夏の風景写真Y夏の風景写真Y夏の風景写真Y夏の風景写真Y夏の風景写真Y   夏の風景写真[夏の風景写真[夏の風景写真[夏の風景写真[夏の風景写真Y
 最初は少しばかりふらついたが、ある程度のスピードになると自転車はすぐに安定感を取り戻した。茜色に彩られた 
家々の間を、速過ぎもせず遅過ぎもしない速さで走っていく。
 
 腰にしっかりと回されたヒカルの腕と、背中から伝わってくる体温が、くすぐったくもあり照れ臭くもあるのに、嬉しくて
 
堪らない。こうしてヒカルと一緒にいられる時間がずっと続けばいいのにと、思えてくる。
 
 でも、アキラがこんな風に思うのは、ここ数日間で何度目になるのか分からないほどだ。きっと、夏祭りに行っても、
 
花火を見ても、ヒカルと一緒ならきっとそう思うのだろう。
 
 ヒカルは最初荷台に乗る時、横座りをするのをひどく嫌がっていた。女の子みたいだと言って、散々ごねていたのだ
 
が、浴衣姿なのだから仕方がないと、宥めすかしてやっとの思いで乗ってもらったのである。
 
 次からは電車か何かで行った方がいいのかもしれない。しかしアキラとしては、ヒカルを後ろに乗せて走る、自転車
 
もかなり捨て難かった。すぐ傍にヒカルの気配が感じられて、密着して伝わる体温に幸せな気分すら味わえる。
 
 この先にある目的地まで、この温かさを逃したくなかった。
 
 落ちると困るからと、アキラに腰に掴まるようにいわれた時は、ヒカルはどうしようかとかなり躊躇した。普通に乗るの
 
ならそんな必要もないのだが、安定感の悪い横座りでは掴まるものがないと不安なのは確かである。迷った末に、ア
 
キラに言われた通りに掴まることにした。
 
 ためらった理由はやはり恥ずかしかったからだ。女の子のように自転車の荷台に乗って、誰かに掴まっているだな
 
んて、男としてのプライドにも痛いものがある。
 
 だがしかし、慣れてしまえばこれはこれで快適だった。楽だというのもあるが、アキラに掴まっているとどこか安心で
 
きてほっとする。身体の線はヒカルと同じぐらい細いのに、背中は意外と広くてちょっと腹が立ったが。
 
 頬を撫でる風が心地いい。アキラの背中に頭を押し付けてみると、心臓の鼓動が聞こえてきた。暖かくて、生命の力
 
に溢れている音だった。ヒカルはそっと瞳を閉じて、アキラの鼓動をより強く感じる為に無意識に腕に力を込める。
 
 生命の音の持つ安心感は、常にヒカルを傍で見守る、佐為には決して与えられないものだ。人間は母の胎内にいた
 
頃から常に心臓の鼓動と共に生命を育み成長をしていく。遠い過去に肉体を失ってしまった佐為は、ヒカルに囲碁を
 
教えてやったり喋ったり喧嘩をしたりすることはできるけれど、命の温かさを感じさせてやることだけはできない。
 
 ヒカル自身はそんな事には気付きもしなければ、頓着も全くしていないだろう。
 
 何故なら、ヒカルからみた佐為は、他人からは姿が見えなくても自分と同じ人間なのだから。
 
 ヒカルと一緒に荷台に座りながら、佐為はこれまでで初めてアキラという存在が羨ましくなった。自分の身があり、好
 
きなだけ碁が打てるということではない。確かに佐為はもっと碁を打ちたいと思うことがある。だが、ヒカルと一緒に打つ
 
だけでも彼にとっては充分に満足できるものだった。
 
 佐為が羨ましいと感じたのは、ここ最近の漠然とした不安と焦燥からくるものである。
 
 形にならないもやもやとした焦りは、未来ある者達に対しての嫉妬だったのかもしれない。
 
 アキラは自分を追ってきた。だが今の彼は佐為を通してヒカルを見ている。以前のようにヒカルを通して佐為を見てい
 
