今日一日のこと振り返ると、アキラは自分が夢を見ていたような気分になりそうだった。だが、机の上に広がる
何枚もの写真が、あれが現実だったことをアキラに認識させてくれる。
公園で偶然出会ったヒカルに、モデルを頼んで撮った写真。
最初こそぎこちなかったものの、散歩にやってきた近所の犬を構ったりしている間に表情もほぐれ、ヒカルは自
然に笑顔を向けてくれるようになった。
噴水の縁に座り、風で飛ばされた水の冷たさに微笑むヒカル。犬を撫でて笑うヒカル。ムッとしたように頬を膨ら
ませるヒカル。一枚一枚を手に取り、あの時のヒカルの姿を思い浮かべると、アキラの口元は綻んだ。
夏祭りにも一緒に行く約束をしたし、明日はヒカルと図書館で英語の勉強会もする。たった一日にも満たない間
なのに、ヒカルはアキラにとって随分身近な存在へと変化した。
囲碁は打たなくても、あんな風に話したりすることができたのが、例えようもなく嬉しかった。むしろ、今はヒカル
との間には囲碁の存在は邪魔だとすら思う。ヒカルと囲碁について検討を含めて語り合うのはもっと先の話だ。
それは今ではない。アキラは心のどこかで、核心めいた思いを抱いていた。
こうしてヒカルのことを考えていると、夕方に別れたばかりで離れてそう時間が経っているわけでもないのに、写
真の中の姿も好きなだけ見れるというのに、もう明日のことが待ち遠しくて堪らない。
(それにしても…これは一体何だろう……?)
アキラは一枚の写真をじっくりと眺めて首を傾げる。ヒカルを撮った写真のうち数枚に、奇妙なものが混じってい
るのだ。白い影や青い光のようなものが写りこんでいて、どうも気になる。
全部が全部というわけではないものの、ヒカルを撮った時には他には何も見当たらなかった筈なのに、こんなお
かしな光が入るというのも変だ。そういえば以前テレビで似たような写真を紹介している番組があった。芦原が家
に来ている時に無理やり付き合わさせられて観たので覚えている。確か心霊写真の特集だったような…。
(馬鹿馬鹿しい。こんなの光の加減か何かに決まってる。幽霊なんて居るわけない。もしも居るなら、過去の棋士
と対局だってできるじゃないか。……例えば本因坊秀策とか)
ヒカルと昼間に逢ったからか、過去の棋士として思い浮かんだのは本因坊秀作だった。初めてヒカルと打った対
局、二度目に一刀両断にされた対局、そしてネット碁でsaiと行った対局……これらから髣髴させられる棋士は、
遠い過去に死んでいるはずの最強棋士の名なのである。
アキラは考えを打ち切るように頭を振り、憮然とした面持ちで白い影の入った写真を机に置いた。
彼は全く知らなかった。ヒカルの隣に寄り添うように写った白い影の位置に、過去本因坊秀策とも呼ばれた天才
棋士が立っていたのである。アキラがこれまでに四度対局した、藤原佐為が。
「悪い塔矢!待たせたな」
「…いや、ボクも今来たところだ」
夏の日差しの中、元気に走ってきたヒカルにアキラは柔らかく微笑んだ。実際、ここで待っていたのはせいぜい
5分程度だし、図書館のエントランスはクーラーがきいていて、炎天下の中で待たされたわけでもない。誰でもこ
の程度で目くじらをたてて怒りはしないだろう。
本当は来てくれるかどうか心配で、アキラは二の足を踏んでいたのである。いくら昨日約束したとはいえ、囲碁部
の三将戦の時やネットカフェでの件が思い出されて、急に不安に囚われてしまった。いつもなら15分前には目的地
に到着するように調整しているのに、今日に限って待ち合わせの5分前に来るようにしたのは、その為だ。
もしもヒカルが来なかった時、辛い待ち時間が少しでも短くなるように。
しかしぎりぎりではあるが、ヒカルはちゃんと時間通りにやってきた。基本的に遅刻される事が嫌いなアキラだが、
内心来てくれるかどうか心許なかったこともあり、約束通りヒカルが現れて安堵したのが本音である。
尤もヒカルが定刻通りにやって来れたのは、偏に佐為にせっつかれたからなのだが。
ヒカルとしても、アキラを待たせるわけにはいかないとも思っていたから、一生懸命走ったのだ。彼とこんな風に
逢えることが楽しみで昨夜は中々眠れなかった。色々な蟠りがこれまでにありながらも、何の躊躇いもなくここに
やって来れたのは、アキラのことを嫌っていたのではなく元から好意的に感じていたからだろう。
むしろ、ヒカルは囲碁を通してアキラと友達になりたかったのかもしれない。最初に佐為とアキラが打ち、自分だ
けがのけものにさたように感じて、アキラの眼を向けたいと思うようになった時からずっと。
ヒカルの呼吸が整うと、開いていた詰碁集を閉じて鞄にしまい、アキラは机のある奥へと足を踏み入れた。
「やっぱり図書館って夏はいいよな〜。この時期だと涼むにはうってつけだもん」
「……進藤……図書館は涼むところじゃなくて、本を読んだり勉強したり、資料を探すところだよ」
「そんなぐらい分かってらい。ホントお前って優等生なのな」
