中に一歩入ると甘いバニラの匂いや洋酒の匂いがふんわりと漂ってくる。今年一番の寒気という冬の寒さも店内の暖房には
些かも感じることはなかったが、ケーキの入ったショーケースは雪が積もったようにアレンジして可愛らしい。
アキラが店に入ると同時に、市河と同年くらいの店員がにっこりと笑って「いらっしゃいませ!」と元気よく声をかけてきた。
思わずこちらも笑顔を向けたくなるような女性店員の挨拶にアキラも微笑み返し、ショーケースの中を見やった。
こういった店には余り足を踏み入れることのないアキラだが、母に付き合って何度か一緒に買いにきたり、研究会のお菓子用
に買いに行くのを頼まれたりもすることがままある。その為か免疫もできている。
入るのも苦手ということもなく、躊躇もない。それだけでなく、ケーキを見る眼も意外に肥えていた。
クリスマス仕様でブッシュ・ド・ノエルや、マジパン細工のサンタクロースやトナカイの乗ったショートケーキなど、様々な種類の
ケーキがある。オーソドックスなものは勿論のこと、小さな店舗でしている割には凝った作りのものが多い。
クリスマスなのだからブッシュ・ド・ノエルが定番だろうが、これだけにすると口が飽きてしまいそうだった。さすがに二人で1ホー
ルはきつい。ピースに切り分けたケーキが幾つかあれば十分だろう。アキラはそう判断して、ヒカルの好きそうな生クリームの
たっぷりとのったケーキと自分が食べられそうなケーキを数個選んで店員に告げた。
店員はにっこりと微笑んでアキラの指定したケーキをバットに載せ、手早く箱に詰める。
「お持ちになる時間はどのくらいですか?」
「10分もないと思います」
箱を持って尋ねてくる店員に答えると、彼女は何かに気付いたようにアキラの顔を見詰めて、懐かしそうに眼を細めた。
「アキラ君、大きくなったわねぇ…。凄く格好よくなってたから分からなかったわ」
「……え?」
勘定を済ませようと財布を取り出したアキラは虚をつかれ、一瞬眼を丸くして問うような眼差しを彼女に向ける。
「…最後に会ったのってもう二年以上前だから…アキラ君まだ小学六年生だったしね、無理もないか。晴美の同級生で、何回
か碁会所にも顔は出してるのよ?ここ最近はご無沙汰だけど」
肩を竦めて話す彼女を見詰めて、アキラは自分の記憶を探った。どうやら彼女は市河の友人らしい。
興味のある相手とそうでない相手と徹底的に記憶力が違うアキラだが、意識の奥にある記憶を呼び起こす作業は実に素早い。
これも長年、塔矢行洋の息子として生きてきたからこそ、培われた技ともいえる。どうでもいい相手は素早く忘れても、必要とあ
らば咄嗟に相手の顔と名前が出てくるのだ。
尤も、必要と判断しなければ「誰だっけ?」で済ませてしまうのだが。
「…すみません、気がつかなくて。まさかここでお店を開かれているとは思いもよらなかったものですから。確かパティシエ修行で
ヨーロッパに留学されていると聞いていましたが…日本に帰ってこられてたんですね」
アキラがにこりと微笑んで答えたのに、彼女は嬉しそうに破顔する。
「急に声をかけて驚かせちゃってごめんなさいね。二年前はお店の準備に一時帰国しただけだで、ここには一年半くらい前から
お店を出してるの。晴美ったら碁会所用のお菓子も買ってくれるからちょっと心配で…碁会所ってご年配の方が多いから口に合
わないんじゃないかと思って…。最近なんて、アキラ君と仲のいい友達が来るようになったからってケーキまで買い込むし」
彼女は嬉しさ半分、心配半分と複雑そうな表情で語るが、アキラはというと、なるほどだからケーキやクッキーなんかも出るよ
うになったのか、と妙に納得した気分になった。彼女が店を開いた頃から、碁会所には和菓子の他に軽い系統の洋菓子も登場し
ていて時期的にも当てはまる。以前にアップルパイを市河が出してくれた時も、きっとここで購入したのだろう。
「碁会所では美味しいって皆喜んで食べてますから、大丈夫ですよ」
お愛想ではなく、本当に誰もが自然に食べている。和菓子が好きだという北島もここのクッキーは褒めていて、店の場所を市
