スイスの小さな田舎町は、この日とても静かだった。昨夜の嬌態などなかったかのような、いつも通りの夜が明けた翌日は日曜日。
降り積もった雪をものともせず、朝から礼拝のために教会に向かう人々を尻目に、二人は研究室に篭もって資料の探索に余念がない。
その甲斐あって、メダルが元々どこで保管されていたのかという点については、割合に早く探しだせた。美術品として価値の高い品でも
あるので、研究室の資料だけで意外と簡単に割り出せた。
だがそれで見た限りは、このメダルの特殊な仕組みは解析されていないようだった。貴重な美術工芸品として修道院からバチカンに寄
贈され、保管されていたという記述は残っている。その後神父の一人が持ち逃げし、窃盗した者の手から古美術商などに流れ流れて、最
終的に南米の古代神殿でアキラとヒカルの手に渡ったというわけだ。
実際、最後に持っていたのは誰なのかはさすがに分からない。アキラの予測ではあの遺跡に滞在していた宣教師の一人と考えている
のだが、詳しい記述が残っていないので何ともいえない。誰かがメダルを持ち込んだという記録は残っているものの、スペイン軍の一人で
ある可能性も否定できず、また関係ない別の人物であるともいえる。ただ、この地にもたらされたメダルについての記述を残したのは宣教
師の一人だと推測できる。しかしそれを記した宣教師の持ち物でなかったことだけは確実だった。
宣教師のスケッチと記述では、魔鏡の反射光については一切触れられておらず、外観しか記述がない点からして、気付いていなかった
と窺える。逆に考えると、このメダルは美術品に詳しい者が調べても、価値の高い工芸品にしか見えないよう、わざわざカモフラージュして
いたともとれる。魔鏡の仕掛けは隠れキリシタンが数多く用いたことでも有名だ。こういった仕掛けを施すのは、なるべく人目に晒したくない
秘密が隠されているからである。
江戸時代、迫害されていたキリスト教徒が魔境に十字架やマリア像を掘り込んで、密かに信仰していたように。
問題は何を隠す為に、何の目的でメダルが作られたか?という点だった。
元の保管場所が修道院やバチカンというのも、アキラとヒカルには引っかかりを覚える点である。今アキラは魔鏡の鏡面部分を磨いて反
射光を鮮明にし、描かれた文字と鏡像を写す作業をしている。
反射光に写った画像は、上部中央に紋章が描かれ、その下に文章が三行書かれていた。アキラによると、浮かんだ鏡像の中で文章はヘ
ブライ語らしく、紋章の意味は不明であるということだ。鏡像に浮かんだ紋章は、二人ともこれまで眼にしたことがない、特殊な文様で、何ら
かの意味があるのだろうがさっぱり分からない。
少なくとも、紋章は保管場所であったバチカンなどの宗教と関わる類のものでないことだけは確かだった。
魔鏡の表面には精緻な文様が描かれ、裏面は平らな鏡面のようになっており、縁にはラテン語が書かれている。非常に細かく見え難いも
のの、文様の中に隠されるように鏡像に浮かんだ紋章も描かれていた。魔鏡の縁に書かれているラテン語も、鏡像に写るヘブライ語も、使
われている両方の言語がヒカルにはさっぱり分からず、翻訳作業はアキラに任せっきりだった。どうもヒカルは言語能力に自信がない。
ヒカルのトレジャーハントの師匠でもあった佐為と、相棒であるアキラは言語学にも相当精通しており、数ヶ国語を自由自在に操るだけで
なく古代語の翻訳も易々とこなす。言語学を勉強したがらなかった過去の自分をちょっぴり反省しつつ、性に合わないんだから仕方ねぇじゃ
ん、と半ば八つ当たり気味に不貞腐れつつバチカンの資料に手を伸ばした。だがしかし、その動きは唐突に止まり、大きな瞳が驚愕に見開
いて、食い入るように一点を見つめる。驚きに固まったまま動けない。彼の視線の先には、使い込まれた古い手帳があった。
その手帳は佐為の形見で、いつも肌身離さず大切に持っている品である。こうして資料探しをしている時も必要になることも意外と多いの
で、膝の上に置きながら大抵作業をしている。さっき本を取ろうとした動きで頁が捲れたのだろう、手帳は開いていた。
