次々に客が降りていく中、アキラは席から立ち上がる気配もなく、じっとしている。こういったタイプのアトラクションに免疫がなかっただけに、アキラは
相当驚いたらしい。他の三人はアキラの様子がおかしいことにも気付かずに、暢気に鮫の迫力を語り合っている。
それもその筈、アキラは驚きこそすれ、顔は能面のように固まって無表情だったからだ。
伊角と和谷、社の三人も先に降り、それでも動かないアキラの手を握ると、ヒカルは苦笑を浮かべて引っ張ってやる。アキラは真っ直ぐで素直な性格
をしているだけに、免疫のないアトラクションについていけなかったのかもしれない。
実際、ヒカルのしかけるちょっとした悪戯にも、アキラはよく引っかかるのだ。こんなところが、アキラのお坊ちゃんらしいところである。
「ほら、降りるぞ」
「あ……うん」
ヒカルに腕を引っ張られ、アキラはのろのろとボートを後にする。
自分でも現金だと思うのだが、ヒカルの手の温かさを感じると不思議と身体が動き、波立った心が徐々に安定していった。
「大丈夫か?塔矢」
アトラクションを出てしばらく歩き、手を繋いだままヒカルが少し心配そうに上目遣いに見上げてくる。
「……ああ、もう平気だよ」
笑顔を向けて頷いてみせたアキラだが、小さくヒカルはふき出した。
「おまえ、顔引きつってるぜ?もしかしてビックリ系統は苦手か?」
「……どうだろう…いや、苦手かもしれないな。初めてのものだからよく分からないけど……」
恋人の前で何とも格好の悪い醜態を晒した自分に臍を噛みたいアキラだったが、今更平気だと言ったところで恥の上塗りになるだけだ。ならばここは
素直に認めたほうが、最善ではないがマシである。
「免疫がないなら驚くのも無理ねぇか。アレの迫力結構凄かったし。まあ、何回も経験すりゃそのうち慣れるだろ」
(慣れるまで乗せるつもりなのか!?進藤っ!)
ヒカルの不穏な台詞に、アキラの背中を冷たい汗が伝っていく。
次に計画されているネズミーリゾート行きに安易に頷くのではなかったと、後悔しても既に遅い。
絶叫系は平気なのに、こういったものはダメなのか自分でもよく分からないが、アキラは次に向けて前もって覚悟を決めておく。 とはいえ、本人がそう
心配するほど苦手なわけではないのだが。慣れてしまえば、アキラは大抵のアトラクションは平気なのだから。
ジュラパ付近にくると、タイミングよく激しい水飛沫を上げてライドが急降下する様子が見られて、ヒカルと和谷は歓声を上げる。
「うひょー!スッゲー!」
「ぜってー乗るぞっ!」
二人はわくわくした顔で柵の傍まで近づき、ライドがどんな風に出てくるのか観ようと、身を乗り出す。
丁度その眼の前で、サーフィンでもできそうな大きな波を起こして、高い位置から一気にライドが落ちた。まさにそれは降りるというよりも、落ちるという
表現が相応しい、滝のような急流滑りであった。
(ああ、……あれならスプラッシュと同じだから乗れそうだ)
映像系統だったらどうしようかと思っていただけに、伊角はほっと胸を撫で下ろした。
これならば同系統のアトラクションに何度も乗って経験済みだから、伊角でも十分楽しめる。
「社、あれだとかなり濡れるんじゃないか?」
ライドの落ちる様子を眺めていたアキラは、乗りたくてうずうずしているヒカルの可愛らしさを写真に収め、カメラを丁寧に防水袋にしまうと、横に立つ
社に尋ねた。声は非常に冷静沈着そのもので、やにさがった顔でヒカルを見詰めていた人物とは同一人物とは到底思えない。
「位置によってはパンツまでびしょ濡れや」
アキラの切り替えの早さに呆れつつ、社は律儀かつ正直に答えた。
「雨合羽買うか?おかっぱ少年」
社のからかい混じりの言葉に、アキラはちらりと一瞥だけをくれる。
「そういうつまらない駄洒落を言っても、ボクは笑わないぞ」
社自身は自分でもかなり上手い親父ギャグだと思ったのに、アキラは南極のブリザードの如く冷ややかな目線をくれただけであった。
