「……じゃあ明々後日に……この間の公園で」
「うん」
ヒカルが頷いたのに微笑み、アキラはほんの一瞬瞳を名残惜しげに揺らしたが振り切るように踵を返す。
早足で歩いて立ち去りながらも、もう一度ヒカルの顔を見たいと思わずにはいられない。振り返ったら最後、何も
かも放り出してヒカルの元へ行きたくなると分かっているから、後ろを見ようともしなかった。
指導碁なんていきたくない。ここでヒカルと一緒に居たい。ヒカルと離れる寂しさから逃れられるなら、仕事なんて
どうでもいい。プロとしてあるまじき考えが頭の中を過ぎり、誘惑に負けてしまいそうになる自分を叱咤し、図書館の
敷地から逃げるような足取りで立ち去った。
どうして自分がこんな気持ちになるのか…一分一秒でも長くヒカルと一緒に居たいと思うのか。ヒカルを想うと胸
が熱くなったり痛んだりする。一緒にいると胸の苦しみが薄れ、妙に嬉しくてはしゃいだ気分になる。
アキラにはこの奇妙な感覚と感情が何故身の内から沸き起こってくるのか分からない。
ただはっきり分かるのは、ヒカルと離れると身を焦がすような苦しみが再び再燃することと、ヒカルに逢いたくて、
逢いたくて堪らなくなる、ということだけだった。
夜は指導碁があるというアキラと別れ、ふと図書館の時計台を見ると夕方の5時過ぎをさしていた。
難題だった英語の宿題が終わってほっとしたが、ヒカルとしてはもう少しアキラと一緒に居てたわいのない話も
したかったのが本音である。花火大会に行く待ち合わせの時間と場所を決めて、アキラが帰るのを見送った後、
妙に寂しい気分になってしまった。
アキラも同じ気持ちでいたことなど露知らず、どことなく不貞腐れた気分で図書館を出て帰路に着く。
――ヒカル…そんなに拗ねないで。明々後日には塔矢と夏祭りに行くんでしょう?
(別に拗ねてなんかねぇよ)
佐為に対してぶっきらぼうに答えるヒカルは、明らかに不機嫌だ。
(あいつはオレに英語の勉強教えるより、指導碁の方が楽しいんだ)
頬を膨らませて心の中で文句を言うが、佐為にはヒカルの可愛い我侭は筒抜けだった。
――塔矢がヒカルをおいて、指導碁に行ったのが気に入らないんでしょうね。友達に対する独占欲っていうものは、
いつの時代にもあるんですねぇ…ヒカルったら小さな子みたい
扇子で口元を隠してクスクスと笑う。ヒカルの思考は佐為にはばればれだが、佐為の思考はヒカルに届くことはな
い。今考えていたことがもしもヒカルが知ったら、きっと顔を真っ赤にして怒ることだろう。
佐為にも、友人が他の人と楽しく話しているのをみて、面白くない気分を味わったことは何度もある。尤もそれはま
だまだ子供だった頃の話で、ヒカルぐらいの年齢ではそんな事を思ったかどうかは分からない。だがヒカルは同年代
の少年少女に比べると小柄で精神も幼い。何よりもアキラとまともに話して親しくなりはじめたのは昨日からだ。
親しくなったばかりの友人を、指導碁というものでどこかの他人にとられたような気分になり苛々しているのだろう。
――塔矢もお仕事大変ですねぇ。ヒカルだって『ぷろ』とやらになったら、塔矢と同じように指導碁という仕事にいくこ
とになるんですよ?そこら辺分かってます?
(……そういやそうなんだ…。……あいつ偉いよな〜。学校行って、プロ棋士して、指導碁とかの他の仕事もしてん
だもん。うん!見習わなくちゃな。ところでさ、佐為。塔矢の指導碁の料金っていくらなんだろ?)
――さあ…いくらなんでしょ?今度本人に聞いてみたらどうですか?
(そうするか。一回ナイショでオレも塔矢に指導碁頼んでみようかな?きっとあいつ驚くぜ?)
