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 ヒカルとアキラは暖炉の内壁にピタリと背中を貼りつけ、隠し扉が回転する時期を見計らう。火が勢いを増している状況でも隠し扉の 
スイッチは切られており、二人では動かすことができないのだ。だが、火事に気付いたのなら、彼らがさほど間をおかずに戻ってくるの
 
は間違いない。自分達をまだ生かすつもりでいるなら見殺すわけにもいかない。
 
 それに放っておけば炎はこの要塞を焼き尽くす。要塞ならば補充用に弾薬庫などがあるのも確かで、尚更無視するわけにはいかな
 
いだろう。一向に衰えない火勢に室温は上昇してサウナのようだった。これ以上温度が上昇すれば、本当に蒸し焼きになってしまう。
 
 暖炉の中にいる二人の顔は炎と熱風で真っ赤に染まり、汗が頬を滑って顎を伝い、床に幾つもの染みを作っていた。
 
 煙を吸い込まないように口元を布で覆いながら、神経を張り詰めて待った時間はさほど長くはない。しかし炎が乱舞する部屋に閉じ込
 
められた二人にとっては、とてつもなく長い時間に感じられるものだった。耳を澄ませて待っていると、壁越しにドイツ語の会話が聞こえ、
 
スイッチの入る音がした。それと同時に、ヒカルは足元のレバーを踏みつけた。
 
 低い音を立てて回転する暖炉の壁に身を隠し、二人は攻撃の機会を窺う。唐突に動き出した隠し扉に多少驚いた兵士だったが、捕虜
 
の二人の仕業だと察して完全に開ききる前にスイッチを止めた。だが彼ら自身は気にも留めないような僅かな隙間ができてしまっていた。
 
 大柄な軍人では通れなくても、細身の少年なら充分通れる空間が。
 
 彼らがそれに気付いた時には既に遅かった。何故なら、気付いたと同時に暖炉の影から拘束されていた筈の二人の少年が飛び出して
 
きていたからである。アキラの持つ縄が蛇のようにうねり、咄嗟に銃を掴んだ兵士の手から武器を跳ね飛ばす。
 
 銃は虚空を待って、差し出されたヒカルの手に吸い込まれるように落ちた。ヒカルは間髪入れずに素早く構え、数人の兵に向かって引き
 
金を続け様に引く。六発の銃弾は全て狙いを外すことなく、彼らの銃を一瞬にして弾き飛ばした。
 
 その間もアキラは縄を鞭のようにふるって、兵士達の銃を叩き落していく。遺跡探索の際には必ず使う自分専用の鞭を眼の端で確認す
 
ると、丁度そこから彼に狙いを定めようと銃を構えた兵の手に、縄を叩きつけた。
 
 取り落とした武器を拾う隙も与えないように一気に距離を詰め、回し蹴りで身体ごと薙ぎ払う。アキラは荷物を確保しつつ縄から鞭に持
 
ち替えると、手近な敵の一段を縄の一振りで沈黙させ、武器を奪い取っては撃ちまくるヒカルに彼愛用の拳銃を投げ寄越した。
 
「進藤!」
 
「サンキュー!塔矢」
 
 ヒカルは口元に不遜な笑みを閃かせて銃を手にすると、兵士に向けずに天井に狙いを定めて弾を発射させる。
 
「はっ!どこに向かって……」
 
 訓練された軍人も顔負けの二人の動きに舌を巻いていた者も、見当違いの方向を撃ったヒカルに対して冷笑を浮かべた。やはり所詮
 
は子供かと薄笑いしたその顔が次の瞬間凍りつき、驚愕に変わった。
 
 部屋の中央に吊り下げられた、要塞にそぐわない巨大なシャンデリアが風を切って落下する。
 
 ヒカルの意図を理解した者は非常に少なかったが、分かったところで既に止める術はなかった。
 
 最初からヒカルは、シャンデリアを落とすことを一つの手段として考えていたのである。
 
 軍がここを使用する前は、この要塞は一代で成り上がったさる人物が建てた城だった。シャンデリアは持主が成金趣味で取り付けた
 
ものであったが、後に破産し軍が破格で買い取ったという経緯がある。
 
 要塞として立地条件もよく、城自体が石造りで頑丈であったのも決め手となったらしい。無論、そんな事情などヒカルには知ったこと
 
ではない。考古学を主とするアキラとは趣が異なり、ヒカルはトレジャーハンターとして動いている。それもあって目利きは得意で、シャ
 
ンデリアや城が最近作られたものであると判断していた(アキラも当然ながら同程度の鑑定眼は持っている)。
 
 ヒカルにとって一番重要なのは、今この場で何を役立てるか、ということだった。
 
 そこで目をつけたのが重さ二トン以上に及ぶシャンデリアだ。それだけの重さのものを鎖一本で支えるのだから、鎖は相当な太さであ
 
る。だがそれも、銃弾を何発か浴びれば一部が欠け、他の部分は加重に耐え切れずに断ち切れてしまう。
 
 殆ど一発にしか聞こえなかった銃声だが、実際には優に三発は放っていた。この速射能力は恐ろしくとんでもない技術である。
 
 しかも撃った反動から標的を外しもしない。寸分違わぬ場所を完璧に打ち抜いていた。
 
 兵士達にとってそんな事は全く問題ではなく、むしろ考える余裕もなかった。眼の前の危機を回避する方が先決である。 
 ヒカルの狙った鎖はその意図通りに断ち切られ、シャンデリアは豪華な凶器と化して落下した。シャンデリアの真下には基地の心臓と
 
もいえる通信機器や、様々な機材が所狭しと並べられていた。それらを全て、巨大シャンデリアは重力の法則と重さで潰したのである。
 
 兵士達は一瞬の判断で辛うじて難を逃れ、幸いにも事なきを得たものの、この基地が機能しなくなってしまったことを認めざるを得な 
かった。たった二人の少年によって壊滅的な打撃を与えられた現実に、半ば茫然としてしまうのも無理はない。
 