るのではなく、対面にいつか座るであろう未来のヒカルを欲しているのだ。
 
 ヒカルの才能を開花させ導く為に佐為は居る。そしてアキラはヒカルを成長させ、神の一手を極めんと切磋琢磨する
 
者として居る。ヒカルもまた、アキラの成長には欠かせない存在なのだろう。そしてこの二人に多くの棋士達は導かれて
 
いくのかもしれない。例え自分がその未来に居なかったとしても、何らかの形でヒカルと共に居られればいい。ヒカルが
 
幸せに、未来を歩んでいってくれれば構わない。それは、ヒカルの幼い横顔を眺めて強く芽生えた佐為の願いだった。
 
「塔矢、そこ右に曲がって真っ直ぐな。しばらく走ったら、坂道に出て、上りきったら目的地はすぐそこだぜ」
 
「……分かった、右だね」
 
 アキラは危なげなくカーブを曲がって、ヒカルの言う通り走っていく。
 
「ほら、そこの坂道。スッゲーしんどいんだ。一番の難所だからさ、歩いて上がった方がいいと思うぜ」
 
 ヒカルの言う通り前方に瞳を向けると、決して急ではないが、長くて先が見えない坂道が立ちはだかっていた。先が見え
 
ないのは道が曲がりくねっているからである。眼を凝らしてみると、相当な高さまで上ってから大きく道が折れている箇所
 
があった。恐らくあの辺りなら頂上がどこにあるか分かりそうだが、途方もなく長い坂を走らねばならないだろう。
 
 今まで走ってきた平坦な道を、そのまま坂にしたような距離に感じるかもしれない。
 
 余りに長い坂道の片鱗を見、さすがにアキラは絶句したが、持ち前の負けず嫌いというか、勝負師の魂に火がついて、
 
何が何でも上りきってやる、と心を熱くに燃え立たせた。ヒカルの前で坂道ごときに屈する姿を見せたくない、という密かな
 
男の意地もあったのだが、アキラは敢えてその考えは無視してしまうことにする。どうしてか、認めたくなかった。
 
 それに、折角ヒカルを後ろに乗せて走っているのに、降ろしてしまうなんて勿体無いことができる筈がない。アキラはもっ
 
とヒカルとこうして一緒に居たいのだから。
 
 アキラが故意か無意識かに頭の中から排除したものは、好きな子の前では格好よくありたい、という男としては当り前の
 
感覚である。今の彼にはそれを受け入れられるだけの器の広さもなく、はっきりとした意識も持てていない。
 
 いくら大人に囲まれプロ棋士として活躍し、同年代の少年より老成していてるからといっても、人生においても男としても
 
彼はまだまだ経験不足のひよっこなのである。
 
 それでも、アキラもヒカルも、日々着実に経験値を積んで成長していっているのだ。
 
「おい塔矢、このまま行くつもりか?」
 
「……上れるところまで上ってみる。無理だと思った時点でキミに知らせるよ」
 
「オレはいいけどさ……マジで無茶するなよ?」
 
「分かってる」
 
 坂道の入口前から少しスピードを上げ、上っていく。ヒカルが腰に掴まっているので立ちこぎはしないようにして、ペダルの
 
重さに歯を食いしばって走った。想像した以上に坂道は難関だった。走っても走っても、こいでもこいでも道は遠く、近づいて
 
こない。先が見えないことが、こんなにも精神的に追い詰められるように感じるとは、アキラは思いもしなかった。
 
 坂の途中からスピードはだんだん落ちてきて、それに伴ってペダルはどんどん重くなる。もう少しで下から見た大きなカー
 
ブに差し掛かるというところで、渾身の力を込めてペダルを踏んでも全く進まなくなってしまった。
 
(………これまでか…)
 
