Ⅶ ネズミの海
「あーっ!!開門時間過ぎてるっ!」
朝一発目の目覚ましは、伊角の絶叫だった。
彼の素っ頓狂な声に、隣のベッドで眠っていた和谷も、和谷を挟んで窓際のベッドで熟睡していた社も、驚いて文字通り跳ね起きた。
寝惚けてぼんやりした顔で自分を見詰める二人の様子に気付いた風もなく、伊角はベッドサイドのはめ込み式時計を親の敵を見つけたような鋭い眼で睨みつけている。
視線だけでこの目覚まし機能のついた時計を壊すこともできそうなくらい、殺気立った眼であった。幸いにも、寝起きの和谷と社は彼のどことなく殺伐とした雰囲気に気付
きもせず、大きな欠伸をする。時刻は現在午前八時一分。開門より僅か一分だが過ぎている。
たかが一分、されど一分。例え一分であったとしても、開門に間に合わなかったのは、紛れもなく事実である。これだけは動かしようのない現実であり真実だった。
実は昨夜、伊角は目覚ましをついかけ忘れてしまったのだ。夕食までは、あんなにもかけておかねばと、思っていたというのに。
それだけに彼にとって今朝の寝坊は、自身のミスもあって許し難い。当然、遅れた時間は取り戻せず、後戻りもできない。
だがしかし、これからすぐに朝食を食べて向かえば、主役のネズミ俳優と愉快な仲間達の、朝の挨拶には間に合うはずだ。
伊角は普段ののんびりとした姿を微塵も感じさせない素早い動きでベッドを下り、アキラとヒカルが眠る隣の部屋へ駆け込む。
現時点で開門する朝の八時を過ぎてしまっているのだ。ネズミーシーでは、既に朝一番の客を出迎え終わっている時間である。
これ以上遅れると、次にある朝の挨拶にだって間に合わない。折角オフィシャルホテルに泊まったのだから、開門に合わせようと思っていたのに、うっかり寝坊してしまった
のは手痛い失着だった。囲碁ならばアテ間違えたようなもので、一度置いてしまった石を動かすことも戻すこともできないように、寝坊した時間は戻らない。
悔しさに歯噛みしたい思いだが、今からでも十分楽しめる。伊角は気合を入れ直して、二人が寝入っているダブルベッドの脇を足早に通って締めきられた窓に向かった。
「二人とも早く起きろっ!開門時間が過ぎてるぞ!」
カーテンを勢いよく開けると、ベッドを振り返って声をかける。
薄暗かった室内に明るい朝の光が差し込み、気持ちよく熟睡していた少年達は眠たげな仕草で布団の中にもそもそと潜り込む。
アキラの肩に頭を埋めるようにして眠っていたヒカルも、大事そうにヒカルを腕に抱き締めて寝ていたアキラも、突然の闖入者の登場に、何が起こっているのか理解できない
まま、再び寝入ろうとしていた。いつもなら早起きのアキラが珍しく目覚めが遅いのは、昨日の疲れとアレコレ致したことからきているのに他ならなかった。
だが伊角は二人の二度寝を許すつもりなど毛頭ない。そんな無駄な時間は毛ほどもないのだ。
今朝の伊角は普段の優しいお兄さんというイメージの欠片もなく、全く容赦がなかった。小さな子供か蓑虫のように布団に隠れた彼らを起こすべく、無情にも布団を強引に
ひっぺがす。ぬくぬくとした布団がなくなると、二人とて目覚めざるを得ない。
伊角が普段、寝汚く眠る弟達を容赦なく起こす時の常套手段である。意外にも、こんな時には長男の力技が発揮されるものらしい。
「うぅ~ん…眠い~」
不満そうに唸りながら海老のようにヒカルは身体を丸め、アキラはぼんやりとした表情のまま何とか身を起こした。彼らは寝惚け眼で眠たげに周囲を見回し、何が起こったの
か理解できずに茫然としている。開けられたカーテンから入る陽光の眩しさに、何度も眼を瞬いて、欠伸をするばかりだった。
「ほら!二人とも早く着替えて!」