――そんな悪趣味なことをしたら塔矢が怒りますよ、ヒカル。それよりも実力をつけて塔矢と碁の検討をした方がきっ
と楽しいですよ?お互いの意見を自由に交換できる相手がいるというのは、存外に嬉しいものですから
佐為はにっこりと笑ってヒカルに頷いてみせる。ヒカルは佐為にとって教え甲斐のある弟子であると同時に、はっと
するような意見を述べてくる相手でもある。まだまだその発想に追いつくだけの棋力がないのがもどかしいが、自分
がこれだけ楽しいのだから相手が同年代のアキラならもっと楽しんでするだろう。
それも相手が好敵手と位置づけられるような実力があれば、向上心も手伝って尚更白熱するに違いない。
佐為には近い将来、ヒカルとアキラがそうして検討する姿が眼に見えるようだった。けれど、その時自分がヒカルの
傍に居ることが頭の中から自然に抜けてしまっているのに気がついた瞬間、ぞっとするような不安に捉われる。
ヒカルがプロになりアキラと対等の位置に居る未来に、果たして自分はヒカルと共に居られるのだろうか?
最近佐為の胸の内には、ふとした時にそんな懸念が付きまとうようになってきた。
ヒカルと洪秀英との対局の頃から、ヒカルが実力をつけて伸びれば伸びていくほどに、その無限の才能が開花すれ
ばするほどに、ひたひたと別れの予感が近づいてくるような気になる。ヒカルが死ぬまで共に居ると当然のように思っ
ているが、そんな保障はどこにもないのだ。
佐為にとってのもう一つの家族であり、親友ともいえるヒカル。自分を兄のように、また師としても慕ってくれるヒカル。
素直で可愛いヒカル。明るい笑顔で佐為に希望をくれる誰よりも大切なヒカル。
そんなヒカルと別れる?傍に居ることが許されなくなる?ヒカルの成長を見守ることができなくなる?
考えたくもないことだった。自分を失った時、ヒカルはどうなるだろう?ヒカルは少なくとも自分を好いていてくれてい
るし、大切にも思ってくれている。口には出さないけれど、尊敬すらもしてくれているのだ。
例えいつかヒカルとの別れがくるとしても、ヒカルの碁の才能を潰すことも、明るい笑顔を失くすようなこともないよう
に、ヒカルに未来を託して去りたい。ましてや碁を捨てさせるような真似だけはさせたくない、それは絶対だ。
何故なら、碁は一人では打てない。等しい才能を持った二人の人間が居なければ神の一手には近づけない。
立ち止まっては振り返り、立ち止まっては振り返り、アキラはヒカルに成長を促すように常に前を歩き続けている。
アキラが居なければヒカルは自分から進んで碁をしようとは思わなかったに違いない。
アキラとならば、ヒカルは一歩ずつ、神の一手を極めるために着実に歩んでいける。自分を吸収し成長して。
――うーん、私が傍にいるとお邪魔虫になるんでしょうか…面白そうですのに
ヒカルはともかくとして、アキラはどうもヒカルをただの友人やライバルとみているわけではなさそうだ。図書館で一
緒に居た短い時間だけで、佐為にはピンとくるものがあった。アキラ本人ですら気付いていない感情が。
例えアキラが何かを感じていたとしても、それが何を意味するのか理解していないに違いない。
平安の頃や江戸の頃は、雅な趣向とされてもいたので佐為にはまるで抵抗のないことでも、堅物のアキラが自分
の気持ちに気付いて現実を受け入れた時、どうなるのかとても面白そうである。
実際、佐為は美しい容姿をしているので、平安の頃はよく恋の歌を同性からも貰ったりしていた。
ヒカルやアキラも、院生仲間の伊角や和谷も、時代が違えば貰うに違いあるまい。
――でもヒカルはまだまだお子様ですからねぇ…後1、2年すると分かりませんが。これが私のいた時代なら、ヒカル
は将来毎日文と歌の物凄い攻撃に辟易するようになりますね。今の時代に生まれて運が良かったですよ
(ああ!?なんか言ったか?佐為)
――いいえ、なんでもありません
