倉田の資料によると、イタリアのさる教会の地下にかの人物の遺体は埋葬されているらしい。ヒカルとアキラは夜行列車に揺られて
夜を明かし、翌日の早朝にイタリアに着くと、間をおかず件の教会に向かう。到着駅からどんなに急いでも六時間以上は悠にかかる
場所だ。夕刻近くになって教会のある農村に辿り着き、二人は町外れにあった廃墟の教会に足を踏み入れた。
殆ど休みなしの強行軍であるにも関わらず、疲れた様子もみせずに夕闇の迫る教会を探索する。
忘れられてすっかり朽ちかけた教会は、屋根は崩れ落ち、祭壇もステンドグラスもひび割れて床に散乱しているような状態だった。
「やっぱり外より、教会の中に入口を隠してるはずだよな……」
ヒカルの言葉にアキラも同意して頷いた。
「曰くつきの人物の墓だ。外よりの中の方が誤魔化しやすいだろう。多分どこかに……」
落ちかける太陽がひびの入ったステンドグラスを照らし、ところどころ亀裂の入った床に鮮やかな色合いをもたらす。アキラは床に
散らばった小石や砕けたステンドグラスを避けながら、注意深く観察する。二人はしばらく崩れた天井の名残らしき石材をどけたり、
壊れた椅子を脇に押しやったりしながら、地下への入口があると思われる石造りの床を探り続けた。
「塔矢!」
アキラは顔を上げて、ヒカルの声がした祭壇の裏に向かい、少年の指差す壁を見て笑みを浮かべる。
「メダルの表面に描かれた印とおなじものだな」
二人は壁の周辺を綿密に調べ、印の真下にある床板に小さな凹みがあることに気付いた。ヒカルは慎重に指で窪みを押すと、梃子
の原理で床板が開く。そこには年代がかった、赤茶けて錆びた取っ手があった。ヒカルの目線に応えてアキラが取っ手を掴み、力を
込めて引くと、低く鎖の巻かれるような金属的が音がこだます。しかし待てど暮らせど、周囲に変化は見られなかった。
二人は怪訝そうに顔を見合わせ、とりあえずもう一度取っ手を引っ張ってみる。だが今度は手応えもなく、何の反応もしない。
「ちぇっ!何だよ」
ヒカルが不貞腐れたように印の描かれた煉瓦造りの壁を殴った瞬間、くるりと壁が回る。
「うわぁ!?」
突然支えをなくしたヒカルの身体は、素っ頓狂な声と一緒に壁の内側に向かって、前のめりに倒れてしまった。
「なるほど………回転扉か…」
どことなく感心したような声音で冷静に呟きながら、ヒカルの身体に押されて内側に開いた壁を眺める。先ほど取っ手を引っ張ったこ
とで、回転扉を閉めていた仕掛けがなくなり、ヒカルの手に押されて扉が開いたのだろう。アキラは笑いを噛み殺しながら、むすっとし
た顔で見上げてくる少年に視線を移した。尊大な態度で上げた手を掴んで引き起こしてやり、壁の奥をランプで照らしてみる。
下に続く階段が光にぼんやりと浮かび、倉田の話通りならば地下墓地がこの先にあるということになりそうだ。
「行こう、進藤」
「うん」
二人はランプを翳し、慎重に苔の生えた滑りやすい階段を下りていく。地中深くなるに従って、湿り気を帯びたかび臭い空気が鼻腔
を擽り、水の滴る音が次第に大きくなっていくようだ。地下特有のすえた匂いが鼻につく。
ヒカルとアキラの足音のみが反響する階段を下りきって少し歩くと、広い部屋に出た。部屋のほぼ中心に石棺が安置してあり、その
棺を照らし出すように、天井の一角に開いた穴から一条の月光が降り注いでいる。明り取りの役割でもあるのか、穴には外枠が填め
込まれ、土などで塞がらないようにしてあった。どんな時間帯でも棺には光が届くように角度を調節しているようで、光は月や太陽の昇
る位置にも左右されないようになっている。つまり、それには何らかの理由があるということなのだろう。
土埃が被っている棺の表面に息を吹きかけると、文字が彫られている形跡があった。
ヒカルに渡された刷毛で槌を手早く掃き、彫られている文字を読める状態にする。トランクの中から和紙を取り出して、ランプの光に
浮かぶ文字を覆い、美術のデッサンなどで使う木炭で擦った。そうすると文字が和紙に写って拓本をとることができる。
拓本をトランクに丁寧にしまうと、アキラは他の部分も丹念に刷毛で掃いた。
「魔鏡に映し出された印と同じものが描かれているな」