 濛々と立ち込める埃の中を、騒ぎの元凶であるヒカルとアキラが動じることなく逃げ出すのを、止めることもできなかった。
 
 シャンデリアが落下した音を聞きつけて緊急事態を悟り、集まってきたドイツ兵を退けながら、二人は階段を一気に駆け下りる。
 
 アキラが振るった鞭によって叩きつけられた者は、手首を折られて銃を取り落とし、或いは肋骨を折られて倒れ臥していった。
 
 貴公子然としたアキラの外見には想像もつかないが、鞭を扱うことにかけてはヒカルを凌ぐ達人である。鞭で打たれた痛みは戦意を
 
喪失させるだけでなく、銃よりも歴史が古いだけに、鞭という武器に対する恐怖も意識下に刷り込まれ、植えつけられているのだ。
 
 一撃の殺傷能力は低い武器であっても、攻撃力は使う者次第で銃をも上回るのである。
 
 姿を確認される度に戦い、時には逃げながら、二人は一階の駐車場に辿り着いた。一時的な時間稼ぎに扉に鍵をかけ、アキラとヒカ
 
ルは自分達が乗れそうな乗物を手早く物色する。中からは来られないように鍵をかけても、ガレージの出入り口となるシャッターは車高
 
ギリギリまで開けておいた。下手に塞いで外に出られなくなっては逃亡した意味がなくなる。かといって悠長に構えている時間もない。
 
 決めるにしても一刻も早くしなければならない。指令が回って駐車場付近には兵が集まりつつあるはずだ。
 
「車の運転はオレまだできねぇや。バイクならいけるけど」
 
「ボクは両方できるけど……でもどうせなら、小回りのきくバイクの方がいいだろうな」
 
 意見を纏めてガソリンが満タンになっている軍用バイクを拝借すると、アキラが運転しヒカルが後ろに跨る。
 
 開いたガレージのシャッターから差し込む光を掻い潜るように走り出し、広い敷地の先にある門を目指した。
 
 何人もの兵士が建物や演習場から出てきて、アキラとヒカルに向かって発砲する。だがバイクに乗る二人に弾を撃っても、その速さ
 
に追いつけずに虚しい音がこだますだけだ。周囲の喧騒などものともせず、アキラは冷静な表情で照準を合わされないように右に左
 
にバイクを動かしながら、背後のヒカルに話しかけた。
 
「進藤、駐車場を狙ってくれ」
 
 銃撃音の中でもアキラの声はよく通り、ヒカルにははっきりと聞こえる。しっかりと腰に掴まった体勢でいたヒカルは顔を上げ、バイク
 
のエンジン音に掻き消されないように大きな声で訊ねた。
 
「何で?」
 
 風上のアキラと違い、風下ヒカルの声は流されてしまって非常に通り難い。それでもアキラにはちゃんと届いたようで、こちらを一瞬
 
振り向いた気配が伝わってきた。
 
「彼らの足を奪うんだよ」
 
「あー…そっか!なるほどね。相変わらず悪知恵が働くよな〜、おまえ」
 
 ヒカルにも即座に合点がいった。彼の腰に腕を回していなければ、手を打っていたに違いない。
 
