らなければ、恋しい『彼』の元へ。アキラを待っている。アキラだけの、大切で綺麗な可愛い恋人が。自分を永遠に虜にする美しい世界の王が。
「奥村は足を押さえろ!伊藤は腕だ!」
 何故だか分からないが、小島の中で激しく警戒信号が鳴り響いていた。これ以上この少年に関わってはならないと、本能が知らせている。
「伊藤!気絶させろっ!早く!」
 本来ならば圧倒的に有利な立場であるはずなのに、伊藤に命令する小島の声は、殆ど半狂乱の悲鳴のようだった。
 奥村はアキラの足を押さえようと掴んだが、人間とは思えない力で弾き飛ばされ、壁に凄まじい勢いで叩きつけられた。
 激しく咳き込みながら何とか立ち上がろうとするが、身体が鉛のように重く感じられ、思うようにいかない。肉体ではなく、自分の『気』の力が極端に弱まっている。こんな事
は今まで一度としてなかった。まるで、アキラに自分の力の一部を消し去られたように。
 ひどく虚ろで気だるく、生命活動自体も弱まっている気もする。
 一族となってから初めて、奥村は恐怖を感じた。人間の頃には持っていたはずの、得体の知れない存在に対する根源的な恐れを。
 今更のようにそんな感情がわき上がり、逃げ出したくて堪らない。伊藤はそんな奥村を横目で見る余裕もなく、アキラの腕を掴む。
 小島の下で暴れている身体は、押さえつけようとしている小島の力を凌駕しようとしていた。信じられないことに、ただの人間が一族でも中堅近くに位置する小島に対抗
しているのだ。背筋に冷たいものを感じながら、伊藤はアキラの右手首を掴んだ。
 細い手首の割にとんでもない力で引っ張られる。抵抗を封じようと左腕に手を伸ばした瞬間、水に濡れた掌が顔に押し付けられた。
「あ…ぎ、ああああああっ!!」
 灼熱の炎に顔を焼かれたような痛みに、伊藤は絶叫した。ただのペットボトルの水が、神聖な聖水のような水に変化している。
 こんな芸当ができるのは、一族に対抗できる力を持つローゼンクロイツや、修験者のような特殊な訓練を専門に受けた者達だけだ。
 ただの学生であるはずの、アキラにこんな事ができるはずがない。彼が普通の少年であることを、同じ学園に通う彼らは知っている。
 動揺と混乱を抱えながら、伊藤は苦痛の余り廊下に倒れこんだ。奥村が狼狽しながら立ち上がろうとする眼の前で、伊藤が顔面を押さえてその場をのたうち回る。
 さらに続け様、小島がアキラの上から巴投げをされたように弾き飛ばされ、床に投げ落とされた。
 信じられない光景だった。相手はただの人間なのに、奥村以上の力を持っている伊藤と小島を、難なく引き剥がしたのである。
 人間ではない。人間であるはずがない。この塔矢アキラという少年は人間の皮を被った化物だ。
「ひぃっ!何だよ!なんなんだよ…こいつ……!」
 腰が抜けそうになりながら、奥村は床を這うようにして後退さった。
 伊藤と小島も半ば戦意を喪失しかけていたが、このままで終わるつもりはない。たかが人間如きに、負けを喫するなど許し難かった。伊藤は元の顔の名残すらないような
焼け爛れた顔面を醜く歪ませ、手に持っていた鉄製の弾をアキラに向かって弾いた。所詮はガラスでできたビー球とこの鉄の弾とでは明らかに威力は違う。ビー球は散弾
銃と似た効果を持つが、鉄の弾は貫通能力を増したものだ。打ち抜かれれば、大きな風穴が身体に空く。
 いかに人間離れした存在でもこの攻撃を受けて無傷ではいられない。
 撃った瞬間は余裕の笑みを浮かべた伊藤であったが、次には信じがたい光景を見て驚愕に眼を剥いた。
 ゆらりと立ち上がったアキラが手を前に翳した刹那、鉄の弾は全て見えない壁に阻まれたように粉々に砕け散り、床に乾いた音を立てて転がった。小島もまた伊藤と同時
に背後から針で攻撃したが、その針は空中で燃え尽き、灰となって風に流されてしまう。
 先刻の格闘で白い制服は薄汚れているが、アキラは無傷だった。更に信じられないことに、頬に受けた傷も跡形も無く消えていく。人間とは思えない再生能力だった。
(この力…まさか…まさか……!?)