光を魔鏡に当てた時、反射して映し出された陰影には、文字の他に何かの印もあった。棺にはそれと同じ文様が描かれている。入口
の扉には魔鏡の表面の印、隠された地下墓地にある棺は映された印。妙に暗示的な符号に、顔を見合わせ、棺に視線を落とした。
「………ん?穴があるぜ」
ヒカルは印の中心に小さな穴があるのを見つけ、そこに詰まった土を刷毛で取り除く。
「三日月の形だ……」
「メダルの縁に書いてあるラテン語が差しているのは、これのことじゃないか?」
穴を見て顎に手を添えて考えながら、アキラはぽつりと呟いた。
「『半月の欠片で満月を作り、三日月の光で一つの文字を表せ』だったっけ?」
ヒカルはアキラの持っているペンダントトップと自分のものを合わせて、途中で切れてしまう縁の文字を最後まで読めるようにすると、
アキラを振り返った。それに応えるように彼は頷く。
「ああ」
「半月は分かれたメダル、満月は合わせたメダルで、この穴が三日月か。けどさ、光と文字は?」
ヒカル自身は縁に書かれているラテン語を読むことはできない。
語学の堪能なアキラならさらりと読めるが残念ながら自分には無理な話である。
「あ〜!もう分かんねぇ!」
せめて何とか言葉の示す意味を考えようと、読めない文字を眼でおいかけるが、さっぱり意味が分からず髪をくしゃくしゃにかき混ぜ
る。唸って座り込むヒカルのことは好きにさせておいて、アキラは三日月の穴の周囲に白い指先を這わせた。
指から伝わる感触に眉を寄せると、アキラはヒカルの手から刷毛を取り戻し、その絵で土を削り始める。
「お、おい…塔矢?」
「いいから」
自分の考えが正しければ、これは間違いなくあの言葉の答えだ。アキラは確信していた。
ヒカルの声を無視して手を動かし続け、最後に刷毛で余分な土を掃き出してしまうと、そこには丁度メダルが納まるような丸い窪みが
できた。長い年月の間に土で覆われ、すっかり固まってしまっていたのだろう。元々ここには魔鏡が填められるようになっていたのだ。
「進藤、棺を開けよう」
「え?マジ?」
一人唸っていたヒカルは我に返って棺に視線を戻した後、嫌そうに眉をへの字に曲げてアキラを見やる。
ヒカルが棺に遺体が納まっているのではないかと危惧していると分かり、アキラは安心させるように笑いかける。幽霊とかの類は平気
なくせに、何故かこういったものにヒカルは苦手なのだ。
「大丈夫、棺の中は空っぽだよ。何かあったとしても、それは遺体じゃない」
「べ……べ、別に死体があったって、そんなのへんちゃらだい」
明らかに強がりと分かるヒカルの台詞だったが、笑うと拗ねるのが分かりきっているので敢えて突っ込まず、棺の蓋に手をかけてゆっ
くりとずらしていく。半分ほど開けたところで中を覗くと、案の定、中身は空だった。固唾を飲んで無意識にアキラの身体にしがみ付くよう
にして立っていたヒカルが、隣で安心したように胸を撫で下ろしているのを内心微笑ましく思いながら、縁を身軽に乗り越えて棺の中を探
ってみる。しかし、そこには何も見当たらず、底に溜まった土埃を刷毛で取り除いても、文字一つない。
棺の中で座ったままじっと考え込むアキラに、ヒカルは遠慮がちに声をかけた。
「な、なあ塔矢……」
「何?」
平然とした顔で小首を傾げるアキラをじっと見つめて、ヒカルはひどく間の抜けたことを訊ねる。
「棺の中にいるってどんな気分?」
「……はあ?」
「あ、その……だってさ、棺に生きたまま入るって何かやじゃねぇ?おまえは平気そうだしさ……」
「そりゃ、ボクは無理矢理生き埋めにされたわけじゃないもの。この蓋は中から一人の力でも十分持ち上げられるし、ただ箱と同じさ。何
ならキミも入ってみれば?すぐに分かるよ」
アキラの呆れたような口調にヒカルは明らかにムッとしたらしく、些か乱暴にアキラを押しのけて棺の中に身を滑り込ませた。入ってみ
ると意外にも広く、思った以上に閉塞感はない。ヒカルが蓋の内側や中を探っている気配を感じながら、アキラは自分の仮説を確認する
ように、魔鏡を石棺の窪みに填めてみた。その瞬間、棺の中でヒカルが頭をぶつける鈍い音が聞こえ、続いて「痛ぇ〜!」と喚く声が反響