 ある意味、対局で負けるよりも悔しい気分を味わいながら、アキラは自転車にブレーキをかけてヒカルを振り返った。
 
「ギブアップ?」
 
「……うん…」
 
 ヒカルに尋ねられ、アキラは無性に情けない気分を味わいながら頷いた。アキラが答えると同時にヒカルはぴょんと荷台
 
から飛び降り、ほんの一瞬浴衣の裾から白い脛が覗いてどきりとする。ヒカルはそんなアキラにも気付かず、くるりと振り
 
返って悪戯っぽく瞳を輝かせながら笑いかけてきた。その仕草が無性に可愛くて、途中で諦めてしまったのも決して悪くは
 
なかったかもしれないと思ってしまうあたり、自分の現金さに苦笑を禁じえないアキラだった。
 
「見ろよ塔矢!スッゲーいい眺めだぜ!」
 
 自転車を一旦停め、元気な声と一緒に指を差した先に眼を向けると、夕日に真っ赤に染められた、生まれ育った町を一望
 
することができた。今までに見たことがない美しい光景に、声を失って見入ってしまう。自分達の住む町が、こんな風に輝い
 
ていただなんて、思いもしなかった。
 
「……綺麗だな」
 
「だろ?ここからの眺めは最高なんだ」
 
 以前、佐為に町を案内してやると言って出かけた帰りに道に迷い、偶然に見つけたとっておきの場所だった。そしてその時、
 
ヒカルはもう一つ特別な場所を見つけた。それが今回の目的地の古びた神社である。何もないけれど静かで、落ち着いた気
 
持ちにさせてくれる。佐為と気分転換に散歩に出かけるとなると必ず行く場所だった。
 
 帰りに坂道を一気に下る爽快感もまた楽しいのだ。
 
 アキラは一頻りゆっくりと沈んでいく太陽を見詰めていたが、ふと思いついたように疑問を口にする。
 
「キミはいつもここに来てるのか?」
 
「しょっちゅう来てるわけねぇよ。この坂疲れるもん」
 
「それは確かにいえてるな」
 
 二人並んで夕日を眺めながら、頷いて笑いあう。アキラ自身、その事実は身をもって体験済みだ。
 
「でも進藤、ここはキミにとって大切な場所だろう?ボクに教えたりなんてしていいのか?」
 
「おまえって頭いいけどヘンなとこでバカだな。風景ってのは独り占めするもんじゃねぇだろ?誰だって見ようと思えば見れる
 
んだし、見るのもどう感じるかも自由だもん。空に蓋が出来ないのと同じだよ」
 
 ヒカルはそれが当然だというようにあっけらかんと答えて、坂道を歩いて登り始めた。慌ててアキラはその後を自転車を押
 
して着いていく。中学二年生という同年代の少年とは思えないほど深いヒカルの言葉に驚きもしたし、感心もした。同時に、
 
とてもヒカルらしい考え方だとも思う。坂道を登りきると、小さな山に阻まれて夕暮れの町並みを見ることはできなくなったが、
 
再びヒカルの体温を身近に感じることができるようになったのでアキラとしては良しとした。
 
「進藤、ここからはどう進むんだ?」
 
「そのまま真っ直ぐ道なりに行くと、途中で分かれ道があるから狭い方に入って」
 
 少し歩いて体力も回復したこともあって、自転車はスムーズに走っていく。ヒカルの言う通り狭い道に入ると、なだらかな下
 
り坂になっているようで殆ど扱ぐこともない。その代わりといってはなんだが、舗装もされていないので凹凸が激しくバランス
 
がとり辛かった。道はこんもりとした緑色の原生林らしき場所に導かれ、猫の額ほどの広場に自転車を停める。
 
「自転車はここに置いとけよ。あっちが本殿なんだ」
 
「あ、うん」
 
 ヒカルは自転車を降りると、さくさく林の中を通っていく。後姿は女の子のようなのに、行動は相変わらずで微笑ましい。
 
 言われるがままに着いて行くと開けた場所に出た。そこには通ってきた林を背後に従えた、恐ろしく年季の入った木製の
 
建物が鎮座していた。どうやら自分達は裏手から入ったようで、こちらが表側になるらしい。
 
「……ここって…もしかして神社なのか?」
 
「もしかしなくても神社だぜ。鳥居だってあるじゃん」
 
「鳥居?……そんなのあったっけ?」
 
 呆れたようなヒカルの口調にムッとするよりも、アキラには鳥居があるかどうかの方が疑問で、周囲を見渡してみる。
 
 しかし全くそれらしき物はなかった。
 
「ほら、そこだよ。林に埋もれるみたいに立ってるだろ」
 
 ヒカルの差した指先を辿ってみると、確かに鳥居がある。木の中に溶け込んでいて、今の今まで全く気付かなかった。
 
「お参りしようぜ!お参り!ほんで夏祭りに行こう。オレ腹へってんだー」
 
 ヒカルにとっては神社でお参りすることもイベントの一つなのか、うきうきとした口調で賽銭箱にお金を投げ入れている。
 
 お参りを済ませてしまうと、ヒカルに腕を引っ張られて鳥居の下をくぐった。すると崖かと思える程急な石造りの階段が
 
あり、その上足場もかなり悪そうである。だがヒカルは浴衣姿であるにも関わらず、危なげなく階段を下り始めた。
 
「早く来いよ塔矢!」
 
――ヒカル!危ないですよ。こんな急な階段、こけたりしたら大怪我しちゃいます
 
(へーきだって、佐為。オレバランス感覚結構いいんだぜ?)
 
 ヒカルのすぐ後ろでおろおろしている佐為を尻目に、どんどん下りていく。ヒカルが数段下りる度に佐為は悲鳴を上げて
 
はアキラを振り返り、救いを求めるような眼差しを向けたが、勿論アキラが気付く筈がない。次にアキラがヒカルと同じよう
 
に下りてくるのを見て更に大きな悲鳴を上げる。
 
――いやー!あ〜れ〜!!うきゃぁっ!
(うるせぇぞ!佐為。さっきから何叫んでんだよ)
 
 余りの大絶叫ぶりに、ヒカルは堪らず足を止めて後ろを振り返った。
 
――だって、貴方達ったら、この落とし穴みたいな階段を早足で下りるんですもの。危なくて見てられません!
 
(……ったくこれだから御貴族様はよ〜)
 
 ヒカルが呆れまじりに嘆息していると、すぐ横にアキラが追いついてくる。
 
「どうした、進藤?」
 
「ああ、何でもない。それよりも急で危ない階段だし、もうちょっとのんびり行こうぜ」
 
「………?……うん、そうだね」
 
 急ぎ足だったヒカルがまるで反対のことを言い出したので、アキラは怪訝そうに小首を傾げたものの、素直に頷いた。
 
(ほら、掴まれよ。今度はおまえに合わせてゆっくり下りてやるからさ)
 
 アキラに答えながら、ヒカルは佐為の手をとって歩調を緩めて階段を下り始める。佐為はそんなヒカルに驚きながらも嬉
 
しそうに微笑むと、実際には触れることのないヒカルの手の温もりを味わうように、大切そうに握り返した。