「塔矢!」
振り返りざま声をかけると同時ににこりと笑ったヒカルの姿に、アキラは内心ひどく驚いていた。
ヒカルの明るい笑顔の可愛らしさに心臓がどきりと跳ね上がったのもあったが、その反応の素早さに一番驚愕した。
(後ろに眼がついてるみたいだ……)
噴水の水音で足音も気配も感じ取れない筈なのに、自分の居る方向にさも当り前のように何故正確に顔を向けられるのか。
アキラはまだ声もかけてないし、それにヒカルかどうかも確信できずにいて、正面に回って顔を確かめようとすら思っていた
のである。後ろにもう一つ眼があるのかと思ってしまっても無理はない。
しかし、アキラは胸の内に湧き上がった奇妙な疑問よりも、眼の前のヒカルの姿の方に気がとられてしまう。
浴衣姿で立つヒカルは、本当に可愛くて綺麗だった。
アキラの知る限り、同年代にしろ年下にしろ年上にしろ、どんな女の子よりも遥かに魅力的である。
女の子よりもずっと綺麗だと正直な感想を胸に抱いてしまったが、ヒカルはれっきとした男だ。こうして正面から見ると確か
に男にしか見えない。けれど、やはり可愛いと思うし綺麗だと感じる。
こうしてヒカルを見ていると、男相手でも可愛いとか綺麗といった言葉は共通に用いられるものなのだと、何となく納得でき
そうな気がした。
「な、なんだよ、さっきからじろじろ見て……。そんなにヘンか?この浴衣」
浴衣という和風の服であるからか、いつもより大人しそうな印象を受けるヒカルだが、話し方はまるで変わらない。仕草も浴
衣を着ているようには見えないぐらい、元気というかやんちゃなものだ。
普段と変わらぬヒカルの様子に、アキラはどことなく安堵を覚えて微笑む。
「そんなことはない。とてもキミに似合っているよ」
(挨拶すら忘れて見惚れていたなんて、進藤に言えるわけないな)
男のヒカルにこんな台詞を言おうものなら、変態呼ばわりされるか、女扱いするな!と怒りだすかどちらかだ。
「それよりもごめん、待たせてしまったな」
「いや、オレもさっき来たばっかだから。……なあ塔矢。おまえから見て、この浴衣マジでヘンじゃないと思う?」
「………は?何を言ってるんだ、キミは」
「だからさ、この浴衣女の子みたいだと思わねぇ?」
「……女物……」
アキラはヒカルに聞こえないような小さな声でぼそりと呟き、改めて上から下までヒカルの浴衣姿を眺める。
(…そうか、だから後姿で女の子かと勘違いしそうになったんだ。この浴衣、色合いも柄の感じも中性的な印象だけどよく見
ると女性用みたいだ。帯の結び方はどちらともとれないようにしてあるようだが……。この浴衣を選んだ人はよく考えてるな)
誰だか知らないが、ヒカルに浴衣を着せた人物は中々に遊び心があるようだ。男であるヒカルを一瞬女の子だと勘違いさ
せるような意匠でありながら、男の子としてもちゃんと見れるようにしているのである。
ヒカルに似合いその魅力を最大限に生かす素材を選んでいる現れともいえる。
「おい、塔矢?」
またぼーっとしているアキラの様子に、ヒカルは不審そうに眉を寄せた。
「えーっと…ボクは浴衣のことは詳しくないけど、似合ってるからいいと思うよ」
ヒカルの呼びかけに我に返り、取り繕うように言うが、ヒカルは少しも納得しているようでない。
「おまえ…それ答えになってねぇよ」
「……あ、その…少なくとも帯は女の子専用の結び方じゃないと思うし」
「フーン、じゃあ浴衣も女の子用じゃないのかなぁ?まあいいや、今更脱げねぇし。ところでさぁ……それなに?」
あっさりとヒカルはこの問題から興味を失ってしまい、アキラの持っている鞄に瞳を向ける。ヒカルが不思議そうに眺めた
のは、アキラが持ちそうにないような、どことなくアーミーチックなデザインの鞄だった。
「ああ、これ?写真の道具を入れる専用の鞄なんだ。三脚とかフィルムが入れやすいんで重宝してる」
「へぇぇ〜。ちょっと見せてくれよ」
「いいけど…重いよ?」
「へーき、へーき!おまえが持てるんだったらオレだって持てるって」
手を差し出してくるヒカルに、アキラはどことなく心配そうに荷物を寄こしてきた。そんなアキラの様子にヒカルはちょっと
ムッとしたが、好奇心が勝ってわくわくしながら手を伸ばす。しかし、渡された途端に腕がガクリと地面に向かって引き寄せ
られしまい、正直びっくりした。持った鞄はヒカルが想像した以上に重く、片手では持っていられなくて咄嗟に両手で掴む。
そんなヒカルの腕から、アキラは拍子抜けするほど軽々と鞄を取って、ベンチに置いた。
「だから言ったろ、重いって」
「……塔矢…おまえ見た目と違って意外と力持ちなんだな」
「別に普通だよ。キミが非力なだけじゃないのか?」
――やーい!言われた〜!
(うるせぇぞ、佐為!ったくムカツク〜!)