そんなヒカルとアキラを急かすために手を叩くと、拍手を打つような小気味のいい音が室内に響く。
音に刺激されたのか、名残惜しそうにしながらもベッドをもたもたと下りる二人を確認した伊角は、残る弟分を起こすべく部屋を出る。
「和谷と社も起きて、すぐに仕度だっ!」
未だにぼんやりベッドに座っている和谷と社を急かしにかかった。鍋奉行ならぬ、ネズミーリゾート奉行の大々的な復活劇である。
こうなったら、誰にも伊角を止められはしない。ネズミーリゾート奉行状態になっている伊角に逆らうなど愚の骨頂なのは明白で、四人は慌てて行動を開始した。
着替えを済ませて必要なものを持つと、すぐに階下のレストランに向かう。出遅れたといってもしっかりと朝食をとるのは、テーマパークで遊ぶエネルギーを作るための必須
項目だ。朝食を多めにとって仕度を整えると、素早く移動するためにバスターミナルに向かう。
すると、丁度タイミングよくシャトルバスがやってきて、彼らはこれ幸いとばかりに乗り込んだ。
『アハッ!出発進行!』
ネズミ俳優は朝から元気に、鼻にかかった声でご機嫌に挨拶をして、車内アナウンスもそつなくこなす。アメリカ生まれなのに、日本語だけでなく世界各国の言葉も喋られる
素晴らしい語学センスの持主だ。これも大スターの持つ才能というものなのだろうか。まだ眠気が抜けていない時に聞くとどことなくイラッとする、どういうわけだが魔法も使えて
しまう世界一有名なネズミ俳優の掛け声で、シャトルバスはホテル客を乗せて出発した。尤も、イラッとしたのは四人の少年達だけであったけれど。
このバスのルートで向かうのはランドやシーではなく、オフィシャルホテル群の最寄り駅となる。駅に着くと一旦バスを降りて、モノレールのリゾートラインに乗り換えなければ
ならないのだ。シャトルバスやリゾートラインでは、ネズミ俳優の頭の輪郭をかたどった窓や吊革、信号機などが特徴となっている。
当然ながら、シャトルバスもリゾートラインも、世間的には十一月初旬であったとしてもクリスマスムード一色に煌びやかに飾られ、駅にもクリスマスツリーが常駐している。
これらの様々な要素がネズミーリゾートファンには堪らない特典で、気分をたっぷりと盛り上げてくれるらしく、朝の喧騒も忘れて伊角はすっかりご満悦でご機嫌だった。
対して残る四人は、まだ完全には目覚めきれていないらしい。
ヒカルはアキラの肩に頭を載せてうとうとしているし、和谷も社も電車の揺れの心地よさに船を漕いでいる始末だった。乗車時間が短いので何とか寝ないでいるアキラですら、
何度も欠伸をかみ殺している。余程眠かったのだろう。僅か四分ほどで電車は到着し、彼らは再び伊角に起こされて、ふらつく足取りでネズミーシーへと向かったのだった。
さて開門時間に彼らが朝の惰眠を貪っていた間に、早起きをして元気に活動している棋士が二名いた。言わずと知れた、芦原弘幸四段と緒方精次十段・碁聖である。
そしてこの日もタイトルホルダー殿は不機嫌だった。夢見が悪かっただけでなく、ゆっくりと朝も眠れずに、強引に叩き起こされて開門につき合わされているからに他ならない。
昨日に引き続き、何が楽しゅうてこちらのキャラクターと朝の爽やかな一時を過ごさなければならないのだろうか。
そんな時間があれば、自分としてはもっとゆっくりと眠っていたいと、彼は心の底から思っていた。しかも夢見の悪さも手伝って、疲労だって倍増である。
今日も今日とて、オレの朝の睡眠時間を返せ!と緒方二冠タイトルホルダーは、弟弟子の芦原を恨みがましげに睨んでいる。
当然、芦原は兄弟子の視線などこれっぽっちも気にしていなかった。