「……失敬な………」
 
 不満そうにアキラは小さく呟く。これでは自分がいつも極悪な計略や計画ばかり立てているようではないか。駐車場を狙うのは、あく
 
までも足止め手段の一つに過ぎない。誰だって思いつく当たり前の方法だ。軽口を叩いていたヒカルは片腕をアキラの腰に回したまま
 
支えにすると、ポケットから拳銃を取り出した。飛び交う火線をものともせずに身体を捻り、銃口を後方に見える駐車場に向ける。
 
 二人が出るまでは中途半端に開いた状態だったが、逃亡者を追うつもりなのか数人の兵士が丁度シャッターを開けようとしていた。
 
 ヒカルは口元に笑み浮かべて腕を真っ直ぐに伸ばすと、駐車場に向かってたて続けにトリガーを絞った。
 
 左右に激しく動くバイクの上では照準などまともに合わせられないというのに、彼の放った銃弾は給油用のドラム缶やタンクに幾つも
 
の穴を空ける。中からとめどめもなくガソリンが零れだし、たちまち駐車場は特有の匂いに充たされた。シャッターを開けようとしている
 
兵士達が匂いに気付くよりも先に、ヒカルは続けて引き金を引く。すると傍に駐車してあった軍用ジープに当たり、兆弾して周囲に火花
 
が飛び散った――とほぼ同時にドラム缶が膨張し爆発する。炎はガソリンタンクにも飛び火し、更なる爆発を引き起こした。
 
 シャッターの傍にいた兵士達は最初の爆発で逃げ出したものの、要塞の中の混乱は輪をかけて激しくなる。
 
 駐車場内ではジープやバイクも巻き込まれて誘爆を引き起こし、炎の塊と化して内部を赤く染めた。
 
 大量に流れたガソリンは気化し、ヒカルが撃った銃弾の火花によって引火して、ドラム缶やタンクを爆発させた。
 
 つまりは、ヒカルはジープと銃弾をマッチ代わりに利用したのである。炎に包まれた駐車場には、まともに使えるものは一つとして残
 
っていない。彼らの足はこれで完全に奪ったことになり、追いかけられる心配も当面ないだろう。
 
「お見事」
 
「当然っしょ」
 
 門を走り抜けながら一瞬だけ駐車場の惨状を眺めて告げたアキラの言葉に、ヒカルはにっと笑って胸を反らす。まるで悪戯が成功
 
したかのような口調だが、その笑みは怜悧な男のものだった。それにアキラも応えるように不遜な笑みを浮かべ、二人はその後要塞
 
を一顧だにせず後にした。森の中を走りながら、ヒカルとアキラは今後の方針を簡単に決める。
 
「こっちから行くとしたらミュンヘンだな」
 
「そうだね。そこからヴェネチアに渡って海路で目的地に向かおう」
 
 緒方には時間がなかったから内容は知らないと告げたが、実のところアキラは拓本をとりながらラテン語をしっかりと読んでいた。 
 棺の蓋に何が書かれていたのか理解し、目的の場所の見当もつけている。緒方には恐らくばれているだろうが。
 