河に聞いていたのを思い出した。脂臭さもなくさっぱりとした味わいの軽い歯ざわりのクッキーで、確かに美味しかった。
「だったらいいんだけど…。あら!ごめんなさい、引き止めちゃって。これおまけね」
アキラの言葉に彼女はほっとしたような笑顔を浮かべると、箱を入れた袋にクッキーの包みとフィナンシェを数個入れる。
「あ、…でも…」
「こういう時は遠慮せずに御礼を言って受け取るもんよ。いい男になってきてるんだから、どっしり構えなきゃ」
慌てて断ろうとしたアキラに、悪戯っぽい笑みで軽くウィンクして手にそっと押し付けられた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとうございました。また来てね〜」
彼女の言葉を背に受けて、アキラは再び真冬の空気が頬を刺す世界に飛び込む。
さっきまではひどく鈍い足運びであったというのに、ヒカルにケーキを食べさせてあげたいと思うと、知らず歩調も早くなった。
ヒカルの笑顔は、アキラにとって何よりも幸せを運んでくれる。
好きな相手のことを考えながらケーキを選ぶ姿は、男にしろ女にしろ大して変わりはしない。瞳を輝かせて、恋人の好みやそ
の反応を無意識に考えるのは誰しも当たり前のことなのだ。それはアキラも同じである。
ヒカルのことを考えながらケーキを選ぶアキラは、誰もが見惚れるほどに綺麗だっただろう。
ただそれを眺めることができたのは、彼が今運んでいる数個のケーキとショーケースに残されたケーキ達だけである。
数分後、ヒカルの家の前までやってきたものの、アキラは再び多大な勇気を振り絞らねばならない結果となっていた。
ヒカルの家は、昨年の夏祭りの帰りに彼を送り届けに来たから知っているし、表札にもちゃんと『進藤』と表示されている。
だから間違えてなどいない。一番問題なのは、初めて屋内に入ることだった。
お陰で、アキラは呼鈴を中々鳴らせられずに玄関先で散々躊躇する羽目に陥っていた。洋菓子店からは普段通り颯爽と歩
いてきたのだが、いざ小さな門の前に来ると、とんでもない緊張感が押し寄せてきた。震える指先で押そうとするものの、押す
寸前に握り拳を作って止めてしまうという、何とも情けない行動を延々と繰り返している。
こんな時ばかりは、碁打としての自分の攻めの姿勢を見習いたいと思わずにはいられない。
ヒカルの両親に結婚の挨拶に来たわけでもなく、ただの友人兼ライバルとして碁三昧のクリスマスの為にここに居るのは分
かっている。赤いバラの花束を持って勝負服のようなスーツ姿で来ているのではなく、クリスマス用にケーキの土産を携えて
来ているのも理解している。それなのに、いざ玄関先で呼鈴を押そうとすると、勇気が萎んでしまうのだ。
アキラは時計で時刻を確認し、大きく何度も深呼吸を繰り返した。約束の時間の15分前を針は示している。ここでいつまでも
過ごすわけにはいかない。うろうろと様子を窺ってばかりいては、下手をすれば不審者に間違われて通報されても文句は言え
ないだろう。もう一度深く息を吸い込んでゆっくりと吐き出すと、アキラは再び呼び鈴に手を伸ばした。
躊躇して握ってしまいそうになる指先を叱咤しつつ、震える指に力を込めてボタンに触れる。ボタンは思った以上に軽くアキラ
の指を受け入れ、屋内で呼鈴が鳴り響く電子音が聞こえた。
同時に、ばたばたと走る音が玄関に向かって近づいてきて、ほどなくして大きく扉が開け放たれる。
「塔矢」
アキラを門の外に見出すと、ヒカルは嬉しそうに破顔した。
「意外と早かったな。入れよ」
招き入れられたアキラは「お邪魔します」と一声かけて玄関できっちりと靴を揃え、緊張した面持ちで玄関に立ち尽くしたまま
周囲を見やった。いつもヒカルはここで靴を履き、対局などに出かけるのだろう。そう思うと、自分も同じ場所にこうして居るの
が、嬉しいと同時に何だかくすぐったいような照れ臭さを感じた。
ヒカルはそんなアキラの様子にも構うことなく、彼の持つケーキの箱を目ざとく見つけて歓声を上げる。
「あ!ケーキ屋さんの箱だ!」
「え…あ、うん。折角だから買ってきたんだけど…もしかして用意してた?」