勝負パンツのお陰で開門にも間に合い、念願のネズミ俳優と直接対面も果たした。彼は昨日に引き続き、キャラクター達との朝の楽しい一時を過ごすことに夢中だ。
勝負パンツ云々が関係あるのかどうか不明だが、昨日に引き続いて三つ目の宇宙人帽子を被った芦原は絶好調である。
取り敢えず朝のイベントを終えた芦原は、早速アトラクションを楽しむべく緒方を引き連れて火山を目指してずんずん歩き出した。そこに、緒方が異を唱える。
「オイ、今日のメインはアレじゃないのか?何でそっちに向かう」
緒方の指した方向には、朝靄に煙るようにして洋風の背の高い建物が建っていた。数ヶ月前にオープンした新アトラクションで、ここでは怪現象の起こる恐怖のホテルという設定
になっている。普通なら、まずその新アトラクションの列に並ぶか、或いは早々にファストパスを取りに行くかのどちらかだが、芦原はそうせずにまるで別の場所に向かっているのだ。
緒方でなくても疑問に思うに違いない。事実、開門して最初のスタートダッシュのお目当ての殆どが、まだできたばかりのアトラクションなのだから。
ところが、緒方の疑問に対して芦原はのほほんと答えた。
「ああ、あれは後でファストパスを取りに行くからいいんですって。それよりもまず、アースの様子を見に行きましょう」
「だから、何で先にソレなんだ?」
ヨーロッパ風の街並の中をどんどん歩く芦原に着いて行きながら、緒方は首を傾げる。どうにも納得できなくて腑に落ちない。
今日のメインといっても過言ではないアトラクションを後回しにして、これまでに何度も乗っているであろうアトラクションを優先する理由が、彼には思いつかなかった。
「アースはシステムトラブルがちょっと多いアトラクションなんです。乗れるうちに乗っとかないと、乗り損ねちゃうこともありますからね。だからまず、アースのスタンバイに一人が並ん
で、もう一人がインディかレイジングのファストパスをとりに行くんですよ」
「………はあ」
「アースの後に時間があったら、インディかレイジングのどちらか、とっていない方のアトラクションのスタンバイに並んでもいいですし、時間帯によっては、朝の挨拶の場所の確保に
行くのも一つの手です。終わった頃に次のファストパスを発券できる時間になりますからね」
「…………ふーん…」
「その後くらいに、恐怖ホテルのファストパスを取りに行くんですよ。どうせ乗るなら、恐怖ホテルは夕方から夜にかけて乗る方が、雰囲気が出て面白そうですし!朝は大スターミ○キ
ーの挨拶もありますから、これも逃せませんよ!」
本日も朝から芦原はハイテンションだった。曖昧に頷く緒方のことなどあっさり無視し、芦原は練り上げられた計画をナイアガラの滝のごとく喋っていく。
アースを優先して、恐怖ホテルのファストパスは後で取りにいくという芦原の計画と主張は、お陰さまで緒方にも十分伝わった。
新しいアトラクションにも、システムトラブルなどの事情は十分に有り得ることじゃないのか?と緒方は聞きながら思ったが、敢えてこれ以上突っ込んで訊く気にもなれなかった。
下手に尋ねたら、また延々と計画を聞かされる羽目にもなり兼ねない。それは自分とて御免だ。あくまでも緒方は芦原の付き添いであり、自分から進んで来たのではない。
アトラクションだって乗りたくて乗っているわけではないのだ。むしろ、子供じゃないんだから全部一人で乗れ!と主張したい。だが、そう言うと、芦原は緒方を言葉巧みに煽って乗せ
るのだ。因みに言葉巧みというのは、緒方の曲解が甚だしく混ざっているので相当に真実とはかけ離れている。本当のところはこんな感じだ。
『オレは乗らんぞ。ガキじゃないんだ、おまえ一人で乗れ』
