扉を些か乱暴に閉じ、鍵をしっかりかけると、ヒカルはベッドに飛び込むように寝転がった。身体をうつ伏せの体勢にして、枕に顔を埋める。
どきどきと激しく脈打つ心臓の音が、耳にこだますようだった。
ヒカルは赤くなった頬に手を当て、その指を見詰める。ついさっき、アキラの手がこの指に触れたのだ。指先からアキラの熱が伝わってくるようで、ヒカルは
より一層いたたまれない気持ちになる。アキラの顔をまともに見られない。
彼を少し視界の隅に捉えただけで身体が熱くなり、自分でもどうすればいいのか分からず混乱する。本当に自分はどうしたのだろう。
ほんの数日前までは、まるで平気だったのに。
もっと一緒に居たい、触れ合いたい、抱き締めて抱き締められたいと思うのに、気がつけば身体が逃げ出してしまっている。
初めて出会った南米の遺跡で、アキラと想いを確かめ合ってからだ、こんな風になったのは。
あの美しい祝福の音を奏でる場所で、アキラと初めてキスをした。
身体中が熱くなって胸もどきどきして、唇が離れてからも頭がふわふわしたままで、何も考えられなかった。
ヒカルはそっと自分の唇を指で触れてみる。キスをしていた間、アキラを身近に感じられて凄く安心できて幸せだった。それでいて身体の奥に火が点いたよう
にだんだん熱くなって、とても気持ちよか―――。
(うわー!今のなし!なしだってばっ!)
ヒカルは首筋まで朱に染めてベッドの上をごろごろ転がる。一頻り一人で大騒ぎし、散々枕を叩いたりしてからやっと動きを止める。
すっかり乱れてしまった髪を手櫛で直し、ふかふかの羽根枕を抱き締めてぼんやりと天井を見上げた。
アンティークのランプがそこにはかかっている。ランプといっても油をさすものではなく、中に電球を入れるタイプのものだ。今夜は珍しく電気が供給されてい
るようで、古い趣のあるランプからは柔らかな光が降り注いできていた。これはアキラと以前買物に行った時に、偶然ガレージセールで見つけたものだった。
それまでヒカルの部屋にはろくな照明器具がなかったこともあり、アキラはヒカルの為にランプを買うついでに、他にも幾つかのアンティークランプを購入していた。
この家も含めて、街全体の建物が意外と古くに建てられたこともあって、アンティークの家具や調度品、ランプは雰囲気的にとても馴染んでしっくりする。
今思い起こすと、ヒカルが当初来た頃はアキラ一人しか住んでいなかったこともあり、必要最低限使用する部屋にしか照明器具は取り付けず、他の部屋には調
度品の一つすらなかったのだ。ヒカルが住むようになってから、使う部屋も次第に増えていった現われだったのだろう。
ヒカル専用の部屋、二人で寛ぐ居間、図書室、研究室…他にも。
二人で過ごす時間が増える度に、活動する場も増え、それに比例して彼は照明器具を取り付け、家具を入れていった。
あの当時は二人でランプを取り付けるのに大騒ぎして喧嘩もしたけれど、毎日が楽しくて充実していた。
今だってヒカルはアキラと一緒に居ると楽しい。ただ、彼の傍に居ると、つい初めての口付けを思い出して身体が熱くなり、どうしようもなく焦ってしまうだけで。
再び頬が火照りはじめてきて、ヒカルは枕を頭に載せてシーツに顔を沈める。胸は相変わらず早鐘を打っていた。
耳を塞いでも、鼓動の激しさは直に伝わってくる。折角おさまってきたというのに、今まで以上に熱くなってしまってどうするのだ。けれどアキラのことを考えて、そし
て遺跡でしたキスのことを思い出すとどうしてもそうなってしまう。自分の身体なのに、まるで言うことを聞いてくれない。
でも、いつまでもこのままでいては良くないのも分かっている。
ヒカルだってアキラが好きだ。だからもっと彼を身近に感じたいと常々思っている。しかしそれがヒカル的にはかなり難しい。
どんなに今日こそは!と奮起してみても、いざアキラを視界におさめると途端に身体が逃げ腰になってしまうのだ。