ただ手帳を見ただけで、ここまでヒカルは驚嘆したりはしない。その頁には、昨日見た魔鏡の光の中に浮かんだ朧な画像と似たものが描
かれていたのだ。当時は半分に分かれていたので半月形をしているが、魔鏡の反射光に間違いない。
無我夢中で手帳の内容に素早く眼を通す。魔鏡について記されている頁は僅かに二枚だけ。
スケッチは双方ともに紋章は共通しているが、半月形なので描かれている紋章も半分に切れている。一枚目を見る限りでは佐為の手帳
に書かれている文字と昨日見た鏡像とが同じであると予測できるが、二枚目の内容は明らかに違っていた。一枚目は書き写された文章が
三行あり、二枚目は二行増えて五行になっているのだ。
この差異はどうして生まれたのか?新たな発見であると同時に謎もまた増えた。
ヒカルは眼を輝かせて見ていた手帳から視線を外し、大きく息を吐いた。感嘆の篭もった溜息には、感動すらも混じっている。今の今まで、
どうしてヒカルは気付かなかったのだろう。自分の最も身近な所に、メダルの謎に近付けるとてつもなく重要な資料があったというのに――。
「佐為……」
吐息のように呟いて、ヒカルは大切そうに革表紙の手帳をそっと撫でた。
何故、彼が自分にこれを託したのか、今始めて理解できた気がする。佐為はきっと気づいていたのだ、この魔鏡の謎に。けれど敢えて知
らせなかったのは、ヒカルとアキラ自身が答えを見つけださねば意味がないからだ。
二つに分かれた魔鏡の所有者である二人が、自らの力で謎を解くことを彼は望んだ。だから託してくれた。
ヒカルは食い入るように手帳を見つめ、砂色の瞳を生き生きと輝かせる。これを解読すれば大きなヒントの一つとなるに違いない。
こうなったらじっとはしていられない。一刻も早くこの事をアキラに知らせなければ。
ヒカルは慌しく脚立を下り、アキラがいる二階の資料室に向かう。
きっかけは何にせよ、二人はメダルに見せかけた魔鏡の謎を解くために動き始めた。しかし、現実的にそれは余りにも遅かった。
秘密に気付き、メダルの行方を知った一部の者達は既に動いていたのだから。ヒカルとアキラは明らかに出遅れていたのである。
異変にまず気付いたのは、ヒカルだった。佐為の手帳に書かれていた内容を知らせようと、意気揚々と階段を駆け上がる。
研究室からアキラのいる資料室に向かう前に、ついでに毛布を取りに二階の寝室に入った。
スイスの冬は寒い。その寒さを凌ぐために暖房は欠かせないが、暖房すらまともにできないのが現状となっている。如何に大学の講師を
しているアキラがそこそこの給料を貰っているとはいっても、生活は切り詰めなければやっていけない。戦争などで全般的に物価高になっ
ている皺寄せが、庶民層に強く影響を及ぼしている。
特に物資の少ない戦時下においては、石炭はもとより薪などの暖房の燃料となる物は高騰し、量も圧倒的に減っていた。それだけでなく、
食料品など一部は配給品となっている。電気やガス、水道も人員不足で止まることもあり、ここ最近電気の供給は三日に一度程度だ。
燃料の高騰などから、二人は滅多に暖房をつけて過ごすことはない。屋内でもコートなどを着用して厚着をし、それでも寒ければ毛布を
被って過ごす程度のことは毎日している。寝る時も一人では寒いので、二人一緒のベッドで互いの体温で暖めあいながら就寝する。
肌を重ねる行為をしようがしまいが、現実問題として寒いものは寒いのだから背に腹は変えられない。今日は比較的暖かいものの、夕方
になると冷え込んでくる。二人して研究に没頭し始めると毛布を取りに行きもしなくなるので、先に持っていくのが一番無難な方法だ。
ヒカルは毛布を布団の中から引っ張り出そうとしていた手を止め、ふと窓を見た。いつもならこの時間帯、礼拝帰りの親子のさざめきや、
鳥の声が聞こえるというのに、妙に静かな気がする。ヒカルは無意識のうちにカーテンで身を隠すようにして、そっと窓から眼下を窺った。
戦時下とはいえ、スイスはまだ平和な国だ。日曜ともなると子供達のはしゃぐ声が響き渡り、親同士が井戸端会議をしている。当たり前の