『え~?そんなぁ。二人で来てるのに一人でアトラクションじゃ寂しいじゃないですか。緒方さんも一緒に乗って下さいよ』
『嫌だ。こんな女子供の乗物なんぞ、オレの趣味じゃない』
『全く……たかだかアトラクションの一つや二つくらい、ケチケチせずに乗ればいいのにー。本当は絶叫系が大好きなくせに、格好つけてそんな事ばかり言ってるから恋人と長続きし
ないんですよ』
『何だと!?聞き捨てならんな、芦原。そこまで言うなら乗ってやる!』
――とまあ、このように馬鹿馬鹿しいやり取りから端を発して、緒方は結局、毎度毎度苦手な絶叫系に乗る破目になっているのである。
緒方の行動はただ子供っぽく意地を張っているだけで、何の理由も根拠も有りはしない。そこには棋院の妖怪桑原本因坊を警戒させた、タイトルホルダーの威厳など微塵もなかった。
元から大人げないところのある御仁だから、仕方ない。
負けず嫌いもほどほどにしないと、自身に不利益を招くのだ。この時点で芦原が既に誤解していることに、気付いていないのも問題だが。
ここを突かれる限り、緒方は永遠に本因坊位を獲れまい。後に、彼の眼の前で本因坊位は新進気鋭の女王虎に掻っ攫われ、臍を噛むのだが、それはまだここで語るべきことではない。
今回も緒方は芦原だけにアトラクションを任せて、自分は適当にどこかで時間を潰そうと、必要のない計画を練っていた。だが、結局はそれも考えるだけ無駄な時間である。
「じゃあ、早速アースに入りましょう!」
元気一杯な芦原は、まだスタンバイ列が短めのアースに、緒方の意見も聞かずにとっとと突き進んだのだった。
五人がネズミーシーに到着した時は、既に九時を過ぎていた。この頃には芦原はインディのファストパスを取り終え、アースに乗った後にレイジングで三百六十度回転を体験していた
という点から、五人が朝一番の客に比べて出遅れていたのは確かだろう。
芦原が意気揚々とアースに入った頃、若手五人組はまだホテルのビュッフェで朝食を摂り、栄養補給に勤しんでいたのだから。
出遅れたといっても、まだまだ朝の早い時間である。乗ろうと思えばいくらでもアトラクションにも乗れる時間だ。
地球儀のような大きなシンボルの前で記念撮影をして、彼らは早速ショーなどが行われるメインの港まで来た。ここでも写真を撮っているあたり、結構余裕のある五人組である。
港からはヨーロッパ風の街並が見え、煙を吐く火山が正面に鎮座している。横に眼を向けると、曇天の空の下に相応しい雰囲気の、新アトラクション恐怖ホテルが見えた。
今日の天気は晴れということもあり、雲の隙間からは日光がさして少しずつだが明るくなってきている。とはいえ、ところによっては雨らしく、昨日に比べると少し気温も低めだった。
できれば雨に降られないことを祈りたい。
ネズミーシーのもう一つのメインともいえる湖の前で写真を撮り終え、周囲をぐるりと見回した伊角は、遅れを取り戻すべく決然とした表情で同行者の四人の少年達を振り返る。
「じゃあまず、二手に分かれることにしよう。オレと和谷は恐怖ホテルのファストパスを取りに行く。三人はこれから一番奥にあるレイジングかインディのスタンバイ列に並んでくれ。並んだら
携帯に連絡を入れることを忘れないように」
伊角の言葉に、ヒカル、アキラ、社、和谷は素早く敬礼して答えた。
「アイアイサー!」
「了解」
「ラジャー」
「イエスサー!」
まるで巨大ロボットアニメーションに登場する軍人を真似たように、敬礼する四人の動きは綺麗に揃っている。小気味のいい返事に伊角が頷いたのを合図に、五人はそれぞれの任務を
こなすべく、行動を開始した。