本当はキスだってしたい。手も握りたい。傍に居たい。
ぎゅっと抱き締めて欲しいとも思う。でも、アキラを見たら恥ずかしくて、照れ臭くて、慌てて逃亡してしまうのである。
好きで、好きで堪らないのに。アキラなしで生きていくことなんてできないと思うほど、心を奪われているのに。
ただ恥ずかしいだけでいざとなるとすぐに逃げてしまう。さっきアキラの傍から逃げ出した時も、彼はヒカルを見詰めて傷ついたような眼をしていた。
こんな事ではいつかはアキラに愛想を尽かされてしまうかもしれない。アキラだって、ちゃんと自分に対して素直に愛情を表してくれる相手がいいに決まっている。
キスをしたりするにしても、女の子の方がいいだろう。
アキラが自分に愛情を傾けてきているのも、一時の気紛れかもしれないのだ。同じ男なんて、普通なら興味も持たないに違いない。
ヒカルだってそうだ。何故かアキラのことは好きだが、これまでは女の子にしか興味は持たなかった。
アキラがこうしてヒカルに好意を持ってくれること自体、奇跡のようなものなのである。
もしも、アキラが他の人を好きになったらどうなるだろう。それを思うと胸が苦しくて痛くて、涙が出そうだった。
指先で半月型のペンダントトップをいじりながらぼんやりと思考を巡らせる。これはアキラと初めて出会った時に奪い合って、分かれた銀貨のようなものの片割れだ。
アキラも同じもの首にかけており、とても大事にしている。
このペンダントトップのお陰で、ヒカルはアキラと再会できたようなものだ。その偶然すらも滅多にあることではない。
今までの人生からして、出来過ぎともいえるほどにヒカルは運が良かったのである。拾われて育てられ、ましてや珍しい混血児ですれもせずに成長できたのは偏に
とんでもない運の良さだ。学校で苛められもせず、それどころか皆に慕われて仲良く遊んだし、近所の人もヒカルにとても優しく、可愛がってくれたのである。
どういう経緯か少しも覚えていないが、一人で居るところを佐為に拾われて育てて貰えた。ヒカルのような混血だと、この時代なら普通そのままのたれ死ぬのがオチ
である。例え運が良くても、一歩間違えればどんな人間がヒカルを引き取っていたのか分からない。
恐らくどの可能性でも、この歳まで生きることは殆ど不可能だっただろう。よしんば何とか食いつないでいたとしても、今のような幸せな日々は絶対に手に入らなか
ったに違いない。それが偶然にも、ヒカルを拾ってくれたのは、佐為のようにとても優しい人物だった。
しかもそれだけに留まらずヒカルの育った環境も非常に良かった。佐為の家族はヒカルに優しく、彼らは家族の一員としてヒカルを慈しんでくれた。進藤家に嫁入り
した佐為の姉の美津子は、ヒカルを引き取って息子として育ててくれたほどなのだから。
結果的には、佐為がヒカルの本当の両親を探したいと姉を説得し、ヒカルを連れて行ったのだが、彼女は息子同然に今もヒカルに愛情を注いでくれている。
アキラと衣食住を共にするようになって落ち着いた頃に手紙を出すと、血相を変えて夫婦揃ってスイスまで来てくれた。日本に帰ってこられないかと尋ねられたけれ
ど、ヒカルはアキラと暮らす方を選んだことを後悔していない。不安定な情勢だというのに、先日も日本から味噌や醤油や米を航空便で送ってくれて、随分と助かった。
アキラも懐かしい日本の味をとても喜んで、いつか一緒に二人の生家に行こうと言ってくれた。
これだけでも、アキラがヒカルを大切に想ってくれているのが伝わる。それは疑わない。
ヒカルは寝返りをうってランプを見上げると、枕から手を離して勢いよく身を起こした。頬を軽く叩いて気合を入れ直し、ベッドから素早く降りる。こんな時、男は行動ある
のみだ。そのまま部屋を出て薄暗い廊下を歩き、一つの扉の前で立ち止まった。一瞬どうしようか迷ったが、意を決して戸を叩く。