やはりこういうギャグは本人ではなく、ヒカルあたりに言ったほうが、受けがよかったのだろうか。
自分達の周囲にだけオーロラが観測されそうな冷たい空気の流れに、社は玉砕したギャグと共に凍りつきそうな勢いである。このまま氷河のクレバス
にでも落ちて隠れたい気分だったが、救いの神は現れた。
その神の名は、進藤ヒカルという。
「塔矢、おまえ雨がっぱ買えよ、おかっぱだし」
アキラを表面しか知らない者が聞けば、何という命知らずだ!と思うだろう。だが相手はあの進藤ヒカルだ。ヒカルのすることならば、アキラは大抵の
ことは笑顔で許すのである。可笑しくもないくせに、くすくすと上品に笑うと、雷を落とすどころか優しく微笑みかけた。
「構わないけど……ボクが買った雨合羽はキミが着るんだよ?濡れて風邪をひいたりしたら大変だからね」
社が似たような台詞を喋っても、愛想笑いの一つはおろか、冷凍ビームのような眼をくれたというのに、相手がヒカルだとこうも態度が違うのだ。
まさに愛情の差、ここに極まれり。
「えーっ!?やだよ、雨がっぱなんて着たら面白くねぇもん」
だったら買えなんて言うなや、と社は心で裏手ツッコミを入れたが、敢えて一切口には出さずにおいた。
自分も同じようなことを洒落で考えたので、ヒカルレベルのギャグセンスだと思われるのは、関西人の沽券に関わるのである。
「濡れるのがこういうのは面白いんだぜ。おまえ着ろよ…って、塔矢が濡れなくてオレが濡れるのもむかつくしやっぱり買わなくていいや。それより腹へ
った。ポップコーン買って?」
相変わらずのワガママ女王様ぶりに、社はそっと溜息を吐く。
最近益々オレ様ぶりに磨きがかかってきている様子から、アキラがいかにヒカルを甘やかし、王子として傍らで傅き尽くしているのか、普段を知らなく
てもよく分かるというものだ。
見かけによらず、アキラは尽くすタイプの男なだけに、この二人の関係はバランスが悪いように見えて、実はぴったり合っている。
可愛く小首を傾げておねだりする愛らしさに、即行で財布を握り締めて買いに走るかと思いきや、アキラは腕時計で時間を確かめると、さらさらとした
黒髪を揺らして首を横に振る。
「このアトラクションが終わったら、そろそろ昼食の時間だ。ポップコーンなんて食べてお腹を膨らますより、他のものを食べた方がいい。おやつにホット
ドックでもなんでも奢ってあげるから、今は我慢して」
王子様は女王様のご機嫌と食い気の天秤を量るのにも慣れてきたらしい。にこりと笑って提示された譲歩案に、ヒカルはあっさり頷いた。
「いいぜ。おやつはホットドッグとポップコーンな」
「それだけでいいの?」
「他はあとで決めるからいいんだよ」
(どんだけ奢らせるつもりなんや……)
ヒカルの大食漢ぶりを知っているだけに、呆れて頬を引きつらせながら、社は絶対にこいつにだけは飯は奢らんと心に誓う。
アメリカナイズされたポップコーンの販売店は至る所で眼についた。
クモ男の胸像のような容器から、ど派手にも米国旗をデザインしたもの、可愛い系では世界一有名なビーグル犬のデザインもある。
今までヒカルが一度も食べたいと言わなかったのが不思議だが、何のことはない、きっとアトラクションに夢中で、食い気まで頭が回らなかっただけ
の話なのだろう。きっと午後からは、アトラクションに加えて食べまくるに違いない。
食欲魔人のヒカルに奢っていたら財布の中身なんて一瞬で空っぽだ。お坊ちゃまで高給取りのアキラにその役目は謹んでお譲りする。
一頻りライドの降下する様を眺めた彼らは、目的のアトラクションを堪能するべく中に入った。
ライドに乗った彼らの反応は様々で、歓声を上げて喜んだのは和谷とヒカル、平然としていたのはアキラ、意外と楽しんでいたのが伊角で、対照的に
社だけは最後の止めの落下に少し動揺していた。
