夏祭り会場は大変な混雑振りだった。道の脇に雑多に並ぶ夜店が人々の影になって見えないほどの盛況ぶりである。
どこが不景気なのかと、うがった考えの大人なら思うところだろう。
これほどの人出だと、少し眼を離せばすぐにはぐれてしまう。二人ともこの辺りの地理にさほど詳しい方でもないので、
もしもはぐれてしまったら、さっきの古びた神社で落ち合うこと先もって決めておくことにした。
アキラもヒカルもまだ中学二年生で、体格としては大人に比べればまだ小さい。この人込みでは川の流れの中にいる
小魚と殆ど大差ないような状況だ。
人の波に押し流されそうになって、アキラは咄嗟にヒカルの手を握ってから彼の反応を窺ってみると、周囲を楽しそうに
眺めて何からしようと、うずうずしているのがこっちにも伝わってくる。アキラと手を繋いでいることすら気付いていないら
しい。それをどことなく残念に思いながらも、振りほどかれなくて安芯している自分もいる。何だか複雑な感じだった。
少し歩いていくと、ヒカルは早速のように何かを見つけたようで、瞳を輝かせて見上げてきた。
「塔矢!ヨーヨー釣りしようぜ!」
ぐいぐい手を引っ張られて気がつくと屋台の前にやって来ていて、いつのまにやら一緒になってヨーヨーの浮かぶ水槽
の前に座ってしまっている。夏祭りなんて小さな頃に何度か来ただけで、これといって何かをした記憶もなく、アキラは渡
されたヨーヨー釣りの道具と一生懸命釣ろうとしているヒカルの様子をしげしげと眺めた。
こういうことには世間知らずで、アキラは使い方がよく分からなかったのである。
「くそう〜失敗した!おじさん、もう一回!」
隣で残念そうな声を出して、強面の主らしき人物にヒカルは盛んに強請っている。
「そりゃ残念だったなぁ。他に客がいねぇから特別に一回サービスしてやるよ、嬢ちゃん」
「やったー!ありがとおじさん!」
ヒカルはいつのまにやら主と仲良くなってしまったようで、あっさりとサービスを取り付けて顔を綻ばせている。女の子に
間違えられていることに気付いていないあたり、相当にご都合主義的な現金さともいえるかもしれない。
そこが可愛いといえば可愛いのだが。
「おい坊主、あの子お前のコレだろ?ありゃ将来すげー美人になるぞ。羨ましいねぇ」
「……は?コレって?…え?…」
屋台の親父が小指を立てた仕草が何を意図するものか掴めず、アキラは答えられずに口ごもる。
「ん?なんでぇ、その様子だと告白もしてねぇな。だったらはっきり態度を決めちまいな。ああいう子は、あんまり待たせる
とキレるぞ。早めにモノにしとくのが一番ってもんよ」
カラカラと笑う主人に、アキラは何と答えればいいのか見当もつかなかった。ヒカルが女ではなく男だという誤解を解け
ばいいのか、ただご忠告ありがとうと言えばいいのか、ただの友達ですとでも答えればいいのか、どれもアキラの中では
しっくりとこない。そもそも自分がヒカルに恋愛感情を抱いていると思われる方が不思議である。
だってヒカルは男でアキラも男だ。普通に考えたら、恋愛感情なんて芽生えるはずがないではないか。
そこまで考えて、胸がちくりと痛んだ。ヒカルが自分に恋愛感情を抱くわけがないと思った途端、切なくて胸が苦しくなっ
てくる。自分の心がどこに向いているのか何一つ掴めていないのに、『可能性が無い』と思った瞬間に絶望的な気分に陥
る。ヨーヨー釣りに夢中になっているヒカルの横顔を見詰めながら、アキラは急に心が塞いでくるのを感じた。
「あーあ…また失敗だ。あれ?塔矢してないじゃん」
元気な声に我に返り、はっとして顔を上げると、にこにこ笑っているヒカルと眼が合う。どうしたことか、その笑顔を見ただ
けで胸の支えがとれたように気が楽になる。アキラは脳裏に浮かんだ思考を瞬時に打ち消し、微かに笑って尋ねてみた。
「いや…これからしようと思って。どれか欲しいのある?」
「オレ、あのでっかい白いのがいい!あれとって!」
「上手く出来るかどうか分からないけど、努力してみるよ」
単純に大きいものを欲しがるヒカルが可愛くて仕方がない。自分でも不思議なくらい気持ちがうきうきと高揚してくる。ヒカ
ルに何かをあげたいと思うことが、こんなにも幸せな感覚を胸に宿らせてくれるのだ。
アキラはヒカルが欲しがった白いヨーヨーに狙いを定め、輪ゴムに先を引っ掛ける。自分でも驚く程簡単にヨーヨーは釣
り上げられた。もしかしたら、意外とこういうのは得意なのかもしれない。