程なく内側で鍵を外す音が廊下に響いた。
ゆっくりと重厚な扉が開き、仄かなランプの明かりに照らされて暗い床から壁に向かってに光の線が走った。眩しさに眼を眇めながらも、遠慮がちな扉の隙間を見やる。
そこには見慣れたシルエットが浮き上がり、アキラが瞳を瞠って呆然と立っていた。
アキラはヒカルの訪問に内心驚きながらも、なるべく普段通りに見えるように冷静さを装って招き入れる。
二人とも風呂に入って寝るだけの状態になると、ヒカルは遅くまでアキラの部屋で碁を打ったり、喋ったりして一緒に過ごしたものである。だがそれも南米で想いを通
じ合わせるまでの話だ。ここ数日はそんな気配はおろか、二人ともろくに顔も眼も合わさずに就寝の挨拶をして、それぞれの部屋に閉じこもっていた。
今夜に限ってヒカルはまるで以前のようにアキラの部屋に来たが、それにしたってこれまでとは違う。いつもヒカルはノックなどしない。何よりもこんな思いつめた顔を
して来たことはなかった。しかし、ここで変にしゃちほこばってしまうと、ヒカルもアキラも余計に構えて、良い結果には結びつかない。
胸の内ではひどく緊張しながらも、アキラはいつものようにベッドの端に座る。ヒカルもそれに合わせてすぐ隣に浅く腰を下ろした。
ここまでは普段と変わらない。だが、そのまま会話もせずに押し黙って気まずい沈黙が落ちてしまうところはまるで違う。大抵は碁盤を出してきて打ち合ったり、最近
研究している遺跡や遺物のことを話す。けれど今夜は碁盤を出すような雰囲気でもなく、何か話そうにも二人して口を重くして黙ったままだった。
(このままではまずいな…)
重苦しい緊張感を何とか打開しようと、アキラは必死に頭の中で何か話題はないかと暗中模索する。
天才的と名高い優秀な頭脳を駆使してギリギリで見出したのは、雑貨屋で購入した香油瓶のことだった。
どうせなら今渡せばいいかもしれない。
「あ…あの、進藤……」
アキラは拳を緊張に硬く握り締め、もどかしい舌を必死に動かし、ヒカルに恐る恐る声をかけた。
「な…何……?」
一瞬びくりと身を竦ませながら、彼は上目遣いに見上げてくる。その仕草の愛らしさにアキラの胸がどきりと高鳴った。
近くに居ると、風呂に入ったばかりだというのに、ヒカルからはあの甘い香りが漂ってくる。その芳香を嗅ぐだけで頭の奥が痺れて蕩けそうなほどだ。
ギリギリで振り切れそうな想いを理性で必死に押し留め、アキラは殊更ゆっくりと尋ねる。
「進藤…キミはその…香水って好きかな……?」
最近の研究テーマは『支配の王錫は香水であるか否か?』であるから、質問としてはそんなにまずくはないはずだ。これの話の流れから、ヒカルにあの香油瓶を
渡せばいいだろう。計画としては悪くない…恐らくは。
ヒカルは怪訝そうに小首を傾げたものの、問の内容をアキラの考えた通りに解釈したようで、すぐに答えてきた。
「正直好きじゃねぇよ、香水って。だから『支配の王錫』もできたら香水とは違うのがいいんだけど」
「…え?……そうなの…」
ぎくしゃくと頷き返しつつ、アキラは硬直一筋である。いきなり当てが外れてしまった。
てっきり香水好きだと思っていたのに、嫌いだったとは。
だが、それにしては随分とおかしな話だ。ならば何故、ヒカルはいつも香水をつけているのだろうか?
素朴な疑問は、そのままヒカルに自然とぶつけられる。
「…キミはいつも香水をつけているだろう?それでも嫌いなの?」
「はあ?オレは香水なんかつけたことねぇぞ」
アキラは驚いて何度も瞬きを繰り返し、まじまじとヒカルを見詰めた。胡乱げに自分を見やるヒカルの態度に嘘はない。
かつがれたわけでも冗談でもなく、ヒカルは香水をつけたことがないのだ。
「そうだったのか…すまない、勘違いして」
口では謝りながらも、頭の中で疑問符を並べて考える。ではこの何とも不思議で芳しい甘い香りは何なのだろう?