 噂には聞いたことがあったが、目の当たりにしても信じられない。
 四天王の基礎となった『地火水風』の四台元素の力を生まれながらに持ち、その強大な力を自由に操る、百華仙帝に近しい光の『気』を纏っている者がこの世界にただ
一人居る。その『気』故か、彼は百華仙帝の能力の一部と全く同じ力を魂に宿しているという。世界の王である者と一部であれ同じ力を持つ存在。
 百華仙帝の伴侶にして、最強の退魔師であり一族の天敵でもある男。
 この男の手にかかれば最後、魂すらも消滅し、転生も叶わないほど完膚なきまでに存在を無へと帰される。
 四天王の持つ全ての力を有しているというだけでも十分に脅威であるというのに、彼には百華仙帝の力すらも備わっている。
一族が最も恐れ、憎悪する最強最悪の存在だ。百華仙帝の力の一部と同種のものを宿すなど、人間とすら呼べない化物である。
 それなのに、それなのに、何と美しいことか。
漆 黒の絹糸を思わせる髪が風も無いのに靡き、同色の瞳が濡れたように輝いている。白磁の肌は陶器のように滑らかで、赤い唇は珊瑚で作られた宝石のようだった。
 一つ一つは女性のたおやかさを窺わせるのに、凛々しく整っている。恐ろしいのに、その輝くような美しさに眼が奪われる。
 だがしかし、今ここでこの男を抹殺しなければ、一族に未来はない。これでまだ万全でないとするならば、それこそ冗談ではない。
 彼の手にかかった同胞は数知れず、生かしておいてはならない存在だった。完全に覚醒していない状態だからこそ、始末しなければ。
 次の攻撃に移るように伊藤は二人に目配せをする。奥村は既に逃げ腰であるが、どのみちこのままで済むはずがない。伊藤と小島がアキラに掴みかかり、奥村が跳躍
しながら攻撃をしかけた。アキラはどことなく茫洋と視線を彷徨わせたまま、膝をついて床に手を置く。すると、応えるように大きく床が波打った。
 次の瞬間、三人に向かって床から鍾乳石のようなものが凄まじい速さで飛び出し、逃げる暇も与えず全員の身体を刺し貫く。
 一族は身体の再生能力を凌駕する強力な攻撃を受けると、如何に強い者であっても命を保つことはできない。
 心臓をナイフで貫かれても一部であれば平然としていられるが、身体をバラバラに切り刻まれたり、灰になるまで焼かれてしまうと、再生することは不可能だ。
 再生ができなくなった一族は、そのまま砂となって生を終える。しかし少なくとも、魂までは根絶されることはない。いかに四天王であっても、魂を消滅させることはでき
ないのだ。魂までも完全に消去し、無へと帰すことができるのは百華仙帝のみ。
 死を迎えた彼らは輪廻の輪の中へと戻り、次はどのように生まれてくるかは分からない。彼らが蔑む人間へと還る者も多くいるのだろう。
 たった一撃で多大なるダメージを与えられた三人は、自分達に何が起こったのか分からないまま絶命し、砂となって消えていった。
 コンクリートで作られた鍾乳石の間でぼんやりと佇むアキラの背後で、拍手の音がこだましたのは彼らが消えた直後であった。
「お見事!さすがは百華仙帝の伴侶にして最強の退魔士だ」
 同胞が眼の前で殺されたというのに眉一つ動かさず、それどころか楽しげに笑って、村上は壁に背を預けて手を叩いていた。
 まだ完全に意識が戻らず、一族の『気』に反応して自己防衛本能のままに攻撃をしかけようとしたアキラの背後に、村上は易々と回る。
 完全に覚醒していない状態ならば、村上ならば遅れはとらない。何よりも、攻撃本能のみで動いている今の状況では、アキラはまさに襲って下さいといわんばかりに、穴
だらけである。この程度ならば、村上がアキラを捕まえることは容易だ。様子見に徹しておいて正解であったらしい。
「おやおや、隙だらけだな。塔矢アキラ」
 言葉と共にアキラの首筋に手刀を叩き込んで一撃で昏倒させると、床に崩れ落ちようとする彼の腕を掴んで、肩に軽々と担ぎ上げる。
 さっきまでの攻防を思うと人間には見えなかったが、こうして担ぐと、同年代の少年よりも体重は軽いかもしれない。
 アキラによって消滅させられた連中のお陰で、覚醒が促されてしまったようだが、この程度の状態ならば殺すことは難しくない。
 誰の命令かは知らないが、勝手なことをしてくれたものだ。とはいえ、ただ殺すだけでは面白くない。あのハロウィンパーティーの夜に受けた屈辱は赦しがたく、赦すつもり