佐為は心の中で悪戯っぽくぺろりと舌を出し、ヒカルにいつものように柔らかく微笑みかけた。
『失敗した写真は入れていないから、枚数は少ないけど……』
アキラははにかんだように顔を俯き加減にしたまま、図書館から出る時にヒカルに写真を渡してくれた。
御礼を言って早速見ようとすると、顔を真っ赤にして慌てて『できたら家に帰ってから見て欲しい』といったアキラ
の様子を思い出して笑いが零れそうになる。
いつもは冷静で落ち着いて見えるのに、あんな風に顔を真っ赤にすることもあるのだと、今更ながら実感した。
ヒカルは帰宅して自分の部屋に入り、傍らの佐為にも見えるように写真を広げてみる。
「へぇ…結構まともに撮れてんじゃん」
犬と遊んでいるところや、公園のブランコをこいでいるところなど、枚数は少ないが生き生きとしたヒカルの姿を捉
えた写真ばかりだった。
――本当ですね。ヒカルのことをよくみてるのが分かります。これなんて凄く綺麗ですよ
佐為が褒めたのは、風で噴水の水が飛ばされてヒカルにかかってきた、僅かな瞬間を捉えた写真である。
水しぶきが太陽の光にキラキラと輝いてヒカルの周囲を飛び、その中に笑顔のヒカルが居る。太陽の輝きにも負
けない明るさの笑みでありながら、普段よりもどことなく大人びた印象の顔立ちに見えるヒカルが。
「キレイって…おまえ、オレ男だぜ?…うーん、でも佐為は実際女より綺麗だし…男でも有りなのかな?」
――そりゃ、男性でも綺麗な人は沢山居ますからねぇ。
ヒカルは今は綺麗よりも可愛いという印象だが、そのうち成長すればきっと大きく変わってくるだろう。
格好よくもあるし、綺麗でもある、それでいて可愛らしい。そんな少年になるような気がする。
「こうして見るとオレも結構女顔なのかな?けど塔矢の方が女顔だと思わないか、佐為」
――塔矢は最初は確かに女の子みたいでしたけど…今は違いますよ。普段は大人しそうでも、対局やヒカルのこと
になると途端に目付きが変わりますからね。塔矢は一人前の男性になってきてます、ヒカルと違って
「ちぇ〜、どうせオレはガキだよ」
――でもね、それは塔矢には仕方のないことでもあるんですよ。貴方よりも早く社会に出て『ぷろ』とやらになり、多く
の大人に囲まれて暮らしているのですから、男として成長していくのも当然でしょう。それも一筋縄ではいかないよう
な一癖も二癖もある囲碁棋士と対等に戦っていれば。子供の頃から大人に混じって囲碁を打っていても、実際に勝
負の場で対局する碁と普段の対局とは違います。貴方と塔矢との間には、そういった経験の差も今はあるんですよ。
「じゃあオレはいつまで経ってもあいつには追いつけねぇってのか?」
少し拗ねたような顔をするヒカルは、本当にアキラよりも子供っぽい。けれどそこがヒカルらしいといえばらしいのだ。
――私は『今は』と言ったんですよ?ヒカル。貴方が追いつけないとは私は思いません
佐為はにこりと笑ったが、その笑顔の奥底にはどことなく怖いようなものがあるようにヒカルには感じられた。まるで
誰かと対局を臨んでいる時の威圧感のようなものを。それが何故自分に向けられるのか、訝しくも思った。
「……佐為…?」
ヒカルがどことなく自分を不安げに見上げたのに、佐為は安心させるように顔を綻ばせた。
――その為にも、まずは『ぷろ試験』とやらを合格しましょうね。そうしないと塔矢とも同じ舞台には立てませんよ
「うん、そうだな。よーし佐為!一局打とうぜ」
――はい!
今は佐為にとってヒカルの成長は何よりも喜ばしいことだ。だがその目覚しい成長は、時折不安と焦燥の陰を落と
す。もっと早く、もっと強く育てなければ……少しでも成長させねば…誰かに急かされているようにそう思うことがある。
その誰かはヒカルを望むアキラのようにも思えるし、全く別の存在のようにも感じる。
けれど今はそんな事はどうでもいい。ヒカルと共に過ごせる日々の楽しさ…それが何よりも大切だった。