夏の風景写真W夏の風景写真W夏の風景写真W夏の風景写真W夏の風景写真W   夏の風景写真Y夏の風景写真Y夏の風景写真Y夏の風景写真Y夏の風景写真Y
 夏祭りに行くという当日の夕刻、ヒカルは祖父の進藤平八からの電話を受けていた。 
「いいよ〜じいちゃん、浴衣なんて。オレがそんな動きにくいの着たってしゃあねぇじゃん。ばあちゃんにもそう言っとい
 
て。これから友達と待ち合わせの場所に行かなきゃなんないんだからさ……え!?そうなの?お小遣い?マジ?」
 
 最初こそ不満たらたらで、行く気も何もあったものではない様子だったが、お小遣いを貰えるという話になった途端に
 
瞳がキラキラと輝きだす。佐為はヒカルの傍らで何とはなしに聞きながら、余りにも違う態度に苦笑を漏らした。
 
 今月もヒカルのお小遣いはピンチだ。お小遣いもあと200円ぐらいしか残っておらず、好物のラーメンの代わりにベビ
 
○スターラーメンでもぽりぽり食べてしのぐしかないほどなのである。
 
 折角これから夏祭りに行くというのに、お小遣いがたったの200円では何も買えるはずがない。
 
 祖父の言葉はまさにヒカルにとっては救いの神の声であった。
 
「行く行く!待ち合わせなら平気、着るのにそんなに時間かかんないだろ?……うん、分かった!」
 
 こうなってくると現金なもので、あっさりとこれまでの言葉も無視して意見を翻す。こういうところがヒカルの現代っ子
 
たる部分だ。そのくせ素直で真っ正直なところもあって、憎めないのだが。
 
(佐為!行くぞ!)
 
 ヒカルは電話を切ると同時に愛用のリュックを背負って玄関に猛ダッシュした。これから急いで祖父の家に行って着
 
替えないと、アキラとの待ち合わせに遅刻してしまう。口では大丈夫だと言ったものの、実のところかなり時間的には
 
厳しいのだ。平八の住む家まで走ってもいいが、自転車に乗って少しでも時間短縮した方がいい。
 
「お母さん、自転車乗ってくから!」
 
(なにぼーっとしてんだよ!早く後ろ乗れ!)
 
 美津子の返事も聞かずに自転車を跨ぐと、ヒカルは佐為が荷台に乗ったかどうかも確認せずに猛然とこぎ始めた。
 
そして佐為はというと、ヒカルにつられて慌てて荷台に座ってはたと我に返った。当り前のようにこうして座りはしたも
 
のの、本来なら佐為はそんな事をする必要もない存在なのである。
 
 自分は既に実体を失くしているというのに、まるで生きている人間を相手にするような気遣いをみせたヒカルに、胸に
 
暖かく満ちるものを感じて笑みを浮かべた。ヒカルにとっての自分は、実体はなくても人そのもののように思ってくれて
 
いるのだと、自然と理解することができた瞬間だった。
 
――ありがとう、ヒカル
 
(ん?なんだって?)
 
――ふふ…ほら、もっと速くしないと間にあいませんよ
 
(そんな事ぐらい分かってらい。振り落とされんなよ!)
 
 ヒカルはサドルから立ち上がると、立ちこぎに変えて更に加速させる。
 
 囲碁をするようになってもヒカルの得意科目はやはり体育だ。運動神経も悪くはないし、体力もそんなに低いわけで
 
もない。自転車を猛スピードで駆るぐらいは朝飯前だった。
 
 とてもママチャリとは思えないような速さで路地を走り抜き、祖父の家の前で自転車を急停車させる。
 
 自分でいうのもなんだが、ヒカルにとっては自己最速ベストに入る早さでの到着だった。自転車を停めると程なく体が
 
汗ばんでくる。自転車は乗っている最中は大して汗をかかないが、降りると一気に汗が噴出してくるのだ。
 
 ヒカルが勢いよく玄関に入ってくると、平八は額に汗の玉を浮かばせて息を弾ませている孫の姿に眼を丸くした。予想
 
以上に早くヒカルがやってきたので驚いたのもあった。とはいえ、今のヒカルにすぐさま浴衣というのはどうもよくない。
 
 汗で折角の浴衣が汚れてしまいそうですらある。少なくともシャワーを軽く浴びるぐらいは最低必要だった。
 
 ここまで汗だくになるぐらい急いでくるほど、ヒカルにとっては大切な友人なのだろうと、平八にはすぐに分かった。 
 ならば尚のこと、祖父としては孫の身だしなみには注意しなければならない。
 