する。程なくヒカルが怒りで頬を赤く染めて、ぶつけた頭を擦りながら顔を出し、涙眼のままアキラの胸倉を掴んで怒鳴りつけてきた。
「急に何すんだ!?眩しいじゃねぇか!」
「何のこと?ボクはメダルをそこの窪みに填めてみただけだよ」
「へ?」
ヒカルはぽかんと口を開けて銀貨の填まった蓋を見、棺の中を覗き込み、何度も視線を落ち着きなく往復させる。
「塔矢、確かあれって…」
「『半月の欠片で満月を作り、三日月の光で一つの文字を現せ』だ。何かあったのか?」
「ああ、中に光が入ってきたんだよ。スゲー眩しくてビックリした。けどさ、これ魔鏡じゃん。光を反射させた文様を見るもんだろ?なのに
光が透けてきたんだぜ」
ヒカルの言葉にアキラは一瞬瞳を眇めたが、魔鏡と棺の内部を照らす光とを見比べ、冷静に分析する。
「いや…半分に分かれるということは、どこかに隙間ができるともいえる。これは反射させるだけでなく、一定の条件を充たせば光を透過
させることもできるんじゃないか?」
「その条件がここってことかよ」
「恐らくね」
導き出された答えにヒカルは頷きつつ、填められた魔鏡の表面に描かれた文様を見つめた。
「なあ、塔矢。魔鏡の表面の印は中とか先を示してて、映った印は填めるとか入る、入れるとかの意味じゃねぇか?」
「なるほど。『中』に入ったり『先』に進むために、填める、押す、という指示がそれぞれの記号というわけだな。記号一つに複数の意味と
いうか解釈の仕方があるのは、その場で起こす行動に変化を持たせて、安易に利用させないためだろう」
「ふ、ふーん。何か分かんねぇけど、指示に従ってとりあえず中に入ってみるか。塔矢、蓋を閉めてみてくれねぇ?オレが中で何が起こ
るか確かめるからさ」
「いいけど……大丈夫?」
「へーき、へーき。生き埋めにされるわけじゃねぇんだし」
あっけらかんとしたヒカルの態度を眺めてアキラは溜息混じりに肩を竦めると、蓋を元通り閉め直し、持っていたランプの明かりをギリ
ギリまで絞る。そうすると、月が雲に隠されたのか周囲は一気に暗闇に落ちた。
「……どうだ?なるべく普段の状態にしたいから、ランプは消したけど」
自分で蓋を閉じたものの落ち着かなくて、棺の中にいるヒカルに声をかけてきた。この暗闇のせいか、どういうわけだか急に不安になっ
てきて、一刻も早くヒカルを棺から出したい衝動にかられた。
「はは…暗くて全然分かんねぇや」
そんなアキラの不安定に揺れる心を払拭するように、ヒカルの声は明るく屈託がない。
「今は月が雲で隠れているからね。すぐに晴れると思うよ」
アキラの言葉に応えるように、一旦雲に隠れていた月が再び顔を出し、一筋の光が棺を明るく照らし出した。
それに間髪入れず、ヒカルの興奮した声が、僅かに篭もりながらも棺から零れだしてくる。
「塔矢!あのラテン語通りだ!文字が見えるぜっ!」
「どんな字だ!?形は?」
「数字の…『8』?………どういう意味だろ?」
「さあ?とにかく何かは分かったんだ。蓋を開けるぞ、進藤」
言うよりも先にアキラは蓋に手をかけて半ばまで開けると、ヒカルの身体を素早く抱え上げる。
「ちょっ……!塔矢ぁ!?」
アキラに横抱きに抱えられ、ヒカルは焦って上ずった声を零しながらも、無意識にしがみついた。
「なっ何だよ、おまえ!いくら何でも、ここはマズイって」
そのまま剥き出しの土の上に横たえられたかと思うと、服に手を伸ばしてこんな場所で不埒にも脱がしにかかってくる。慌てて抵抗し
ながら、アキラの腕から逃れようと身を捩った。アキラとはこういうことをする関係ではあるが、さすがに地下墓地では遠慮したい。アキ
ラだって、いつもはこんな場所で手を出すような不謹慎な真似をする男ではないのである。彼は基本的にとても真面目で実直なのだ。
それなのに、ヒカルに手を伸ばしてくる。ひどく必死でどこか怯えたような顔をして。
「嫌だったんだ!キミが棺の中にいるだなんて………」
「……は?」
「想像するだけで怖くなった…キミがいなくなることを、喪うことを考えると…怖くて、怖くて……」
「塔矢……おまえってホントバカだなぁ」
「バカでいいよ…君がいてくれたら、何でもいい………」