もない。時間が許す限り、思いつく限りの方法で痛めつけてからでないと、殺すにしても楽しみが半減してしまう。
 村上は美貌の戦利品を見上げて薄く笑うと、その場を立ち去ろうと踵を返した。だが彼の背中に、一人の男の声が突き刺さる。
「アキラ君!」
 ゆっくりと村上は振り返って、不躾な闖入者へ視線を向けた。
 保険医の白衣を着た緒方が、肩で息をしながら立っていた。村上は緒方の姿を上から下まで見下ろし、合点がいって一人頷く。
 報告では、海王高校に薔薇十字団から塔矢アキラに護衛がきていると受けていた。恐らくこの男がそうなのだろう。
「こんなところまで来ているのか、ローゼンクロイツ。暇なことだな」
「……アキラ君を放せ」
 村上の揶揄に緒方は眉一つ動かさずに、要求のみを述べた。その様子に村上は僅かに瞳を眇める。力の低い者だと、千年以上生きている村上と相対するだけで萎縮して
しまうものだ。護衛といっても、どうやら雑魚ではないらしい。それなりの実力者とみるべきだ。
「悪いがあんたの相手をしている暇はない」
 言葉と同時に指を軽く鳴らすと、幾つもの影が緒方と村上の間に立ち塞がるように姿を現していた。恐らく三十人は下らないだろう。
 薔薇十字団の足止めとすれば、十分な数である。自分はこんな場所で余計な時間をとられるわけにはいかない。
 いつ四天王が塔矢アキラの奪還にくるか分からない情勢なのだ。未だに姿を現さないこと自体もどこかおかしいが、そんな事を気にしている時間すらも惜しい。安全な結界の
中に一刻も早く戻って、この生意気な子供を粛清して殺さねばならないのだから。
村上はアキラを担いだまま窓に近付くと、大きく開け放つ。
「待て!」
 窓に足をかけ、緒方の制止も聞かずに一気に跳躍した。一階の窓であったにも関わらず、一度の跳躍で隣の校舎の屋上に辿り着き、更に近くのビルへと飛び移る。
 人一人抱えているとは思えないほど、忍者のように身軽にビルの屋上を飛び越えていき、瞬く間に村上は姿を消した。

 薄暗い室内で、四人の男女は創造主の前で平伏し控えていた。
 命令がない限り、彼らは動くことを許されない。彼らの父とも母とも言える存在の言葉は絶対であり、逆らうことはできない。
 控えている彼らにとっては、この時間は余りにも苦痛であった。独断で動こうとした点についての叱責はなかったが、許可はない。
 彼らはこの場で、創造主により完全に縫いとめられている。もどかしくてたまらないが、圧倒的な力の前には彼らは無力な子供も同然だった。
 一族が恐れている力を持つ彼らですらも。
 創造主にとっては、四人を一度に抑えることすら片手間以下である。すぐ傍で、もう一人の父とも母ともいえる者が危険に晒されているのが感じとれる。それなのに、創造主は
護衛の許可を下さない。つい先ほどまで肌を重ねていた相手が窮地にたたされているというのに、彼は愛を交わした寝台の上で座ったまま動こうともしない。
 寛いだ様子で胡坐をかいて、のんびりと欠伸をしている。恋人の心配など、全くしていないように見えた。しかし、ふと創造主は中空を見上げて瞳を伏せると、半眼になって無言
のまま微動だにせず、顎に指を添える。何らかの動きがあったのだろうか。
「……そろそろか…丁度いい頃合だな」
 四人にとっては永遠とも思える時間が過ぎた頃、創造主は立ち上がり、小さく呟いた。唇に愛らしく残酷な微笑を刻んで。
 この時、彼らは創造主もまた、自分達と同じく耐えていたことを知った。普段のように飄々としながら、声は絶対零度の冷たさである。
 創造主は平然とした仮面の下で、荒れ狂う激情を押さえていたに違いない。愛しい者が傷つけられるのを彼はひたすら黙認していたのには、それなりの理由があってのことな
のだ。袖を通さずに肩に白い制服を羽織ると、四天王がついてくるのが当然のような歩調で、創造主は振り返らずに歩き出す。
「行くぞ」
 創造主の声と同時に、彼らは一瞬にしてその場から姿を消した。

 手近な窓に取りついた緒方だったが、既に村上は影も形も見えない。一族の気配を感じて、走ってきた時には既に遅い。
 こんな事になるのだったら、のんびり喫煙コーナーで煙草をふかして女性職員と喋っているのではなかった。