日常の風景がそこにはある。それなのに、音がまるでしない。人が表通りを全く通らない上に、車も走っていないのだ。いくら休日の日曜で
も、これはおかしい。異様な静寂と、全く人通りのない外の風景に違和感を覚えずにいられない。
トレジャーハンターとして生きてきた中で、ヒカルは荒事に巻き込まれたことが幾度となくある。アキラと一緒に過ごすようになってからも、
盗賊と渡り合って撃退してきた。これまでの経験が勘として警鐘を鳴らし、告げてきている。危険だと。
「……進藤、魔鏡の文様は写せたから、そろそろ昼にしないか?」
ヒカルが上がってきた音を聞いたのだろう。アキラが普段通りに昼食の誘いにやってきた。部屋にそのまま入って来ようとするのを片手
を上げて制し、ヒカルはカーテンの陰から外の様子を観察した。アキラもヒカルのただならぬ気配を察し、足音を殺して外から死角になる
位置に素早く移動する。そんな彼に、ヒカルは唇に人差し指に指を当てて声を出すなと身振りで示し、顎をしゃくってみせた。
窓の傍まで近づいて、ヒカルの肩越しに外を眺めたアキラは、眉を不快げに顰める。
「日本人か……あの動きからして、軍人だな」
「ああ、ここは中立国のスイスだってのに、よく入り込めたよな」
「感心するところが違うぞ、進藤」
どことなく呆れた口調のアキラに、ヒカルは唇の端を僅かに吊り上げて笑った。
「人気が全くないから、周囲の住民を一旦どこかに移動させてここら一帯封鎖してるみたいだぜ?ご大層なこった」
「奴らはボク達に用があるんだろう……しかも遠慮をするつもりもないらしいね」
「………みてぇだな」
一見したところ、ただの日本の民間人を装っているが、きびきびとした統制のとれた動きは軍隊特有のものだ。窓から見えるだけで数人、
軍服を着ていなくても、隙のない身のこなしは訓練された兵士にしかできないだろう。彼らの動向から、この家を見張っているのがすぐに分
かった。ここまで分かり易いのは、軍人が彼らを子供と思ってなめてかかっているからに他ならない。ヒカル達にとっては都合のいいことに。
無関係の住民に被害を及ぼさないように配慮するだけ、まだマシだ。問答無用で襲いかかってこない分別はあるらしい。或いは余程の極
秘任務で、スイス政府に勘付かれたくないのか。どちらにせよ、この家の周辺は軍人で囲まれている。逃がすつもりはないということだ。
「どうする?」
悪戯っぽく瞳を輝かせながら見上げてきたヒカルに、アキラは不敵な笑顔で反問する。
「言われるまでもなく決まっているよ。荷物は纏めてあるな?」
「当然」
何せ、世界的に戦火の広がっている時代だ。二人とも後腐れなく逃げ出す用意は常にしている。
「……本音としては、明日のお前の誕生日はここで祝いたかったんだけどな…」
十二月十四日はアキラの誕生日なのだから、いつもより豪華な夕食をして二人でのんびり過ごそうと思っていたのに。無粋な輩がやって
きたお陰で台無しだ。溜息混じりにヒカルが小さく呟いたのを聞いて、アキラは嬉しげに笑ってそっと口付けた。
「キミが傍に居てくれるなら、どこで誕生日を過ごしても幸せだよ」
「………ったく、恥ずかしい奴……」
ぶっきらぼうに言いながらも赤く染まったヒカルの頬を撫でると、アキラはベッドの下からトランクを二つ引っ張り出す。一つはヒカルに渡
し、もう一つは自分がすぐに持てる位置に置く。その間にヒカルは別の場所から出したリュックを背負い、渡されたトランクを開いて中の武
器類をなれた仕草で身につける。アキラもクローゼットの抽斗に仕舞っておいた銃を携帯し、壁にかけてあった皮製の太い紐の束を腰の
フックに留めると、二人は同時に立ち上がった。そこに呼び鈴を鳴らす音が響き、玄関の扉を叩く振動が伝わってきた。
「塔矢アキラ先生、おられませんか?」
今のところは一般人として接するつもりであるのか、さして乱暴な様子は感じられないが、二人は無視することにする。わざわざ玄関を開
けて、招き入れてやる必要性を全く感じない。周辺を封鎖しているということは、もしも「手違い」があった場合でも証拠を隠滅できるからだ。
