気がつくと外は真っ暗になり、世間一般ではもうすぐ夕食をとる時間になっていた。
アキラは英語の問題集の最後の答えを書き込むヒカルの頭を見ながら、この数時間を振り返る。
ヒカルの部屋に上がってからは、ケーキを美味しそうに食べるヒカルと他愛もない話をしながらゆっくりとコーヒーを飲んでいた。
学校や手合いのこと、囲碁イベントのことなど、内容は様々である。その時の流れで一緒に囲碁イベントに行く約束をとりつけた
りもできたので、アキラとしては中々にいい結果を残せていた。
ヒカルが用意してくれたと思うとインスタントでも美味しく飲めるのだから現金だが、ベッドを背もたれ代わりにして寄り添って過ご
しながら、こんな風にのんびりと話せたのも久しぶりだったのだと改めて感じたものだ。
最近は手合いが一緒になると、帰りに碁会所で打ったり検討をすることが多いだけで、ヒカルとゆっくり話せていなかった。確か
に検討をして打ち合うのは充実している。けれどヒカル個人と言葉を交わしたのは随分と少ない気がした。
そうして考えてみると、ヒカルから一方的に告げられた「碁会所に来ない」という言葉も、裏を返せば「碁打でないヒカルと会う」機
会を与えてくれるきっかけとして、ある意味恵まれたともいえるだろう。囲碁イベントだけでなく、映画などにも行けるようにさりげな
くヒカルの好みをリサーチしておいたので、今後の参考にして誘うのも悪くはない。
そのうちに話題が冬休みに出された宿題になり、後はずっと家庭教師よろしくヒカルの課題を手伝っていた。
結局、碁三昧のクリスマスどころか、ヒカルの家に着いてからアキラは全く碁石を握っていない。
だがそれが不満だとは少しも感じなかった。ヒカルとこうして一緒に居られることが、何よりも楽しい。
こんな風に、碁とは関係なしにヒカルと過ごすのもとても幸せだった。
最終問題を解いたヒカルの答えを確認して頷いてみせると、ヒカルは椅子に凭れて大きく伸びをする。
「あ〜疲れた…腹減ったなぁ……」
「そろそろ夕食の時間だよ、今夜はどうするの?外食とか?」
一人ごちるヒカルに尋ねると、今初めて夕食のことを知ったようにきょとんと瞳を見開いた。何となくだが、嫌な予感がする。
果たして、アキラの予感通りにヒカルは誤魔化すように曖昧に笑った。
「へへへ…晩飯のこと考えてなかった」
「そうか…」
半ば脱力しながら今後の方策を練ってみる。今から外食にするか、それともデリバリーなどを頼むかだが、どちらにしろかなり
待たされることになりそうだ。何といっても今日はクリスマスイブである。どこも大混雑しているに違いない。
待たされた挙句に不味いものを食べさせられるのもうんざりする。予め知っていればどこかのレストランに予約でも入れておく
ように手配をしたが、ヒカルの自宅に招かれているのにそんな勝手な真似をするわけにもいかなかった。
とはいえ実際のところ、こんなイベントのある日で一番てっとり早いのは、自宅で食事を済ませてしまうことだ。
ただ、人様の家の台所を借りて夕食を作るのも、多少なりともアキラとしては抵抗がある。何故なら台所は主婦の聖域だから
だ。他人が勝手に押しかけて、余計なことをするわけにはいかないだろう。
アキラは最初からヒカルに作ってもらうという点は考えてもいない。どのみち「無駄」であることと「無理」なことが分かっている
からだ。そんな恐ろしい真似をさせるくらいなら、自分が作った方がずっといい。
包丁もろくに握ったことがない、洗濯もしたことがない、掃除は基本的に自分でするが皿洗いはたまにしか手伝わないというよ
うに、アキラが半分一人暮らしをしている現状を知ったヒカルが語った言葉が、紛れもない真実であるのは想像に難くない。
ヒカルに怪我をさせるなんてとんでもないことだ。それにどんな恐ろしい物体Xを作るか考えるだけでも恐ろしい。
お米を洗う時には洗剤を使うの?なんて台詞を吐く人間に料理を作られるほど怖いものはない。