スタンバイの時間を効率よく確かめるために、社とヒカル達はとりあえず分かれて行動することにした。社はレイジングに向かい、ヒカルとアキラはインディへ足を向ける。
ヨーロッパ風の街並を再現している入口付近とは違い、この辺りは南米やアジア地方の古代遺跡をイメージし、雰囲気が大きく異なった。
エリアごとにセットが変わるのは、こういったテーマパークならではで、ゲストを飽きさせない作りになっている。
二人がインディに着いてスタンバイ時間を確認すると殆ど同時に、ヒカルの携帯が軽快な音を鳴らした。
「もしもし?」
『進藤、オレや。こっちは大体一時間待ちくらいやな』
「こっちは三十分くらいだぜ。どうする?」
『せやな……そしたら待ち時間の短い方にしとこか』
「オッケー。じゃあ、オレと塔矢は並んでおくぜ」
『おう、オレもそっちに向かうわ。伊角さん達にメールしといてくれ』
「わかった」
ヒカルは携帯を切ると、アキラを振り返る。
「レイジングは一時間待ちだってさ。こっちに社も来るって」
「開園して一時間くらいなのに、もうそんなに並ぶんだな」
驚いたような呆れたような口調のアキラに、ヒカルも肩を竦めた。何と言ってここは日本一観光客が訪れる夢の国である。しかも三連休の中日とくれば、半端でない人数が来るだろう。
USJの時のように平日の昼間ではないのだから、当然だ。スタンバイ列に並ぶと、見計らったように和谷からのメールが届く。
『恐怖ホテルファストパス確保。時間は十七時以降』
「へぇ~、朝のこんな時間で夕方になるのかよ。スゲー」
「どうしたんだ?進藤?」
ヒカルの素っ頓狂な声に、アキラは訝しげに首を傾げる。その疑問に答えるべくメールを見せると、驚いたように眼を丸くした。普段見せない表情はどこか幼くて可愛らしい。
朝一番でこんなにも遅い時間になるということは、既にこの時点で大勢の人がファストパスをとったに違いない。さすがにできたばかりのアトラクションだけあって、人気も相当なものだ。
奥の方まで一気に歩いていくと意外にも中は空いていて、これならば表示通りに待たなくて済むかもしれない。内部はいかにも発掘中の古代遺跡という雰囲気だ。考古学者を主人公に
した、アクション冒険巨編映画を元にしているだけのことはある。何だかここを見ていると、妙に血が騒いでくるような気がするのは、気のせいだろうか。
二人揃って物珍しげに遺跡に似せた内部を見ているうちに、伊角と和谷が近くに居るはずの社よりも早くやってきた。
「あれ?早かったね、伊角さん」
意外そうなヒカルに、伊角はこともなげに頷いてみせる。
「電車に乗ってからメールを打ったからな。こういった移動手段を使ったほうが効率よく回れるんだぜ」
「そうなんだ…」
「色々移動手段があるんですね」
素直に感心しているヒカルとアキラに、伊角は誇らしげに胸を張っている。自分の好きなパークを褒められて、気分がいいのだろう。
伊角の様子を微笑ましく横目に見ながら、一方で和谷は次に来る時は絶対にアキラとヒカルとは一緒に来たくないと慨嘆した。
何せこいつらときたら、人目も憚らずに何気なくいちゃついていたお陰で、スタンバイ列の中でも一際目立っていたのだ。
和谷としては物凄く声をかけ辛かった。正直かけたくなかったくらいである。
何も気にせずにヒカルの肩を叩いた伊角に、思わず尊敬の眼差しを向けた和谷だった。尤も、伊角はこういったことにただ鈍感なだけなのだが。とはいえ、もしも伊角が一緒に居なければ、
和谷は即行で回れ右をして近付かずにいたに違いない。
それにしてもアキラときたら、ちょっと伊角がヒカルの肩に手を触れただけで、嫉妬深い眼で睨むのだから堪ったものではなかった。しかも後で同じ場所にさりげなく自分も手を置いている