社はUSJでは、どうもジュラパだけは苦手なのである。かといって乗るのを嫌がるほどでもなく、付き合いで乗れるくらいなのだが。
どうも落ちる瞬間の無重力感覚が好きになれないらしい。
約二ヵ月後に遊びに行ったネズミーリゾートで、彼はこのライドを何十倍にも強化した乗物に乗るのだが…結果は後のオタノシミである。
ジュラパを出ると、若く健康な胃袋が空腹を訴える時間となった。
しばらくは中で食事ができそうなレストランを探したが、値段や好みとの折り合いがつけられず、中々決まらない。
探しているうちに社の多少ひっくり返り気味だった胃袋もすっかり正常に戻り、空腹を訴えるようになったほどだ。
さすがに五人も集まるとそれぞれの主張があって意見にも食い違いができる。しかも全員が棋士という勝負の世界においているだけに、意地になって
譲り合わないこともままあった。
「しゃあない、こうなったら外で食おうや。店の数かて多いしな」
「うーん…そうするか」
社の意見に全員が頷き手にスタンプを押して貰ってパーク外に出る。
「すぐそこにマクドあるし、マクドにせぇへん?値段も安いで」
「マクド?」
東京出身の四人は一様に首を傾げた。聞き慣れない言葉に、目線だけでそれぞれに疑問をぶつけ合う。
「マクドはマクドやん。東京にあらへんわけないやろ?」
そう言って社が差した先にある店は、彼らにとっても馴染み深いファストフード店であった。
棋院の帰りや昼食などによく利用している、安さと速さとスマイルが売りの有名店だ。
「なーんだ、マックじゃんか」
ぽつりとつまらなさそうに呟いたヒカルに、社はここぞとばかりにビシリと裏手ツッコミを入れる。
「マックやない!マクドやっ!マックやなんてどこぞのコンピューター会社のパソコンみたいやないか。おまえらパソコン食っとんかい。フランス人か
てマクドって言うんやぞ」
「フランス人なんて関係ねぇじゃん。あっちじゃマックなんだよっ!」
「こっちやったらマクドなんや!郷に入りては郷に従えやで」
大威張り大全開の社に押し切られる形で、ヒカルは渋々口を噤む。
言い負かした勝利に密かに酔いしれる社とは裏腹に、ヒカルはこっそりとアキラに耳打ちして尋ねた。
「郷に入りては郷に従えってどういう意味?」
ヒカルが言い返さなかったのは、社の話した諺の意味が分からなかったからだった。
何を言われているのかさっぱり分からなかったので、反論の糸口すら掴めずに、押し黙っているしかなかったのである。
囲碁のヨミ合いでは凄まじい集中力で社に遅れをとったりしないが、ヒカルは学校の勉強は苦手だった。
中学時代の成績など実に酷い有様だったのだから。
頭自体は悪くないのに、好きでない勉強は集中しなかったものだから、知識に非常にムラがある。戦う前にヒカルは一般常識で社に大きく水を開け
られ、完全に敗北していたのだが、本人にその自覚はない。高校生になっている社とヒカルとでは、勉学面での差は大きかった。
「進藤……キミ、もう少し国語の勉強をした方がいいよ……」
ヒカルは妙に小難しい言葉や古語を知っていて驚かされる時もあるが、まるで諺や慣用句を知らなかったりする。
字はひどいくせ字なのに、漢字の書き順は間違えなかったりと、奇妙なところがあるのだ。
「いいじゃんか、とにかく教えろよ」
溜息をついたアキラを睨んで、ヒカルは要求を繰り返す。
女王様のお言葉に王子様は頷き、よく分かる解説を行った。
「『郷に入りては郷に従え』とは、新しい土地に入ったら、その土地の風俗や慣習に従え、という意味の言葉だよ」
「へぇーそっか。塔矢、おまえっておばあちゃんの知恵袋みたいだな」
「ははは……褒め言葉として受け取っておくよ」
恐らくヒカルとしてはちゃんと褒めたつもりなのだろうが、余り褒められた気がしないアキラであった。
「腹も減ったしここにするか?馴染んだ店だし値段も手頃だしな」
伊角の鶴の一声で彼らは自動ドアを開けて中に入り、昼食時をそれなりに有意義に過ごしたのだった。