まるで咲き誇る花のように華やかで、気高い気品に満ち、どこか凛とした威厳すらも感じるのに親しみやすさを覚える、甘い中にも爽やかさのあるこの魅惑的な芳香は。
(まさか…進藤の体臭?この香りが?)
アキラは自分の導き出した答えに驚愕し、声も出せずに唖然とした。こんな事は滅多にあり得ることではない。
普通男の身体からは、芳しく心地の良い匂いはしない。男は女性よりも体臭がきつく、どちらかというと鼻につく不快な匂いであることが多いのだ。女性ならばまだ納得
できるが、それにしたって滅多に居るものではないだろう。身体から花のように芳しく、人の心を魅了するような香りを放つ人間なんて、今まで見たことも聞いたこともない。
だがよくよく考えて思い出してみれば、ヒカルと初めて会った時も、アキラは花のような甘い匂いを嗅いだのである。
もしかしたら、あれもヒカルの香りだったのかもしれない。いや、間違いない。出会った遺跡内部には花など一輪も咲いていなかった。あそこで甘い香りがしたのなら、
それはそこにヒカルが居たからに違いない。
「オレってさー、ガキの頃から結構いい匂いがするってよく言われるんだ。もしかしたらそれかもしれねぇぜ」
問うまでもなく当のヒカルからも肯定の意味で答えを出されて、アキラは改めて納得した。ヒカルはえもいわれぬ芳しい香りを放つ、少しばかり特異な体質の持ち主
なのである。だがそれをきっかけにして、二人はこれまでの時間を埋めるように、言葉を交わし合い始めた。
気がつくと夜も更け、随分と遅くなってしまっている。古い壁掛け時計が控えめに告げた時間に、ヒカルは寂しげに瞳を揺らして、アキラをこっそりと見やった。
アキラはいつもこの時刻になると、ヒカルにそろそろ寝ようと告げる。どんなに駄々を捏ねても、早く寝ろと言われてしまう。
アキラがヒカルの部屋に来る時もそうだ。何度引きとめようとも、眠くもなさそうなのに「眠いから」と告げてさっさと出ていく。
ヒカルとしてはアキラともっと一緒に居たいと思うのだが、彼はその名残惜しさも断ち切るように、就寝の挨拶を告げるのだ。
しかしヒカルはアキラの行動の真の理由を知らない。アキラにしてみれば、ヒカルが余りにも部屋に居過ぎると手を出しそうになって困るからなのだ。自分自身でボー
ダーラインを引き、区切りをつけないと理性がもってくれそうにない。
ヒカルはアキラがいつ帰れと言い出すか不安に思って構えていたが、今夜に限って彼は何も告げずに、時計へとゆっくりと視線を移すと徐に立ち上がる。
そんなアキラをヒカルはぼんやりと眼で追った。アキラは敢えてヒカルの眼を見ずに、腕を掴んで優しく椅子から引き起こす。その行動で自分を部屋から出そうとする
意図を感じて、わけもわからずヒカルは泣きそうになった。アキラは無言のまま、嫌がる素振りを見せるヒカルの手を引いて扉まで連れて来ると、扉を開けて振り返る。
声をかけて穏やかに諭す余裕は既になかった。今すぐにでもヒカルを視界から出さないと、強引に全てを奪いそうになる。
自分の欲の深さも、想いの激しさも、よく分かっている。だからこそ、何も言わずにヒカルを自室から出そうとしたのだ。
「…なんで?」
けれどヒカルにはアキラの躊躇いも、熱く滾る想いも伝わらなかったのだろう。ひどく悲しげな瞳で見詰めてくる。
見上げてくる小さな顔に、口付けたくて堪らない。薄手のシャツから見える細い肩を、華奢な身体を、折れるほどに抱き締めたい。
このままヒカルの全てを自分のものにしたかった。
理性を総動員して自分の意思に逆らおうとする手を叱咤し、ヒカルの手首から指を懸命に引き剥がす。これ以上触れていたら何をしてしまうのか、自分でも歯止めが
きかない自信があった。時計の音を聞いて時間に気づいたのは、運が良かったといえる。
気づかなければ、きっとアキラは無垢なヒカルを部屋に返さずに抱き締めていたに違いない。
「…おやすみ」