「おまえ汗だらけじゃないか。着替えの前にひとっ風呂浴びて来い。でないと小遣いはやらんぞ」
 
「なんだよ〜オレ急いでんだぜ。じいちゃんのイジワル」
 
「いいからさっさと入ってこんか。ばあさんにはその間に支度してもらっておく。心配せんでもすぐ着れるわい」
 
 平八はヒカルが不満そうな顔をするのも一切構わず、小遣いを盾に風呂直行命令を下したのだった。
 

 アキラとの待ち合わせ場所の公園に着くと、ヒカルは噴水の傍のベンチに腰を下ろした。時間に間にあいそうにないと 
思って自転車に乗ってきたのだが、思った以上に早く着いたし、必要なかったのかもしれない。
 
 自転車に乗ったといっても、さすがに浴衣姿ではこげない。そこでキックボードの要領で走らせたのが功を奏したよう
 
で、予想以上に早く着く結果となった。
 
 ヒカルは自分の姿を上から下まで見て、眼の前でにこにこ笑って見詰めてくる囲碁幽霊へと視線を移す。
 
「……なんかさ、この浴衣女の子みたいじゃねぇ?」
 
――ヒカルにはとてもよく似合ってますよ
 
 佐為の言葉は肯定とも否定ともとれない曖昧なものだった。ヒカルとしても佐為の答えをあてにしていたわけではない
 
が、やはりこの浴衣は女物のような気がしてならない。
 
 着物姿のヒカルを見た祖母の反応を改めて振り返ると、どうも疑わしいのだ。
 
『まあ、まあ、まあ!本当に可愛らしいこと!ヒカルは将来絶対に綺麗になるわ!記念に写真撮ろうかしら〜!!』
 
 とこんな具合に、祖母は少女のように頬を紅潮させてうきうきとした声をあげ、実に嬉しそうだったのである。
 
 自分の孫が男だと本当に祖母は分かっているのだろうか。小さな頃から彼女に可愛いと連発され続けたお陰で、オレは
 
男なんだから可愛いなんて言うな、と文句を一言返す気力もこの頃では湧いてもこない。
 
 確かに祖母はヒカルを着せ替え人形にするとなると、テンションが妙に上がる。
 
 七五三の時もそうだったし、少し堅苦しい場に出る時に着る服を選びに一緒に来て貰ったりすると、もう凄いことになるの
 
だ。そのくせ似合う服を選別する審美眼は持っていて、間違えた事など一度もない。だからこそ、彼女はヒカルに着せる服
 
を選ぶ時は男物も女物もひっくるめる傾向が強い。
 
 ヒカルに似合うのなら、女物でもいいという男前ぶりなのである。ヒカルは祖母からセンスを譲り受けて服選びも上手だが、
 
女物まで手を出そうとはさすがに思わない。しかし彼女はそうではないのだ。
 
 ヒカルに着物の知識がないことをこれ幸いに、女物の浴衣を着せていたりはしていないだろうかと不安が一杯だ。
 
 しかも、うっかり口を滑らせてしまったばっかりに、来年の夏祭りにはアキラも連れて来いとまで念押しされてしまった。
 
 きっとヒカルと一緒に浴衣を着せるつもりでいるに違いない。祖父が週間碁の記事の写真のアキラを祖母に見せたりした
 
ものだから、とてつもなく乗り気なのである。アキラには悪いが、お年玉を人質にとられてしまっては仕方ない。鬼が笑うの
 
も承知で来年も夏祭りに付き合ってもらうことにしよう。
 
 お年玉のことがなくても、ヒカルはまたアキラと夏祭りなど他の行事にも行きたいと思っている。改めて切り出すのが何だ
 
か恥ずかしくて、祖母のことをいい訳にアキラを連れ出す口実が欲しいだけなのかもしれない。
 
 夏の夕暮れの太陽が、ヒカルの前髪を更に燃え立たせるように輝かせる。日没前の最後の光を落とすように、黄金色の
 