「スゲー!一発じゃん!塔矢、あっちの黄色いやつもとってよ」
ヒカルが驚いたように歓声を上げ、今度は派手な黄色のヨーヨーを要求してくる。しかし二つ目への挑戦には失敗し、紙
は破れてしまった。残念そうに唇を尖らせるヒカルに、アキラは手に入れたばかりのヨーヨーを渡す。
「はい、どうぞ」
「くれるの?」
「うん、連れてきてくれた御礼かな」
「オレの方が連れてきてもらったようなもんだけど」
「案内はキミがしてくれただろう?いらないの?」
「ううん!」
大きく首を横に振り、嬉しそうに白いヨーヨーを持って笑う。アキラも応えるように自然と微笑を浮かべた。
屋台の主に礼を述べて再び雑踏の中を歩き出すと、金魚掬いの屋台を見つけて、ヒカルに尋ねてみる。
「金魚掬いする?進藤」
「やめとく。それよりも射的がしたいんだよな、オレとしては」
「……何だか意外だな、好きそうな感じなのに」
「前は好きだったよ。でもさ、オレの知り合いに金魚掬いは金魚を追い回してるみたいで可哀想だっていう奴が居てさ。それ
聞いて、オレも何だか可哀想な気がしてきて…しなくなったんだ。やっぱり、自由に泳いでるのを見る方が楽しいもんな」
「そうか、その人はとても優しい人なんだな」
「ああ、すげーいい奴なんだぜ」
ヒカルは自分の事を褒められたように嬉しそうに破顔し、傍らの佐為を見やって笑いかける。佐為の気持ちをアキラが理
解してくれたことが本心から嬉しくて、いつもなら照れて言えないこともすんなりと口からついて出た。そのヒカルに佐為も
微笑み返し、手を繋いで歩く二人の姿を眺めた。
――あれまあ、手まで繋いじゃって仲睦まじい恋人同士みたいですねぇ……内面は程遠い感じですけど
ここ数日の様子や今の雰囲気で、アキラがヒカルを好いていることが佐為にも分かる。ヒカルも少しずつアキラを意識し
始めているようだ。ヒカルはこういう方面に極端に疎い傾向があるので、芽生え始めた感情にまるで気付いてもいないだろ
う。その反面、ヒカルは自分の想いも人の想いも素直に受け止められる心の広さがある。佐為を受け入れてくれたように。
だからヒカルに関しては、自分の気持ちに気付けばすんなりと納得して認めるに違いない。ただ問題はアキラだった。
真面目で純情で奥手なこの少年は、持ち前の頑固さと堅物な考えとに雁字搦めになって、自分の気持ちをそう簡単には
受け入れまい。下手をしたら一生自らの想いを否定し続けて、今際の際になってから認めて後悔しかねないタイプだ。
余程の荒療治でない限り、自分の気持ちに素直になりはしないだろう。例え何かのきっかけがあって受け入れたとしても、
色々躊躇して悩んだ挙句に、おかしな理由をつけて無理やり押しこめてしまいかねない。とはいえ、これはあくまでも現時
点でのアキラから見た印象であるので、来年や再来年と歳を重ねるとどうなるかは分からない。
少年は日々成長して、進化していく。アキラもヒカルもまだまだ成長途中である。彼らはこれからなのだ。囲碁の棋士とし
ても、人間としても。まずは己の感情に気付くのが先であり、彼らはまだその段階にすら達していないような幼さだった。
「塔矢、おまえたこ焼き好きか?オレ腹へっちゃって…」
「ボクも好きだよ」
「じゃあ食べようぜ」
たこ焼き屋を指してヒカルが提案してくると、アキラは頷いて近くのベンチにヒカルの手を引いていく。
「ボクが買ってくるから、進藤は座ってて」
「サンキュー。あ、塔矢。オレ20個入りのやつね」
「………分かった」
あんなに小さくて細いのに、20個も食べるつもりなのかと思うと少し驚いてしまう。アキラも食べられないこともないが、同
じ味のものをずっと食べ続けていると口が飽きてしまいそうだ。
たこ焼きを買って戻ると、今度はヒカルが飲み物を買いに近くの自動販売機にお使いに行ってくれた。その後姿を何とは
なしに眺めていると、見知った顔が人の流れの中を歩いていったような気がした。
確かに同じ都内であるし、ここの花火大会は近隣でも規模が大きいことで知られているから、同級生や知り合いが混じっ
ていてもおかしくはない。けれどどんなに親しい人であっても、今夜のアキラは逢いたくない気分だった。ヒカルと一緒に居
るところを見られるのが嫌なのではない。色々と詮索されるかもしれないと思うと、嫌なのだ。
それにヒカルとはずっと二人きりでいたい。下手に知り合いと関わりあって、ヒカルとの時間を邪魔されたくなかった。