ヒカルの問いに答えずに告げたアキラを、呆然と見詰めた。
アキラの眼は飢えた肉食獣のように炯々と輝き、獲物に狙いを定めるかのごとく鋭く光っている。だが、正直な眼とは相反してアキラはヒカルを自分の傍から離そう
としていた。しかし、ヒカルにはアキラの想いが痛いほどに分かった。
何故ならアキラの黒い瞳が全てを物語っている。
アキラはヒカルが欲しくないわけでも、好きでないわけでもないのだ。むしろ、凄まじい飢餓状態に身もだえ、気が狂いそうになりながら、自分を押し留めている。
何の為に?そんな事は決まっている。ヒカルの為だ。
アキラはヒカルの為だけに、狂おしい想いに蓋をして我慢しようとしているのだ――愛しいからこそ。
ヒカルにはアキラが何を求め、何を欲しているのかは分からない。
だが自分が与えられるのならばどんなものでも与えたい。アキラが望むのなら、自分の全てを彼に捧げても惜しくはなかった。
でも代わりに、アキラの全ては自分のものだ。誰にもくれてやらない。アキラはヒカルだけの存在だ。その命も何もかも。
ヒカルは淡白な性格をしていても、その実、心から欲しいと思ったものに対しては貪欲だ。そう、魂から求める相手であるアキラだけは、何があっても手放せない。
ヒカルにとってもアキラは唯一無二の存在なのだ。実際、その後の人生でもヒカルが欲したのは、ただ一人アキラだけであった。
他に欲しいものなどない。ヒカルが真に望む存在は目の前に居る。
「塔矢…オレ…」
アキラはヒカルの言葉を遮るように首を左右に振り、無言で出て行くように促した。これ以上自分を抑えられないのだ。
ヒカルが欲しいと思うのは真実だが、何も知らない無垢で純真な相手をどうこうするなど、外道が行う非情な行為だろう。
何よりも、アキラにとってヒカルは愛しく大切で、どんなものよりも優先すべき一番大事な相手なのである。もう少しヒカルがこういった事にも理解できるようになった
ら、その時に肌を重ねればいい。アキラとて中途半端な知識しか持たない半人前で、下手をしたらヒカルを傷つけかねないのだから。
もの言いたげに唇を震わせたヒカルは、断りもせずに扉を閉めようとするアキラを見て、固く口元を引き結んだ。
勝手な真似などさせない。そんな事は赦さない。アキラが思っているほどヒカルは初心なわけではないのだ。
確かに性の知識は乏しい。殆ど知らないと言ってもいいだろう。
以前生活に困窮し、身体を売って生きていこうかと考えたこともあったが、その時だって分かっていたわけではない。
身体を開くことで金を得られるという程度の知識である。ただ、佐為から絶対それだけはしてはならないと、何度も言い聞かされていた。ヒカルの持つ矜持もどこかで
それを拒否し、幸いにもそのままアキラのところに来ることができた。だから、何をどうするかと聞かれても、答えられないのは明白だ。
だが知識は追いつかなくても魂と本能は理解している。自分の心も身体も、アキラを求めているのだから。
アキラが相手ならばヒカルは何をされてもいい。
ヒカルは扉の間に足を素早く差し入れ、身体全体を使って閉め出されるのを塞いだ。アキラが驚いた顔をしたのも委細構わず、胸倉を掴んで引き寄せると、虎が獰猛
に威嚇するように鋭い眼で睨みつけながら自ら口付ける。
アキラの唇はとても柔らかくて熱かった。胸が高鳴り、身体から力が抜けていく。少し触れただけで甘い酩酊感に意識が朦朧とした。
ただ押し付けるだけの幼い口付けであったが、アキラの理性の糸を断ち切るのには十分過ぎるほどの効力だった。
温かい腕が背中に回される。身体ごとアキラに引き寄せられた。最初触れるだけだった口付けが徐々に深くなり、膝から力が抜けて立っていられないほどだった。
口内に温かい舌が潜りこんでくる。歯列を舐め上げられ、奥に縮こまるように逃げた舌が吸われた。絡み合わせながら甘噛みされると、背筋にぞくりとした奇妙な感