太陽は噴水に長い影を落としていた。さわさわと揺れる梢の音と鳥の声、涼しげな水の音以外には何も聞こえない。
 
 どことなく手持ち無沙汰な感じで足をぶらぶらさせているヒカルを見下ろしていた佐為は、噴水の影からこちらに向かって
 
くる人影に気付いた。
 
――ヒカル、塔矢が来たようですよ
 
 その言葉にヒカルは勢いよく後ろを振り返り、待ち人に花が綻ぶような明るい笑顔を向けた。
 

 出掛けに母親の明子に呼び止められたりもしたので、アキラが公園に着いたのは予定より少し遅かった。とはいっても待
 
ち合わせには充分に間に合う時間ではあったが。
 
 明子がアキラを呼び止めたのは、息子が友人と花火大会に出かけるのは実に珍しく滅多にないだけに、折角なら親として
 
お小遣いを渡して人並みな親気分を味わいたい、という思いからであった。アキラは中学生という身分に合わず、自分の職
 
を持っていることもあり、小遣い自体が必要ない。大体からして小さな頃からお小遣いを欲しがったこともない子供だった。
 
 渡そうとすると、いらないと今日も首を横に振ったのだが、お友達と一緒に何か食べなさい、と言って強引に持たせること
 
に成功して、明子は密かに満足感に浸っていた。
 
 母の思いなど露知らず、出掛けの思わぬ出来事に予定よりも遅めの出発になったことにアキラ自身は少し不満な気分で
 
いた。一刻も早くヒカルに逢いたいと焦る気持ちを抑えるのに相当な努力を要した程である。
 
 明子が呼び止めた時間など数分にも満たなかったというのに、相当な早足で待ち合わせの公園に向かった。
 
(……進藤)
 
 アキラが公園のシンボルである噴水に瞳を向けると、そこには既にヒカルが座っていて、自分を待っている様子だった。
 
 後姿で遠目ではあるものの、アキラにはそこに居るのがヒカルだとはっきり分かる。たとえどんな姿でも、アキラはヒカル
 
を見間違えたりしない、という自信を無意識のうちに持っていた。
 
 離れていることと噴水の水に遮られたりするので確認できないが、どうやら浴衣を着ているらしい。
 
 足早に近づいていくに従って、そこに居る人物の姿がより鮮明になってくる。
 
 最初に見た瞬間はヒカルに違いないと確信したのだが、こうして近くなればなるほど、違うような気がしてきた。
 
 そもそも何故自分は、ヒカルを見間違えるわけがないと思ってしまったのだろう。
 
 後姿で顔もまるで見えず、距離もある程度離れているというのに。ヒカルだと確信すること事態がおかしいではないか。
 
 この公園には、アキラ以外にも他にも夏祭りの待ち合わせに何人もの男女が来ている。ヒカルはまだ来ていなくて、アキ
 
ラがヒカルだと思った人物は他の誰かを待っている人かもしれないのに。そんな事すら考えもしなかっただなんて。
 
 アキラがヒカルだと無自覚に確信した人物は、青を基調とした下地に淡い黄色の花模様をあしらった浴衣を着た、華奢な
 
少女。後姿だけの印象ではそんな風に見える。
 
 よくよく考えてみると、どちらかというと彼は浴衣よりも活動的な格好で来そうな気がするのだ。それにヒカルが浴衣を着て
 
くるとは、どうも想像ができない。
 
 ある程度の距離まで傍に来たものの、声をかけるべきかどうか歩調を緩めながら考える。もしも人違いだったら、相手に
 
も失礼だ。噴水から離れてわざと大きく回って、顔を確かめてからにしても悪くはないだろう。
 
 自分の考えに納得して噴水から少し離れようとした瞬間、浴衣の人物は振り返ってアキラに笑いかけてきた。
 
 まるでそこにアキラが居ることを、知っていたかのように。