「ああ、バカだ。オレはずっとおまえといるよ。誰が離れるって言った?」
たかだか棺桶に数分入っていただけだ。それも本人の意思で。
死ぬつもりもなければ、その気になればすぐに出ることができる。しかもそれを言ったのは、目の前で自分を手放すまいと必死に抱き
締めてくる男だ。体格もヒカルより少し大柄な上に、余りに抱きついてくる力が強いから、正直言って息苦しい。
でも、この程度のことでここまで焦る相手がアキラであることに、ヒカルは可笑しいようなそれでいて幸せなような、複雑な気分を味わ
いながら彼を抱き返してやる。安心させるように。
「――ったく…しゃあねぇヤツだな。今はこれで我慢してろ」
ヒカルはアキラの背中をあやすようにぽんぽんと叩いてやると、そっと触れるだけの口付けをした。
アキラが切れ長の瞳を大きく見開いたのに気をよくして、もう一度キスをする。今度は少しだけ長めに。
たったこれだけで、アキラはとてつもなく嬉しそうに微笑んだ。心からの喜びを表す笑顔は、小さな子供のように無邪気であどけなかっ
た。普段はヒカルよりもずっと大人びている少年だというのに。
こんな彼の笑顔を見てしまうと、離れられないのは自分の方かもしれないと思う。
(オレって……自分で考えている以上に、こいつが大事なんだろうな……)
尤も、棺に入ったヒカルの姿を見たアキラも、同じようなことを考えているかもしれないけれど。
ヒカルはゆっくりと立ち上がると、アキラのネクタイを掴んで引き寄せ、駄目押しに唇を深く重ねる。
大きな犬に懐かれている気分を味わいつつ、わざと邪険に引き剥がし、刷毛などの道具を片付けるように言いつけて、ランプの火を明
るく調節した。これからまた地下道を引き返すのだから、ランプは必須アイテムである。
アキラは甘えてくる時は犬っぽいが、その実、野生の狼のような怖さも持ち合わせている。日頃は優しく穏やかで冷静沈着、だが内面
は激情家で情熱的、負けず嫌いで意地っ張りな上に我も強い。どうでもいい相手には冷徹に切って捨てる冷酷さも持っているが、執着
した相手に対してはとことんまでしつこい。自慢にもならないが、それはヒカルが身をもって体験している。しかも見た目以上に腕っ節も
強い。口喧嘩ではヒカルは負けっぱなしな上に、未だにアキラに腕づくの喧嘩で勝てた試しがない――負けたこともないが。
いや、野生の狼なんて、彼には生易しい表現だ。アキラのあの激しさから相応しいのは、竜が一番しっくりくる。
常は穏やかに世界を見守る伝説の神獣は、一度猛ると凄まじい嵐を巻き起こして人々を翻弄し、時には粛清する。
我ながら上手い例えだと自画自賛したが、そうするといつもそんなアキラと一緒にいる自分はどうなるのかとふと思い、すぐに考えるの
を放棄した。東洋人の感覚で竜と並び立つ存在は、東洋における百獣の王であるトラ以外に有り得ない。
いくら何でも、自分はそんな物騒な存在ではないつもりだ。
だが、進藤ヒカルという少年を知る者は、彼を虎だと表現して憚らない。知らぬは本人ばかりである。
アキラとヒカルはこれ以上ない成果を上げることができて、多少なりとも浮かれていたのかもしれない。
聖杯に関する謎も、魔鏡の文字を完全に解読すれば相当な成果だ。そして暗号によって謎の文字を手に入れられ、これからどんな進
展が期待できるか心も躍っていた。
一刻も早く手に入れた数々のパズルのピースを組み合わせ、答えに辿り着きたい。誰もが思うことである。
常ならば必ずといっていいほど、他の脱出口を事前に探すというのに、こんな時に限って逃してしまう。二人は今回は珍しくも、別の出
口を探そうとはせずに、馬鹿正直にも元の入口から出ることにしてしまった。そこに待ち受けているものがあるとは知らずに。
「ご苦労様、アキラ君。それに進藤」
ヒカルとアキラが回転扉から出てきて、まず最初に聞いた第一声が、その言葉だった。
次に見たのは、煙草をくゆらせて佇む白いスーツを着た男と、自分達に狙いを定めた何十という銃口。
アキラとヒカルはスイスでは日本軍から間一髪逃れたものの、イタリアでナチス傘下のドイツ軍に捕まった。
二人にとっては、全く有り難くないどんでん返しであった。