自分より背が高いとはいえ、見た目は細身なアキラがあっさり持ち上げたことに、ヒカルは少なからず驚きもしたし、感心
もしていた。だがそれだけに、アキラの言葉はヒカルの中にある、普段は気付かないコンプレックスを直撃する。しかも佐為
までもが便乗して囃したてたことで、余計に腹がたった。
自分は背もアキラほどあるわけではないし、体格だって同じ年の子供よりも小さい。背は伸びてはいるものの、幼馴染の
あかりにすらまだ追いつけていない。クラスメートの少年達はヒカルを追い抜いてぐんぐん高くなっている。
アキラともせいぜい10センチぐらいの身長差だと言ってしまえばそれまでだが、成長期のヒカルにとって、その10センチす
ら大きな差だ。あの何気ないアキラの言葉が、男として着実に成長していっている彼との差を見せ付けられたようで、羨まし
くもあり悔しくもあってそのまま突っかかってしまう。
「オ、オレの方が普通だい!おまえが馬鹿力なだけだろ」
「ボクはキミと違って鍛えてるからね。囲碁には体力も欠かせないんだよ」
(ぐぬ〜!ああ言えばこう言う。何て口の減らねぇ野郎だ!)
――やれやれ……完全に言い負かされてますねぇ。正論なだけに言い返せませんね、ヒカルには
アキラは頬を膨らませて怒るヒカルの顔を眺めて、微かに笑みを浮かべる。これまでに見たことのない表情に、何となく嬉し
くなってきた。それに怒っているヒカルもとても可愛い。自分でも無意識のうちに、宥めるように膨らんだヒカルの頬に触れる
と、すべすべとした手触りのよい肌の柔らかな感触が返ってくる。その温かな体温がひどく心地よくて、自然と口元が綻んだ。
突然自分の頬に手を伸ばしてきたアキラの行動に、ヒカルは驚いたものの、嫌ではないのでそのままにしておく。優しく撫で
る掌の温かさが気持ちいい。思わずアキラの手に頬をすり寄せそうになって、急に我に返って照れ臭さを感じる。戸惑いなが
らアキラに眼を向けると、今までに見たことがないほど綺麗な微笑を浮かべながら自分を見詰めていて、瞳を奪われた。
思わず見惚れてしまいそうな笑顔に、胸がいきなりどきどきし始めて、自分でもどうすればいいのか分からない。膨らませて
いた頬も瞬く間に元に戻り、みるみる火照り始めてくる。
――ほほお……これは中々面白そうな感じになってきましたね
佐為は赤くなって急に焦り出したヒカルの様子に、袂も口に当ててそっと押し殺した笑いを洩らした。これは思った以上に、ヒ
カルはアキラのことを意識しているのかもしれない。それとも、今意識し始めたのだろうか。
そっとアキラの手が引かれ、どことなく寂しいような気がする。そんな自分に混乱しながらヒカルは首を傾げるばかりだった。
いつのまにやらさっきまでむくれていた気分はどこかに行ってしまい、どうでもよくなってしまっている。
アキラも先刻のことは忘れ果ててしまったように、平然と口を開いた。
「進藤、そろそろ行かないか?キミの花火名所に案内してもらいたいんだけど…」
「あ、ああ…そうだな。じゃあおまえ自転車に荷物載せろよ。ここからだと結構距離があるんだぜ」
「キミ…その姿で自転車に乗ってきたの?」
呆れたような感心したような口調で、アキラが尋ねてくる。もしもこの格好で自転車に乗っていたなら、アキラは心底感服せ
ざるを得ない。着物で自転車なんて、普通はまず乗れないのだから。
「さすがにこれじゃこげねぇよ。キックボードの要領で来たんだ」
しかしさしものヒカルもこればっかりは無理なようだった。あっさりと種明かしをしてくれる。
「ああ、なるほどね。でも余り感心しないな、そんな事してるとすぐに着崩れしてしまうよ」
「そうなの?じゃあ押していくしかないか。歩いてだと遠いんだけどな……」
「遠いってどれぐらい?」
「ここからだと徒歩で1時間近くかかるぜ」
「それは確かに遠いな。……じゃあこうしようか。ボクがこぐから、キミが荷台に乗ればいい」
拳を口元に当てて思案げに言葉を紡ぐヒカルに、アキラは妥協案を示した。しかしその台詞はヒカルとっては青天の霹靂
とも言うべき、衝撃的な内容だった。
「マジかよ!?おまえ二人乗りなんて絶対しそうにねぇのに!交通法規に反するとかって言いそうなタイプじゃん!」
ヒカルの持つアキラのイメージだと、二人乗りなんて言語道断、ましてや自分からそんな事を言い出すなんて、絶対に有
り得ない。しかしアキラとしては、そういった勝手なイメージでの判断など余計なお世話だった。
確かに今まで二人乗りどしたことはない。大体からしてそんな事をするような状況になったこともなかった。学校の友人と
だなんて、まずしない。それに二人乗りは危険だということも知っているし、できるならば歩いて行った方がいいとも分かって
いる。だからといって、いざ必要な時に何もせず無駄な時間を使って徒歩で行くこともない。
夕闇も迫ってきているし、花火大会と夏祭りを満喫するならば、目的地には一刻も早く着いた方がいい。ヒカルに聞いた話
だと、穴場の傍にはバスも通っていないという。ならば二人乗りをしてでも自転車でさっさと行くしかないではないか。
「そりゃ…本当は二人乗りなんてしたくないけど、こういう場合仕方ないだろ。何事も臨機応変に対処しないと」
アキラは赤い太陽の光に瞳を眇め、溜息混じりに言いながらヒカルの自転車の前籠に鞄を載せる。
「くそ真面目で頑固で融通ききそうにないくせに、変なとこでいい加減なんだな、塔矢って」
心の底から感心したような口調で話すヒカルだが、内容は少しもそんな風には聞こえない。
おみそれしました、と言って頭に手を当てて笑うヒカルのおどけた様子に、アキラは苦笑混じりに小さく吹きだす。
「……それは…一応褒め言葉として受け取っておくよ、進藤」