のだから、この男の独占欲は相当なものである。幸いにも伊角はまるで気付いてなかったから良かったものの、繊細な神経の持主では身がもたないに違いない。
気疲れだけで倒れてしまいかねない。この二人のお守りをする社の気苦労が少し分かった気がする。
伊角と和谷が来て程なくして社も合流し、五人はそれからさして長い時間を並ぶことなく順番が回ってきて、揃ってインディのアトラクションを楽しんだのだった。
中でもヒカルはインディをことのほか気に入ったらしく、後でもう一度乗りたいと言っていたほどである。このインディは時間帯などによって台詞や内容が微妙に変わるらしく、リピーターが
多いというのも頷ける。インディを出て空を見上げると、着いた時は晴れ間も見えたのに、今は雲が厚く垂れ込めて雨が降り出しそうになっていた。
ところにより雨が降るでしょう、という気象予報士の言葉を借りるなら、「ところ」にこの場所はかかっているのだろうか。
伊角は天気よりも時間が気になるらしく、腕時計とショーガイドを何度も確認しながら、先に立って歩き出す。
「もうしばらくしたら朝の挨拶の時間だ。蒸気船に乗って入口の港まで戻ろう。今なら船にギリギリ間に合うはずだから」
「朝の挨拶?」
残る四人は首を傾げた。
「港で挨拶がてらのショーをするんだ。開門に間に合わなかったから、せめてこっちは見ておかないと!」
どうやら、朝に全員が揃ってゲストに挨拶をするというイベントがあるらしい。開門を逃しただけに、伊角はそれが見たいのだろう。通だけに色々とこだわりがあるようだ。
「折角ここまで来ているのに、世界の大スターに会わずに帰るわけにいかないからな!」
握り拳を作って力説する伊角を、四人は茫然と見詰めた。
(世界の大スター?)
(誰やねん、それ)
(イチロ○選手?)
(ハリウッドの有名監督か?)
「ここでなら提督姿なんだ。さすがに大スターだけあって、色んな役をこなすよなー。しかも魔法まで使えるなんてさすが大俳優!」
日頃は見せない、機敏な動きで人の波を抜ける伊角はわけのわからないことを力強く語っている。ヒカルも、社も、和谷も、アキラも、意味を理解できずに揃って首を傾げた。
仲間の鈍い反応に、伊角は焦れたようにもどかしげに口を開く。
「知らないのか?世界の大スターで、魔法も使えてしまう俳優と言えば、ミ○キーに決まっているじゃないかっ!」
(へ……?ミッ○ー?)
大きな瞳をきょとんと見開き、ヒカルは不思議そうに小首を傾げた。
(意味不明だ……)
優秀な頭脳をフル回転させても理解できず、アキラは嘆息する。
(わけわかんねぇよ~!伊角さん)
内心で頭を抱えて叫んでいるのは和谷だった。
(何でミ○キーやねん)
関西人らしく鋭くツッコミを入れたのは社である。大体からして、どうして世界の大スターという大それたふれこみなのか、彼らの常識からでは推し量れない。
それに、ネズミ俳優なのに魔法も使えるというのも、考えてみるとかなり矛盾している。役柄と言ってしまえばそれでおしまいなのかもしれないが、どうもそれだけでもないようだ。
日本の変身アクションや、アニメ番組や漫画もアレコレとツッコミどころ満載なので、同じようなものだと考えればいいのだが……。
ネズミーリゾートの世界も、これはこれで掴みきれない。非常に奥の深い世界である。何故にそうなるのか、少年達には理解できなかった。
「世界中の人々に愛され、誰もが知っているミ○キーのことを、世界の大スターと言わずしてどうするんだ!?」
伊角と芦原の説はぶっちゃけ、無理矢理なただのこじつけである。
(いや、そう思ってんのってほんの一部ちゃうん?)