「ボクは一般常識を述べただけだ」
煩くすると図書館の職員に注意されるので、ヒカルとアキラは小声で応酬しながら、空いた席を探した。幸いにも窓
際に空席が二つあり、二人は早速そこに腰を下ろす。ヒカルの横では佐為が端然と絨毯の上に座って、興味津々と
いった風情で窺っていた。
――さすがに塔矢はヒカルと違って勉強熱心みたいですねぇ。本当にヒカルに爪の垢でも飲ませたいですよ。少しは
真面目に勉強するようになるでしょうし。それにしても、同い年の家庭教師というのも中々いいのかもしれませんね
佐為は早速勉強道具を広げるアキラとヒカルの様子を眺め、ひっそりと袂の奥で微笑を浮かべた。
図書館は紙を捲る音など以外は殆ど聞こえないように思えたが、座って勉強の用意を始めると、耳障りにならない
音量で静かなクラシック音楽が流れていることに気がついた。何度もこの図書館には足を運んでいるが、音楽がか
かっているとは今まで一度も分からなかった。これは新たな発見で、ヒカルは意味もなく得したような気分になる。
「3分の1ぐらいはしてあるようだけど……これも、これも、これも、間違ってる」
「……う…うぐ……」
「まず最初から見直すところから始めた方が良さそうだな」
さすがに海王中に通っているだけあって、アキラは課題を開くとすぐさまチェックにとりかかり、鉛筆で印をしたところ
をやり直すようにヒカルに促した。いきなりダメだしを食らったヒカルとしては面白くないが、元から学力の差があること
は分かりきっているので、大人しく頷いて直していく。
途中でアキラに教えて貰いながらしていくと、予想以上に早く進めることができている。一部(というよりも半分以上)
やり直していたとは思えないぐらいで、当初の状態よりも課題ははかどっていた。
「進藤、ここはWANT形を使わないとダメだよ」
「あ、そうか」
「……じゃあさっきのをふまえたら……ここの訳はどうなる?」
「うーんと…『Play』は遊ぶだから…」
ヒカルは鉛筆で頭をがりがりと掻き、薄での参考書に答えを書きこんでいく。その答えであっているかどうか確かめ
るようにアキラを見ると、彼は微かに笑って頷いてくれた。
その笑顔に嬉しくなって次の頁を開くと、宿題として出されていた参考書の最後の問題だった。
「あれ?もう終わり?」
「思った以上に早くできそうだね。終わりも見えてきたことだし、休憩しようか?」
「そうだな」
言うと同時に身体を思いきり伸ばして、首を軽く回す。結構身体が固まっていて、そうするととても気持ちがよかった。
壁にかけられた時計を何気なく眺めると、勉強を始めて3時間以上は経っている。道理でお腹も空いているし、背中
も首もこちこちになっているはずだ。だがたった数時間でここまでできたのは、ヒカルにとって大きな成果である。
「塔矢、おまえ腹へってねぇ?」
「そういわれてみると、少し……」
「じゃああっちの休憩室で食おうぜ。オレお母さんにおやつ持たされてんだ」
リュックサックの中からお菓子の入った紙袋を取り出し、ヒカルは立ち上がった。 出掛けに母親から、お友達と一緒
に食べなさいとこの袋を渡されたのだ。そこらにあるスナック菓子ではなく、ちょっとしたお茶菓子なので多分アキラの
口にもあうだろう。ヒカルからみたアキラは、どうみてもスナック菓子を食べるようではない。
「荷物はこのままでいいの?」
「どうせ大したもの入ってねぇよ。席をとられないようにするためにもこのまま置いとこうぜ」
ヒカルはまるで気にもせず、先にたってさっさと歩き出した。しかしアキラとしてはやはり心配で、たまたま傍の席に
居た女子大生と思しき女性に営業スマイルを向けて声をかける。
「すみません、少しの間席を外すので、荷物をみて頂いてもよろしいでしょうか?」
女子大生はアキラに話しかけられた一瞬こそ不機嫌そうだったが、すぐさま蕩けるような笑顔で「任せて」と言って頷
いた。こういう時、アキラの外面のよさは最大限に発揮される。
というのも、彼女からみた今のアキラは、品の良い笑みを浮かべる『年下のカワイイ男の子』にしか見えない。しかも
冠に『将来有望そうでこれから益々格好よくなる美少年』というものが含まれるのがミソだ。
実際は赤の他人をさりげにこき使っているのだが、天化無敵の美少年スマイルで頼むアキラを前にしては、下世話
な邪推は微塵たりとも浮かべられない。これぞ美少年に弱い女の性である。
その上控えめな頼み方で言葉遣いは丁寧、礼儀正しく落ち着いた物腰、気品すら漂う笑顔とくれば尚更だろう。
そんなアキラを眺めて、ヒカルは心配性だなと呆れた顔をしたが、佐為はヒカルが無頓着すぎるのだと、聞こえない
ようにこっそり溜息をつく。
アキラは別段他人を利用しているつもりなど微塵もないのだが、結果的にはそうなっている。しかし、相手が使われ
ているという意識を持たない限り、実質的には利用している事にはならない。
その点、アキラの営業用の笑顔は最大かつ最強の武器ともいえるのかもしれない。