覚が走っていく。唇が離れてもすぐにはヒカルの思考能力は戻らなかった。頭の芯が痺れて、蕩けたように纏まらない。
膝ががくがくと震えて、アキラに支えて貰わなければ、まともに立つことすらできなかっただろう。
とろりとした潤んだ瞳でアキラを見上げ、無意識に肩口を力の入らない手できゅっと掴む。まるで引き離されることを拒むように。
アキラはヒカルを見詰めながら、熱い呼気を吐いた。微かに色づいた柔らかな唇、腕に心地よくおさまる華奢な肢体、温かな体温、立ち上ってくる魅惑的な甘い体臭。
全てがアキラを誘っているかのようだ。誘惑に抗おうとしても抗えない。今からでも何とかできないかと思っても、身体はアキラの意思を固く拒んで動こうとしなかった。
下手に触れたら手放せないと分かっていた。だからこそ自分を抑えていたというのに、ヒカルからキスをされたりしたらもう駄目だった。我慢などできるはずがない。
ヒカルを離そうと頭では考えても、反対に抱き締める腕を強くしてしまう。これ以上依怙地になっても無駄なのだと、アキラは受け入れざるを得なかった。
どう足掻こうともヒカルを求める想いは真実なのだから。
「……進藤…キミが好きだ」
「うん…オレも…」
ヒカルはアキラの腕の中で上目遣いに見上げると、気恥ずかしげに頬を染めて、素直に頷いて微笑んだ。魂まで奪われそうな綺麗な笑顔に見惚れながら、アキラも
嬉しそうに笑い返し、今度は軽く啄ばむように触れる。もう我慢などしない。これからヒカルの全てを自分の手に入れる。
ヒカルの細い腰をさりげなく引き寄せて、アキラが部屋に戻ろうとした途端、胸に手をつかれてするりと身体が離れた。
一瞬、何が起こったのか判らず、廊下に立つヒカルを見詰める。何故こんなにも距離が空いているのか、理解に苦しんだ。
相当面食らった顔をしてしまったのだろう。アキラが呆気にとられて硬直していると、ヒカルが首筋まで真っ赤にして見上げてきた。
潤んだ瞳が扇情的に輝いて美しく、もう一度口付けたくなる。
「…あの……オレ、シャワー浴びてくる!」
ふざけるな!こんな時に何故シャワーなんだっ!と怒鳴る余裕もなく、伸ばしたままの腕を所在無く宙に浮かせた状態で、アキラはさっぱり意味が分からず首を傾げた。
「……えーっと、その…さっきお風呂に入ってなかったか?」
「う、うっせーな!ちょっと汗かいたんだよ」
事実を指摘されて一瞬たじろいたものの、ヒカルは噛み付くような勢いで言い返すとくるりと踵を返した。
「すぐ戻るから待ってろ!逃げんなよ、塔矢」
悪役の捨て台詞のような言葉を喚くだけ喚いて、ばたばたと廊下を走り去るヒカルの背中を、アキラは呆然と見送る。
しばらく呆然としたままドアの前で立ち尽くし、空を掴んだ腕を虚しい心のままに下ろした。壁や扉に身体をぶつけてよろけながら、悄然と肩を落として部屋に戻っていく
辺り、相当な精神的ダメージを受けているに違いない。ベッドに腰を下ろしたまま、何をする気もわかずに虚空を力のない瞳であてどもなく見詰め続けた。
泣けるものなら泣きたい気分である。後一歩、いや半歩というところまで近づき、望むものを手に入れられる筈だったのに、またもやそれは夢と潰えてしまったのだ。
このままずっとヒカルとの関係は進展をみないかもしれない。
アキラが虚脱状態でいた時間は決して長くはなかった。だがしかし、彼にとっては万年にも等しい時間が流れたようにも感じる、物悲しいひと時であった。
これ以上なく大きな溜息をついて、足をベッドの端にかけた中途半端な姿勢のままでころりと寝転がり、扉を見詰める。
寝る前に鍵を掛けないといけないな、などと他人事のように考えながら、ふとアキラは先刻のヒカルの言葉を胸の内で反芻した。
確か『すぐ戻るから待ってろ!逃げんなよ、塔矢』とヒカルは言ったのではなかったか?
もしかしてヒカルはこの部屋に戻ってくる?――思いがけず芽生えた希望に一縷の光を見出した刹那、扉が遠慮がちに開かれた。