標的が抵抗した時や逃げようとした時も、封鎖しておけば口封じもしやすく退路も断ちやすい。
この場合の「手違い」は勿論、二人の死を意味している。丁寧な言葉遣いでこそあるものの、粗暴な手段を使ってくるのは目に見えていた。
一般人を装って警戒を緩めた上で、アキラとヒカルを拉致、或いは殺害を目的にしているのだと伝わってくる。
そんな物騒な輩と友好的に接したいと思う者がいるだろうか?答えは否である。ヒカルもアキラも、聖人君子ではない。こちらに害意を向
けてくる者には非友好的に対応するに決まっている。話し合えば分かり合える、という平和論を唱えるつもりは毛頭ない。眼には眼を、歯に
歯を、手を出したり刃向かってきたら百倍(正確には万倍)返し、これは鉄則である。
言葉を交わさなくても、考えは一致している。準備を手早く整えたアキラはヒカルの腕を引いて、足音を忍ばせて研究室まで一旦戻った。
「塔矢先生!進藤助手とそちらにいらっしゃるんでしょう!」
玄関からは彼らを呼ぶ声が尚も聞こえてくる。口調からしてだんだん苛立たしさも募ってきているようで、これ以上長く待っていそうもない。
無理矢理玄関をこじ開けて、中に入ってくるのも間もなくだろう。
アキラは黒檀の机の下にあるカーペットを捲り、床板の一部を剥がした。すると、小柄な人物がやっと通れるような縦穴が現れた。床に填
め込まれた煉瓦造りの煙突のように見える穴は、閑静な住宅街にある古びた家に、普通ならあるはずのない隠し通路である。
縄梯子を垂らしてヒカルを先に入れてトランクを渡し、アキラも窮屈な穴に身体を押し込む。隠し通路の出口がどこにあるかは、当然ながら
下調べは済んでおり、その辺の抜かりはない。玄関の扉が開けられる音がして、荒々しい複数の足音があちらこちらを走り回り、研究室にも
近付いてくる。床板の上にカーペットをかけてカモフラージュをしつつ静かに閉め、裏側から鍵をかけたとほぼ同時に、研究室に幾人か人が
入ってくる音が地下道にも伝わってきた。
二人は息を潜めて、動かずに耳をそばだてる。今ここで下手に動いて、気配を察知される方が遥かに危険だ。
「倉田君、キミのご友人はここにはおらんようだが?」
「あいつは勘のいい奴でね、とっとと逃げたのかも」
(く……倉田さん!?)
慇懃無礼な口調の男への返事が見知った人物であることに、息を呑む。声の主は、佐為と一緒に何度か仕事をしたことがあるトレジャー
ハンターの倉田厚のもので、ヒカルは驚きながらも更に注意深く耳を澄ませた。
倉田ともう一人の人物は部屋の中を歩き回り、本棚などを調べているらしい。足音が近くなったかと思えば、離れていく。その間も彼らは、
アキラとヒカルの経歴などを話して、とりとめのない会話を続けている。しばらくうろうろと研究室を物色していた足音の一つが、黒檀の机に
ゆっくりと近付き、椅子を引いてどっかりと腰を下ろした。机の抽斗を開けて中を見たり、卓上にある物を確認しているらしい。
「おい、いつまでこんな本だらけの部屋にいるつもりだ?あの包囲網の中をどうやって抜け出したのか分からんが、奴らはまだ遠くへは逃げ
ていないはずなんだぞ」
苛立たしげな声に呼応するように乱雑に踏み鳴らして、一人が近付いてきても、椅子に座っている人物は椅子から立ち上がる気配はない。
恐らく椅子に腰かけているのは倉田だろう。粗暴な足音の中に混じるように、床板を小さくノックする音が地下道に響いた。アキラとヒカルが
ここにいると分かっていて、叩いたとしか思えない音である。二人が警戒しつつ真上に座っているであろう倉田に意識を向けると同時に、のん
びりとした口調で太ったトレジャーハンターは話しだした。
「あいつらが肌身離さず持っている魔鏡のスケッチとかが、残されているかと思いましてねぇ……ま、ないみたいですけど」
「いくらガキでも、そんな愚はおかさんだろう」
「……どうだか。あの魔鏡が『聖杯』の手がかりになると知らなかったら、そこらに置いている可能性もありますよ。オレが知る限り、ずっと魔
鏡は持ってましたけど、全然気付いてなかったみたいですしね」
(……聖杯?)