「どうする?進藤。今から外食だと結構待たされると思うよ」
「そうだよなぁ…イブだし絶対待つ羽目になるよな。腹減ってるし待つの嫌だもん、オレ」
「じゃあ何かデリバリーでも頼む?」
「それも結構待つじゃん。オレは腹減ってんの」
お腹がすいて苛々しているのか、ヒカルは短気になってきている。余り待たされると癇癪もおこしかねない。不貞腐れたように
唇を尖らせるヒカルを見下ろし、アキラはどうしたものかと小さく息をついた。
「しゃあねぇ、冷蔵庫漁って何か適当に食おうぜ」
しかしヒカルはそんな事など知ったことではなかったらしい。アキラの意見も意思もお構いなしに勝手に決めると、さっさと椅子
から立ち上がって台所に向かう。内心アキラはヒカルの母である美津子に平謝りしつつ、一つの覚悟を決めたのだった。
クリスマスイブの進藤家の台所は、まるで某国営放送の料理番組のようなオープニングミュージックと「若先生のお料理教室」
というタイトルが掲げられそうな様相を呈していた。
今現在、アキラはエプロンをつけ、ヒカルを背後に従えて夕食作りに励んでいる。
あの後の流れで、結局二人は冷蔵庫のものを使って夕食を作って食べる、ということになったのである。
しかし問題が一つあった。それはヒカルだ。
というのも、予想通りといおうか当然といおうか、或いは必然とも言うべきか、ヒカルは全く話にならないほどに料理に関してダメ
だったのである。アキラもそんなに料理ができるわけではないが、さすがにしばらく一人でしているとだんだん慣れてもくるし、芦
原がちょくちょく顔を出しては色々と教えてくれたりもする。
お陰で随分と料理は上達したと自分でも思える。少なくとも一人で作って食べる分には不自由はしない。
だが、ヒカルはどうしようもないくらいにお話にならなかった。最初に冷蔵庫を開いて見た彼の台詞を、アキラはその後しばらく
忘れることができなかったほどに、大層ひどかったのである。
「なあ…このキャベツとレタス、サラダにしねぇ?」
「……進藤、それはキャベツじゃない、白菜だ。因みにキミがレタスと言った野菜はキャベツだよ」
「えっ!?そうなの?」
この瞬間、アキラはヒカルに対して戦力外通告を行いたいと本気で思った。だがしかし、ここは進藤家の台所である。例え野菜
の区別がつかないある意味役立たずなヒカルであっても、ないがしろにするわけにはいかない。
だからといって、いくらなんでも、キャベツとレタスと白菜の見分けくらいはついても罰は当たらないだろう。更に人参と大根の区
別までもがつかないとなると、どうしようもない。人参と大根なんて、形も色も大きさも全然違うというのに。
野菜選びすらもろくにできないのであっては、肉や魚など問題外だ。到底無茶な話である。
心で滂沱の涙を流しながら、アキラはこんな時ばかりは用意のいいヒカルからエプロンを受け取り、他家の冷蔵庫を覗く羽目に
陥ったのだった。気合を入れるようにヒカルからゴムを受け取って髪を括り、アキラはいざ冷蔵庫を開けた。
「このハムとキャベツとレタスを使ってサラダにしよう。他には…スープがあるからこれを温めたらいいんじゃないかな?」
「へぇぇーそれで?なに作んの?」
期待に満ちた眼で見つめられ、アキラはヒカルを振り返って園児にご飯を作る保父の気持ちで優しく尋ねた。
「進藤は何が食べたい?」
「チキンライス!歌流行ってるじゃん!けどオレとしてはオムライスがいいけどさー」
「ああ、そう…」
能天気なヒカルにアキラは曖昧に頷きながら、それでもリクエストに応えるべく冷蔵庫の肉などをしまう氷温室を開ける。鶏肉は
幸いにもある。野菜室には人参とトマト、きのこ類もあった。炊飯器を見るとご飯も保温されて残してあり、他にも常温でしまう収納
庫には玉葱もあったので、材料ならちゃんと揃っている。
アキラは早速湯を沸かしてトマトを湯剥きし、ヒカルに手ごろな大きさにスプーンで切っておくように頼んで、野菜を刻み始めた。