「回路?空路の方が早くていいんじゃねぇの?」
 
 風に流れる漆黒の髪を見上げ、陽光に照らされる金色の前髪を揺らしながら不思議そうに尋ねる。
 
「ボク達には軍の後ろ盾もないから、空路は危険だよ。要塞の件もすぐに知れるだろうしね」
 
 確かに空路は各国の軍隊が掌握しているようなものだ。認可を受けていない民間機を飛ばす方が危険だといえる。
 
「それもそうか」
 
「ミュンヘンに着いたら列車か飛行船に乗ろう。一刻も早くドイツ国外に脱出した方がいい」
 
「ああ」
 
 頷いたヒカルの背後では、爆音が何度も響き、木々から音に驚いた鳥達が一斉に飛び立つ。
 
 二人が街道に出た頃、一際大きな爆発音が風光明媚な森を揺らすように轟いた。
 

 ミュンヘンに着いた時は既に夜が迫る時間帯であった。
 
 二人は戦闘と火事で薄汚れた身だしなみを何とか見れる状態にして、ホテルに泊まって落ち着くことに決めた。
 
 本来ならすぐにでもドイツ国外へ脱出を図りたいところだが、何の下調べもせずに列車や飛行船に乗るわけにもいかない。
 
 それにミュンヘン到着時点で駅には一応向かったものの、今日は予約で既に一杯で空いた座席がなかったのである。
 
 アキラとヒカルは駅員を捉まえて列車の予約・運行状況や行き先、飛行船に関する情報なども手に入れて、一先ずホテルで体制を
 
立て直すことにした。海路で目的地に向かうからには、早めに準備を済ませておかねばならない。
 
 友人に船ですぐ出発できるよう頼む旨の至急の電報を打ち、二人は久しぶりのベッドで眠った。
 
 翌朝早朝、アキラとヒカルは飛行船に乗り込み、旅行者を装って席に座っていた。二人ともホテルに泊まって身支度を整えたお陰
 
で、要塞を破壊した時の薄汚れた状態とは打って変わってこざっぱりと小奇麗にしている。
 
 一見すると、昨日の少年達と同一人物には全く見えない。要塞の施設や通信機器は粗方壊れていただろうから、昨夜の時点では
 
何も伝令は回っていなかったようだが、一夜明けた今日はさすがに油断できない。
 
 荷物の中に眼鏡などの小道具も入れておいたので、アキラは髪型をいじりスーツと眼鏡で雰囲気を変え、ヒカルも変装していた。
 
 びくびくした態度でいると不審に思われ、怪しまれる可能性が高くなることもあり、表面的には悠然と足を組んで出発を待つ。
 
 そんなアキラに対してヒカルは、そわそわとして落ち着かない様子だ。とはいえ、ヒカルの場合は怯えや不安といった感情から落ち
 
着かないのではなく、苛ついているのが一番の理由だった。ヒカルは前髪だけが金髪という容姿が目立つので鬘を被っているものの、
 
その程度の理由では苛立ちの原因にはなりようがない。もっと別のことでヒカルは苛々しているのだ。
 
「進藤…」
 
「うるせぇ」
 
 アキラの窘めるような声に、ヒカルは噛み付くような口調で返してそっぽ向く。完全に拗ねている。
 
 そんなヒカルの態度にアキラは小さく溜息を吐いたが、タラップを上ってくるナチスの軍人の姿を見つけて、伊達眼鏡の奥の瞳を油
 
断なく細める。軍人は手に手配書のようなものを持っているのも見逃せなかった。恐らく自分達の情報が載っているに違いない。
 
「我が軍の施設を破壊した凶悪犯が逃亡したとの情報が入りました。申し訳ありませんが、出発前に確認だけをさせて頂きます」
 
 軍人は客室に入ってくると、手配書を広げながら慇懃に告げた。
 
 一番奥まった席のヒカルとアキラのところまでやってくると、彼はアキラの顔をしげしげと眺め、俯いたままのヒカルを見下ろした。
 
(東洋人だが年齢が手配書よりも上に見えるな。それに男二人連れの筈……しかし何か気になる)
 