縦穴の中で、ヒカルとアキラは顔を見合わせる。これは初めて聞く情報だ。二人は更に会話を注意深く聞き、耳をそばだてる。
「そういうお前も、すかした白スーツの考古学者も、オレ達が行くまで知らなかったクチじゃねぇか」
小馬鹿にしたような口調で言われても、倉田は少しも気分を害した風もなく答えた。
「知らなくて当然でしょ。あれが聖杯の手掛かりだと分かったのは、七年前にバチカンの倉庫で見つかった書物からで、この情報も座間少
佐…あんたにもたらされたもんだし。ずっとバチカンが極秘調査していた事柄を、オレ達みたいな一介のトレジャーハンターと考古学者が
知るはずないよ。むしろ、日本軍とドイツ軍がその情報をどうやって手に入れたのか、オレとしてはそっちの方が不思議だなぁ」
「聖職者と呼ばれて枢機卿なんてご大層な身分になっても、男は酒と女には弱いってことだろ」
もう一人の答えはにべもない。つまり、バチカンにいる枢機卿の一人が酔っ払って女に情報を洩らしたのが、どういう偶然か経緯は分か
らないがドイツ軍と日本軍に伝わってしまったらしい。
「スケッチより、聖杯に関する手掛かりを記した魔鏡本体が手に入らねば、ここまで来た甲斐がないんだ。二人一刻も早く捕まえないとな」
「けど、魔鏡だけが手掛かりってわけじゃないでしょ。オレが調べた情報によると、バチカンが保管する前はイタリアにあったようだし。聖杯
を見つけ、鍵となる秘法を持ち帰った人物の遺体が、埋葬されたという伝説がある。そこにも色々ヒントがあるかもしれませんけど?」
「そっちはゲルマン人と白スーツの考古学者が一緒に向かっている。こっちは魔鏡の奪取が最優先事項だ」
(……わざとだな)
(先回りして調べろってことかよ)
肩を竦めてアキラが視線を向けてくるのに応えて、ヒカルも悪戯っぽく笑って上を指差す。
倉田は相手の男に話し合うふりをして、本来知らせる必要も話す必要もない情報をぺらぺらと喋っていた。彼は気づいているのである。
ヒカルとアキラがここに留まっていることを。だからこそ、床板をノックして二人の注意が会話に向かうよう促したのだ。
彼は自分の持っている情報を、地下で耳を澄ます二人にわざと流している。
「いつまでもこんな場所に長居するわけにはいかん。派手に動いてスイス政府に気付かれれば、バチカンにまで情報が漏れる可能性が
あるからな。聖杯の使用に関する交渉を少しでも有利に運ぶためにも、我々が先に見つけねば意味がないんだぞ」
「そりゃ分かってますけどね。できれば研究室はこのまま居残って、蔵書の数々を見たいんですけど?何せ、かの塔矢行洋先生の集め
た文献の数々だもん」
「聖杯の手掛かりはあるのか?だったら多少は構わんぞ」
「こればっかりは調べてみないとねぇ…」
「なら、早急に調べろ」
「はーい……ところでさぁ、座間少佐。聖杯はあんた達が考えるような、不死身の超人を作れるものとは限らないよ。ただの綺麗な杯っ
て可能性もあるし、何てことないくだらないものかもしれないし」
フンと座間は鼻を鳴らした。
「聖杯の力でとんでもない力を手に入れ、不老不死になった者がいるだろう。そいつがイタリアの墓地に埋葬された奴じゃないのか?」
「件の人物が二百年前とほぼ同じ姿で故郷に戻ってきたって伝説はあるけどね……オレとしては矛盾してて信用できないなぁ。だって、
不老不死になってたら墓地になんて埋葬されないでしょ」
倉田の意見は尤もである。だが、既に後戻りできないのっぴきならない状況になっている。