 ここ最近余りにも何事もなかったものだから、すっかり平和ボケしてしまっていた自分が情けない。舌打ちを零しながら半ば腹いせも込めて、背後から襲ってきた一族に対して
呪符を投げつける。顔に貼り付けられただけで動きを封じられた者も数人いたが、大半には全く効果がなかった。
 恐らくは数百年以上生きている一族が多くいるのだろう。彼らの中には、村上の行き先を知っている者もいるかもしれない。
 そいつを捕まえて吐かせられれば問題ないが、いかんせん一人で相手をするにしては数が多過ぎる。芦原に別の任務に行かせるのではなかったと、今更のように後悔しても
もう遅い。そもそも、アキラの護衛の四天王は何をしているのだ。アキラ担当ならば、一族に襲われないように最初からきっちり護衛すればこんな事にはならなかったのに。
 八つ当たり気味に考えて、すぐに思い直した。いや、諸悪の根源は『クラウン』だ。一番偉そうなんだから、恋人をちゃんと護りやがれ。
 まるで関係ないことを現実逃避気味に考えていても、一族に襲われている事実は変わらない。いくら緒方が日本支部の幹部クラスでも、三十人以上の一族を相手に戦うには分
が悪すぎる。じりじりと壁際に追い詰められていってしまう。緒方は棍棒のようなもので殴りかかってきた一族をかわし、その男に足払いをかけて何とか距離を稼いで離れた。
 一気に全員を相手にするのは無理である。一人ずつ各個撃破せねば。
「人間風情が!」
 声と同時に凄まじい衝撃が身体を撃ち、弾き飛ばされる。一族の中には何らかの術を使える者もたまに居るが、まさかこの中に居たとは、油断が招いた結果だった。自分の迂闊
さに臍を噛んでも、攻撃を受けてしまってからではもう遅い。咄嗟に防御こそしたものの、身体は壁に叩きつけられた。
 しかし背中に衝撃がくると半ば覚悟していたのに、きたのはクッションにでも落ちたのかと思えるような柔らかく優しい感触であった。
 思わず背中を振り返ると、壁が緒方を包むようにやんわりとへこみ、そのままゆっくりと戻って地上へふわりと下ろされた。
 異常な現象に眼を瞬いて見回すと、いつのまに傍に来ていたのか、四人の男女が緒方の周囲に佇んでいる。
『クラウン』の四天王であった。
 恐らく壁の性質を変えたのは、土の力を操る奈瀬だろう。では、廊下の床から突き出している、あの鍾乳石のような物体は誰がしたものなのか。心当たりの該当者はたった一人
だけだ。鍾乳石の先端についている制服が、何が起こったのか物語っているものの、それだけに緒方としては信じ難い思いだった。
 とはいえ、アキラが創始者の生まれ変わりならできる可能性は高い。けれど緒方が知る限り、アキラは普通の少年でこんな力とは無縁に見えたのだ。それとも彼はこの力に
目覚めてしまったのだろうか。四人の少年と少女が緒方を護るように位置を変えたことで、そのすぐ後ろに立つ少年の姿が眼に入った。
「一族は全員消して、緒方さんを護ってあげて。後始末もしておけよ。オレはこれから塔矢を迎えに行くからな」
 しかし彼は緒方の存在をまるで意に介さず、四天王に簡単な指示を与えて踵を返してしまう。緒方は慌てて少年の後を追った。
「進藤!アキラ君はどこだ!?」
 どこに居るか知っているなら一緒に連れて行けと、態度で示している緒方を一瞥すると、ヒカルは小さく笑って首を左右に振った。
「一緒に来ない方がいいよ、緒方さんは」
「どういう意味だ?」
「塔矢の一面にショック受けるから。なるべくなら見ない方がいいし、塔矢も見られたくないと思うよ。だから来ないで」
 そんな曖昧な言い方で分かるか!と怒鳴ってやりたいところだったが、ヒカルの醸し出す有無を言わせぬ静かな拒絶の雰囲気に、喉の奥に言葉が引っかかったまま出てこない。
 完全に気圧されていた。
 こんな子供の言うことに対して、以前の緒方ならば素直に頷いたりはしない。だが、この少年はただの子供ではない。一族が崇拝する『百華仙帝』であり、四天王が敬愛する『世界
の王』なのだから。誰にも逆らえはしない、創造主に対してなど。
 緒方が無言のまま頷いたのを確認することなく、ヒカルはそのまま数歩歩いたかと思うと、次の瞬間には姿を消していた。
 まるで最初から、そこに存在していなかったかのように。



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