例えばネズミーリゾート奉行の芦原某や、伊角某とか。
確かにネズミ俳優がとても有名なキャラクターであるのは認めるが、そこまで大仰な存在であるとも思えない。内心で冷静にツッコミつつも、敢えて社は何も言わずにおいた。
言わぬが花という言葉が、日本語にはある。これぞ日本人の美意識。
港で行われるショーのために運行が停止される前に蒸気船に乗れた彼らは、人々が本格的に集まり始める直前に港に着くことができた。だが、秋の空は雲行きがどんどん怪しくなる。
女心と秋の空とはよく言ったもので、朝の晴れ間が嘘のようだった。昔は男心と秋の空と言ったらしく、人々の文化が変われば言葉の意味も変わってくるという、一つの例ともいえるだろう。
こんなくだらない薀蓄は、取り敢えず本編とは関係ない。それなりにいい場所を確保した五人はショーの始まりを待った。
程なくショーの開始を告げるアナウンスがあり、軽快な音楽と共に世界の大スターであるネズミ俳優が船に乗って登場する。
伊角はうきうきしながらカメラを構えて、手を振るネズミ俳優に応えたりして、大変にご機嫌で絶好調だ。しかし、タイミング悪くほぼ同時に雨粒が天から降り注ぎ始めた。
まるでショーが始まる時間を狙ったかと思えるほどだ。瞬く間に路面は雨に濡れて色を変え、湖を渡る風もうっすらと白く濁っていく。
用意のいいアキラは、ヒカルに雨がかからないように素早く傘を開き、社と和谷も慌てて折り畳み傘を取り出す。
当然ながら、アキラとヒカルは身体をぴたりと密着させての相合傘である。見ているだけでこちらが恥ずかしくなりそうな二人を、残る三人は見て見ぬふりを貫いた。賢明な判断といえよう。
その間も伊角は写真を撮り続けていたが、容赦なく降りだした雨には投了せざるを得なかった。和谷の差す傘の下に伊角も避難して一緒に入ったのを見計らったように、更に大粒の雨が降り
出し、容赦なくゲストを濡らしていく。この大雨の中で、歌って踊るショーは相当厳しいに違いない。
用意のいいネズミ俳優もレインコートを着用しているとはいえ、文字通り濡れ鼠になってしまっていた。
『ホッホー!みんな!おっはよう♪ハハッ!』
船に乗って登場した提督姿のネズミ俳優は声援に応えて大きく一周すると、湖の中でも一番見えやすい場所で船を停め、傘を差すゲスト達に向かって大きく手を振り、投げキッスなども披露
する。例え滝のような大雨であったとしても、取り敢えず朝の挨拶を元気よく行うあたり、立派なショーマンシップだ。
普通なら、雨の中でここまで陽気な挨拶はできないものの、さすがにネズミ俳優はそこらの三下俳優と格が違う。
『アハッ!元気?ハハハッ!』
聞く人によっては苛つかせる鼻にかかった声は大スターにはたまに傷だが、そう感じるのは極一部の人なので問題ない。だがしかし、その挨拶の声すら掻き消しそうな豪雨が降り注ぐ。
如何に世界の大スターといえども、挨拶だけで限界だった。雨で視界が悪くなるほどの大雨の中では、とてもショーなどできるはずがない。取り敢えずは声をかけてくるゲストに向かって手を
振ったり、写真を撮れるようにポーズを決めるネズミ俳優だった。
彼は雨の中でも立派に仕事こなしてはいたが、乗っていた船は半ば強制的に港を離れて戻っていく。結局、ネズミ俳優は港をゆったりと一周しただけだった。
「ああー!そんなぁ、ミ○キー」
立ち去るネズミ俳優を見て悲鳴のような声を上げて残念がる芦原を横目で窺いながら、緒方は多少同情しつつも、内心どこかで胸のすくような思いを味わっていた。
世界の大スターと敬愛するネズミ俳優との対面が、本来三十分のところが僅か五分でおしまいになったのが、芦原にはショックらしい。だが緒方にとってはネズミ俳優との邂逅なんぞどうでも