ヒカルに渡したトマトとは別に確保しておいた分は手際よく扇形に切ってしまう。
それからレタスを適当に千切ってサラダボールに入れ、千切りにしたキャベツとハムに、彩りよくトマトを載せれば即席サラダの
出来上がりだ。後は食べる時にドレッシングでもマヨネーズでも何でも適当にかければいい。
赤玉葱やピーマン、胡瓜などがあればもっと良かったろうが、他人の家でそう贅沢を言うわけにはいかないだろう。
切った鶏肉を軽く炒めて一旦皿に移し、その油を使って人参や玉葱、キャベツなどの野菜やきのこを味付けをしながら炒める。そ
こにヒカルが潰したトマトも加えて混ぜた後、ご飯を入れて味付けをした。最後に鶏肉も加えて混ぜ、ヒカルには味見をして貰う。
「もう少し塩味が濃い方がいい」
小皿に盛ったチキンライスを食べて、まるで厨房を取り仕切るシェフのようにお言葉を下すが、ヒカルがしたことといえばトマトを切
ったり小皿を出したりしたくらいだ。だがアキラは気にした風もなく素直に頷く。
「分かった」
ヒカルの要望に応えて少しだけ塩を加え、もう一度味見をして貰ってOKが出ると火から下ろした。
次は卵を割ってオムライスにするべく準備を始める。デミグラスソースを作る暇もないし手間もかけていられないから、ストーブに
かけた湯にパック入りのデミグラスソースを放り込んで暖めておくのも忘れない。
アキラの手際のよさに、チキンライスを深皿に不器用に盛り付けていたヒカルは眼を丸くしつつも、まるで小さな子供のように瞳を
輝かせて見入っていた。
背後からしきりに覗き込んでくるヒカルの姿に苦笑して、たっぷり使った卵を掻き混ぜながら火を通していく。
ヒカルが盛りつけたチキンライスにアキラが卵を載せて箸で真ん中を割ると、とろりと溶けるように広がった。
「うわっ!何かスゲー」
「芦原さんに教えて貰ったんだ」
ヒカルの感嘆の声に小さく笑い、パックのデミグラスソースも皿に流し込む。簡単に作ったものでも、一応これで一つ目は出来上
がりだ。アキラは同様の手順で二つ目のオムライスを仕上げると、暖めたスープをよそってヒカルに渡す。
全てを終えて席に着くまでにかかった所要時間はおよそ一時間ほどだが、中学生の男子が作ったにしては上出来だろう。
アキラがゴムを髪から外してヒカルの正面に腰を下ろすと、二人揃って「いただきます」と手を合わせたので、思わず笑ってしまっ
た。メリークリスマスと声をかけるのではなく、いただきますという言葉がひどく庶民的で日常的な雰囲気を醸し出す。
「うまい!塔矢って料理上手だな」
オムライスを頬張って幸せそうに笑うヒカルに、アキラは少し照れ臭さを感じながらも笑みを返した。アキラにとっては手料理など
どうでもよくても、褒められて嬉しくない筈がない。それが好きな人であったら尚更だ。
ヒカルは勢いよくサラダを平らげ、ふと思いついたように席を立ち上がる。
「進藤?」
アキラの怪訝そうな声も無視して、冷蔵庫を開けてカラフルな銀紙に包まれた瓶を取り出して得意げに振り返る。
「いいもん思い出したんだ。クリスマスらしくなるし、これ空けようぜ」
ヒカルが冷蔵庫から出したものは、子供用のシャンパンであるシャンメリーだった。炭酸のきいたノンアルコールのジュースで、
子供のいる家庭ではクリスマスや誕生日によく使われている。
ヒカルに瓶を手渡され、アキラは銀紙を剥がして瓶の口を天井に向けた。
「蓋が飛ぶから気をつけて」
用意よく足つきの細長いシャンパングラスを持ったヒカルが頷いたのを確認し、蓋に指をかける。
ポンッ!と、こういった祝日に相応しい景気のいい音が狭い室内にこだまし、床に天井から跳ね返った蓋がころりと落ちた。
グラスにシャンメリーを注ぐと、それだけで奇妙なほど雰囲気がクリスマスらしく感じるのは何故だろう。
「メリークリスマス」
どちらからともなくチンと軽やかな音を立ててグラスを触れ合わせると、微笑みあう。
たった二人きりでも、テレビなんて観なくても、十分に賑やかで楽しい夕食のひと時だった。