「……っ!!」
ぼんやりと自分の考えに没頭していると、唐突に頬に冷たいものが触れて、驚いて飛びのく。見ると、ヒカルが冷たい缶
のお茶を持って楽しそうにクスクス笑っていた。
「オモシレー奴だなおまえ。今のは一見の価値ありだぜ。あの塔矢アキラがびびってベンチで飛び上がるなんてさ」
「……キミね…誰でも驚くと思うよ」
「反応が過剰だから笑えんの。おまえって普段冷静沈着で大人しそうって感じだし」
「そんなの他人の勝手な解釈だろ、放っておいてくれないか」
「当然じゃん。おまえって本当は性格悪くて、怒りっぽくて、陰険で、ワガママで、失礼で、イジワルで、強引で、スゲー行動
派だもんな。大人しいなんて外面だよ、外面」
「進藤!それこそ失敬だぞ!ボクはそこまで言われるほど欠点だらけじゃない!」
「ほら、オレにはそうやってすぐ怒るくせに。囲碁部の三将戦では『ふざけるな!』て怒鳴って、ネットカフェではクソ意地悪
く『今から打とうか?』なんて訊くし。おまえって他の人には何言われてもにこにこしてんだろ?それが外面だっての」
「……もしかして…気にしてるのか…?」
アキラ自身、あれは言い過ぎだったという自覚もあるので、罪悪感で顔を俯かせながら尋ねた。
「バーカ!気にしてなんかねぇよ。おまえがああ言ってなかったら、オレはここまで来てないし、前にも進んでないしな」
ヒカルは晴れやかな笑顔を向けてさらりと告げると、瞬間的に顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせているアキラのことも
気付かずに放っておいて、自動販売機に寄るついでに買ってきた焼きそばを食べ始める。
「ヨーヨーのお礼にお茶はおごってやるよ。早く食えば?たこ焼き冷めちまうぞ」
「あっ…うん」
胸の鼓動が激しく脈打っている。機械的にたこ焼きを口に運んでいるが、味の方はさっぱり分からない。結局何が何
だか分からないうちに食べ終わって横を見てみると、ヒカルも全て平らげて缶ジュースを飲んでいるところだった。
「んー?飲む?」
「……はい?」
「なあ、そっちのお茶くれよ。焼きそばちょっと辛くってさ〜」
ヒカルはアキラの返事も聞かずに自分の缶を押し付け、アキラがついさっきまで飲んでいたお茶を飲み始める。
(…あれ?…これって……間接キスじゃ……)
つられたように飲もうとしてはたと気がつき、思わず缶ジュースを持ったまま石像のようにアキラは固まった。そんな
アキラを尻目に、ヒカルは不思議そうに小首を傾げる。
「飲まねぇの?」
「え?あ…その……」
どうすればいいか口元に持っていったまま逡巡していると、ヒカルが悪戯を思いついた悪童の顔でにやりと笑った。
「うりゃ!」
「!?」
アキラの缶を持った手を押して缶ジュースを無理やり飲ませ、にんまり笑って覗き込んでくる。
「どう?うまいだろー?」
「……甘い…」
口の中に広がった炭酸の弾ける感覚と甘ったるい味に、アキラは眉を顰めて小さく呻いた。甘いものでも食べ物は
まだ食べられる方だが、飲み物はどうしても受け付けられない。はっきり言って嫌いな部類に入る。
だから甘さに閉口してしまったのも確かなのだが、ヒカルとの間接キスという事実に頬が緩んでしまいそうにもなっ
た。なぜ自分がヒカルとの間接キスに喜ぶのかどうかは無意識のうちに思考を停止し、苦手な甘さに顔を歪める。
「あ、やっぱりおまえ甘いのダメなんだ。缶持ったまま固まってるからそうだと思った。好き嫌いはダメだぜ?塔矢」
「し〜ん〜ど〜う〜」
可笑しそうに腹を抱えて笑うヒカルに、アキラは地獄の底から湧き出すような声を出して睨みつける。
「うわっ!こえー!悪かったって、塔矢〜。次射的行こうぜ!」
少しも悪びれない笑顔で謝っても、まるで効果などある筈がない。それなのに、腕を引っ張ってくるヒカルの顔を見
ていると、零れてくるのは苦笑というよりも柔らかな微笑みになってしまう。
むしろ現金なのは、ヒカルよりもアキラの方かもしれなかった。
「ほら進藤、射的ならあそこにあるよ。行こうか」
「行く行く!オレ花火セット欲しいんだよな〜」
人込みの中を縫うように進んで射的をしている露天を見つけると、今度はヒカルの手をアキラが引いて笑いかける。
掌から伝わる温もりが何よりも幸せで心地いい。この手をずっと離していたくない。そう思わずにはいられなかった。