「トレジャーハンターのくせに、らしくない考えだな。おまえにとってはそうでも、我々にとっては僅かな可能性でも賭ける価値はあるさ。
何せ不老不死の超人になれるという謂れのある品だからな。こんなところで油を売っていないでさっさと調べて少しでも情報を集めて
おけ。あさってには出発するぞ」
「へいへい」
倉田が気のない返事を返すと、一つの足音が遠ざかり、研究室の扉を閉める音が響いた。
しばらく倉田は気配を窺うようにその場を動かずにいたが、やがてゆっくりと立ち上がって扉の鍵を閉めると、椅子を更にずらして床に
膝をつく。鍵さえ閉めておけば、入ってくるこはない。多少不審がられたとしても、邪魔されたくなかったと言えば誤魔化しはきく。机の下
のカーペットを捲ると、案の定、床板の一部に隙間がある。素人ではかなりよく観察しないと分かりにくいが、倉田には一目瞭然だった。
恐らくこの下にヒカルとアキラは隠れている。二人が家から抜け出したという報告がない以上、家のどこかに隠し部屋や隠し通路が
ある可能性を決して否定できないからだ。
倉田はもう一度周囲を確認すると、慎重に床板をノックした。まるで誰かの部屋を訪ねるような仕草だが、耳を澄ませる顔は真剣その
ものである。床板の先は空洞になっているようで、予想通りに音が反響していた。
身動きせずに倉田が待っていると、少しの間をおいて床板が遠慮がちに持ち上げられる。そこから見知った金と黒の頭が覗いて、自
分を上目遣いに見上げてきた。少し見ない間に大人びた姿になったというのに、相変わらず子供っぽい行動には苦笑を禁じえない。
「久しぶりだな、進藤。塔矢も一緒か?」
「はい」
ヒカルが頷くと同時に、下の方からアキラの返事が聞こえた。
「よし、それじゃ教会のある場所の地図とこっちはオレが調べた資料だ。後はおまえら次第だからな」
「オレ達にこんな事していいの?倉田さん」
「いいんだって!オレだってトレジャーハンターの端くれだ、奴らに魂を売り渡した気はない。聖杯がつまらないものならいいが、奴らの
言う通りの代物だったりしたら、好きにさせるわけにはいかないだろ?不死身の超人の軍隊なんて、考えるだけで虫唾が走るもんな」
「でもさ…情報を渡したのがばれたらまずいし、この後も日本軍と一緒にいたままなんて危なくない?」
「危ないのはどこに居ても同じだって、余計な心配すんなよ。……ていうか、オレの心配よりおまえらの方が気をつけろ」
「……何で?」
愛らしい仕草で小首を傾げるヒカルを見て、倉田は思わず天を仰いだ。下膨れの顎を撫でながら、こいつはさっきの話をちゃんと聞
いていなかったのかと、わざわざ床板を叩いて知らせてやった自分が情けなくなってくる。地下道からはアキラの特大の溜息が聞え
てきた辺り、彼もヒカルの無頓着ぶりに疲れを覚えたようだ。
「あのな進藤……聖杯を狙っているのは日本軍だけじゃない。ナチもイタリアの地下墓地に向かっているんだ。しかも同行しているの
は白スーツがトレードマークのあの人なんだぞ?」
倉田の言葉にやっとヒカルも合点がいったらしい。白スーツの考古学者となると、思い浮かぶ人物は一人しかいない。確かに有能な
学者で先回りされる恐れもあるし、油断大敵だ。
しっかりと頷いたヒカルの頭を撫で、倉田は別れの挨拶もしないまま静かに床板を閉めた。鍵をかけた音を確認すると、カーペットを
元通りかけて椅子を置く。それから適当に見繕った本を何冊か抱え、何食わぬ顔で研究室から出て行った。
一方ヒカルは身軽に地下道に下り、ランプの光を頼りにアキラは縄梯子を手早くしまう。
二人は全速力で地下通路を走りぬけ、イタリアへと旅立った。