良かった。朝一発目に急流滑りのような急落下を味わい、その後にはいきなり三百六十度回転のジェットコースターである。
絶叫マシンが苦手で大嫌いな緒方にとって、朝の早い時間から味わって楽しいアトラクションではなかった。続け様の絶叫系にヘロヘロになっていた緒方が次に乗ったのは、パーク内を移動
する電車だ。彼にとっては心癒される時間であったのは間違いない。その後で恐怖ホテルのファストパスを取りに行き、歩いてショーを観にきたというわけだ。
さすがに芦原は、一番見やすい場所をしっかりと確保していたが。
折角ショーを観覧しやすい場所に陣取ったというのに、お目当てのネズミ俳優が早々に引きこもってしまったお陰で悲嘆にくれる芦原はほんの少し気の毒だが、この雨では仕方ない。
緒方は多少なりとも溜飲を下げて、上機嫌で一人頷いた。昨日、今日とたて続けに芦原に散々振り回されただけに、ちょっとばかり『ざまぁみさらせ』というような気持ちがないわけではない。
ほんの一時ではあったが、緒方は小さな勝利に酔いしれた。人を呪わば穴二つという諺があるように、誰かの不幸を喜んだりすると、後で必ずツケが回ってくるのが世の常だが。
芦原と緒方から離れた場所で、伊角もまたショックに打ちひしがれていた。彼にとっては、開門に間に合わなかっただけに衝撃も一入だ。
せめてクリスマスバージョンでの朝の挨拶を堪能しようと気合を入れていた分、たった五分で終わったのは寂しすぎる。しかし、この大雨の中でショーができないのも無理はない。
大雨に降られたお陰で、雨の時にしか見られないレインコートを着用したネズミ俳優と対面できただけでも良しとしなければ。
大スターが雨から避難してショーの終了が告げられると、人々は不満そうにしながらも、三々五々散っていく。
そして、まるでゲストの行動を見計らったように、程なく雨は上がって天気は見事に回復した。天気の神はかなり天邪鬼らしい。
晴れ渡った空を、思わず恨めしげに眺めるゲストの面々だった。亜熱帯のスコールを思わせる大雨だったというのに、ほんの数分後にはすっかり晴れて、昨日のような上天気になっている。
傘を差していた時間が虚しく感じられるほどである。
ところどころにできた水溜りが雨の名残を残しているだけで、気温も上昇して暖かくなってきていた。
彼らは仕方なく傘を閉じて、これまでの肌寒さとは一転して暑さすら感じる嫌味な天気の中、再び蒸気船に揺られて今度はレイジングに乗るべく、移動を開始した。
レイジングもインディと同じく古代遺跡をテーマにしたアトラクションで、こちらは屋外型のジェットコースターだ。神々の怒りがレール曲げ、三百六十度の回転を高速で走り抜ける。
急カーブや落下など、中々に激しいアトラクションなので、緒方のような絶叫系が苦手な人にはお勧めできない。遊園地で乗りなれている人には少し物足りないかもしれないが。
古代遺跡のアトラクションの近くは、如何にも南米や亜熱帯の密林などを髣髴させる作りで、写真を撮れるスポットも多く、五人は変わる変わるフレームに収まった。
当然ながら、アキラはばっちりヒカルのみを撮っていたが。
インディの傍には映画にも登場した小型飛行機もあり、内容を知る人には中々嬉しい演出だ。何故日本にもあるもう一つのテーマパークに、同じ映画のアトラクションがないのか少し不思議である。
ル○カスとスピルバ○グという、二大巨頭が手がけた映画なだけに、配給元の大人の事情を持ち出しては、夢の国では元も子もない。
何はともあれ、アトラクションは楽しければよいのだ。