買ってきてから今更のように気付いたのだが、世間的にクリスマスだと家庭には必ずケーキがある。そうなると、ヒカルの家
にもある可能性が高いのだが、アキラはそれをすっかり失念していた。
ヒカルの両親が気をきかせて買っている可能性は無きにしもあらずなのだ。
「ううん。オレとおまえだけだから、ケーキなんて買ってねぇよ」
ヒカルがさらりと答えるのを聞いてアキラは内心ほっとしながら、彼の手にケーキと菓子の入った袋を渡す。
「なあ、なあ、見てもいい?」
「どうぞ」
幼い子供のようにわくわくとした顔で尋ねるヒカルに小さく笑って頷いてみせると、ヒカルはアキラを連れて台所にいそいそと
入り、早速ケーキの箱をテーブルに置いて開けた。
「うまそう!六つも買ってきてくれたんだ」
「多いかとも思ったんだけど……キミなら二つくらいは食べそうな気がしたから…つい」
ヒカルはアキラの弁明のような言葉も耳に入らない様子できらきらと瞳を輝かせ、一つ一つのケーキを上から順繰りに眺め
ている。その姿に、アキラは胸を撫で下ろす。これだけ喜んでくれるのなら、買ってきた甲斐もあるというものだ。
「食べていい?」
まるでおあずけをされている子犬のように、うるうるとした眼でヒカルに上目遣いに見上げられて、「食べちゃダメ」などと無情
な台詞を言える人間が居るだろうか?居るはずがない――というか、少なくともアキラには口が裂けても言えない台詞だ。
むしろ反対に自分が食べたくなってしまうような愛らしさに心臓を撃ち抜かれ、動悸・息切れ・眩暈を覚えるほどである。
呼鈴を押す時は動かなかったくせに、こういう時だけ咄嗟に伸びてしまいそうになる腕を理性を総動員して押え込み、アキラ
は表面上だけは穏やかににっこりと笑みを浮かべてみせた。長年培われた外面の良さにこんな時は感謝したい気分である。
「勿論だよ。キミの為に買ってきたんだから」
「やったー!二つ食べようっと!」
(……いきなり二つなのか)
ひとまず一つだけ食べておかわりに二つ目を食べるのではなく、掴みから二つとは恐れ入った。今後知り合うことになるどこ
ぞの関西人のように、思わず冷静なツッコミをアキラは入れてしまう。
いくらおやつ時とはいえ二つも食べるとは驚きだが、ヒカルは平然としたものだ。
「何にしようかな〜…紅茶もいいけどコーヒーの気分だな」
お湯を沸かしてインスタントコーヒーを作るヒカルを、アキラは立ち尽くしたままぼんやりと眺める。こんな風にヒカルと一緒の
空間に、一晩だけでも過ごすのかと思うと、やはり嬉しくて幸せだ。
一人幸せをかみ締めて感動するアキラをよそに、ヒカルは屈託なく笑って尋ねる。
「塔矢も食う?」
「え?あ…いや、ボクはいいよ」
お目当てのケーキを二つ取り出し、愛らしく小首を傾げるヒカルの姿に我に返り、慌てて辞退した。今から食べると胃もたれし
そうだし、それに夕食も入らなくなるかもしれない。
ヒカルに付き合えないのは残念だが、夕食後にも恐らく食べるだろうから、その時の方がずっといい。
「ふーん、じゃあ二階で食おうぜ。おまえコーヒーに砂糖とかミルクは?」
「砂糖はいいよ、ミルクだけで」
「オッケー」
ヒカルはアキラに頷いてみせると、コーヒーに牛乳をたっぷりと入れたマグカップを二つとケーキを盆に載せ、先に立って台所
を出た。アキラが着いてくると確信しているからか、声もかけずに階段を調子よく上がり始める。
その行動に一瞬奇妙な感覚が胸に去来したものの、それが何かはアキラには分からなかった。
大抵は初めて訪れた友人などに対して、こっちだと声をかけてから上がるものだ。だが、ヒカルは誰かが必ず着いてくると分か
っているような行動をしている。そんな些細な行動に違和感を覚えたアキラは、意味が分からずとも勘がいいのだろう。
これからヒカルの部屋に上がるのだと思うと、一瞬感じたものなどすぐに流されてしまう。彼がどんな生活をしているのか、それ
を垣間見ることができるのだ。こんな風な時間を過ごしていくうちにヒカルとの距離はもっと縮まるに違いない。
アキラは高鳴る胸の鼓動を感じながら、ヒカルの後ろについて無言のまま階段に足をかけた。