 軍人が思わず立ち止まって見つめたのは、この飛行船で確認するのは彼らが最後であったことと、年齢的に手配書の二人に近くし
 
かも東洋人であったからだ。この当時のヨーロッパで東洋人を頻繁に見かけることはない。
 
 写真とつい見比べてしまうのも当たり前である。アキラは自分の姿を眺める軍人に全く動じなかった。手配書の人物が東洋人となれ
 
ば他の客より注目するのは当然で、こんな事は想定の範囲内であり驚くほどのことではない。
 
 欧州人には東洋人の顔の区別がつきにくく、写真と見比べられたところで大して影響がないと分かっている。
 
 陸路ではなく危険な空路を選んだのは、敵の裏をかくことも一つだが、時間の短縮がメインだった。陸路では友人と落ち合う場所に
 
着くのに半日以上かかってしまうが、空路を使えば数時間で済む。一か八かの賭けであるものの、勝ちを収める目算があった。
 
「失礼ですが、こちらの女性は奥様で?」
 
 手配書と同じ東洋系人種ということもあり、念のため軍人は通路側の席に座る男に声をかけた。
 
「はい、ボクの妻です」
 
 男はさらりと頷き、女性の華奢な肩を抱き寄せて自慢たらしい笑顔を浮かべる。留学生なのか、答えた言葉も嫌味なほど流麗なドイ
 
ツ語で、訛ったところなどない。洗練された服装からして、富豪の御曹司だと窺える。
 
 恐らく二十歳くらいなのだろうが妙に落ち着いた雰囲気の人物で、手配書の子供とは髪型は勿論、年齢もまるで違って見えた。
 
 子供は二人とも十五、六歳。年高に見てもせいぜい十七歳〜十八歳までが関の山である。眼の前の東洋人は眼鏡をかけたインテリ
 
然とした男で、いかにも苦労知らずの金持ちのボンボンという風情だ。いかにも特権階級らしい尊大さが鼻につく。
 
 写真と比べると、男は秀でた額を出して髪型もまるで違う。
 
 個人的に彼としては嫌いなタイプの人間で気に食わない男だが、別人だと判断した。
 
 とはいえ、二人組の子供のどちらも結構な容姿の持主で、どちらかが女装している可能性も否めない。例え別人に見えても、東洋
 
人である以上、完全に疑いを払拭するわけにはいかなかった。二人とも無関係な旅行者なのだろうと思うのだが、一応全員の顔は見
 
て、仕事は忠実にこなさなければならない。何せ相手は軍の要塞を丸ごと吹き飛ばした、東洋人二人組の凶悪犯なのである。
 
 幸いにも退避が早かったお陰で、負傷者の大半が軽い火傷と打身や擦り傷、重傷者も骨折くらいで済んでいた。死者や行方不明
 
者もなく、人的被害という点においては重大ではなかったものの、問題は施設の方だった。彼らを閉じ込めていた隠し部屋と駐車場
 
で起こした火災は、最終的には弾薬庫にまで達し、誘爆を引き起こして要塞は完全に壊滅、瓦礫の山と化したのである。
 
 修復不可能なほど破壊しつくされ、要塞としての機能は欠片も残っていない。破壊的な大破壊を引き起こした恐るべき人災として、
 
二人組のことは軍関係者の間ではもっぱら噂になっている。
 
 彼は眼の前にいる二人の男女が件の凶悪犯だとは夢にも思わず、旅行者に対するように丁寧に接した。
 
「すみません、お嬢さん。お顔を拝見させて頂けますか?」
 
 俯いた女性はビクリと方を震わせ、怯えたように益々身体を縮み込ませる。
 
 まるで自分が苛めているような気分になって、妙に心苦しかった。
 
「大丈夫だよ。怖いことはないから」
 
 男はこれ見よがしに優しく妻に話しかけている。元からいけ好かなかったが、より一層いけ好かない野郎だ。こいつが手配書の凶
 
悪犯だったら、一発殴ってやりたい、ていうか殴らせろ。心中で歯軋りしつつ罵りながら、彼は精一杯愛想笑いを浮かべてみせた。
 
 それに男は満足したのか、妻を宥めると顎に指を添え、顔を上向かせる。
 
「……………」
 
 その瞬間、少女の顔を真正面から見た彼は、怖がらせないように愛想を振り撒いた顔のまま固まった。次にぽかんと口を開けて
 
間抜け面を晒し、茫然と少女の姿に見惚れてしまう。今までの人生の中で、これほどの美人に遭遇したことは一度としてない。
 
 何だって金持ちはこうも恵まれるんだ、と見当違いの腹を立てる余裕すらもなかった。
 
 愛らしい桜色の唇には派手ではない口紅が塗られ、清楚な中に誘うような色香がある。すっきりとした眉は意志の強さを感じさせ、
 
砂色の瞳は濡れたような輝きを放っていた。東洋系だけでなく西洋の血も混じっているのか、鼻梁もすっきりと整っている。
 
 女性らしい柔らかな顎の線に沿うように黒髪が流れ、まさに東洋と西洋の美を併せ持った芸術品のようだった。
 
「もう宜しいですか?」
 
 時間としては数秒だったのだろうが、声を失くして茫然と魅入られてしまっていた。少女の夫の声で我に返り、慌てて敬礼する。
 
「こ、これは大変失礼致しました!実にお美しい奥様で……」
 
 当たり前だと言わんばかりに鼻を鳴らして男が手を離すと、少女は夫の胸に顔をすぐに埋めてしまい、それ以上拝顔することは
 
残念ながら適わなかった。正直言って、あれだけの美少女ならもっと見ていたいと思ったのだが、次の便でもまだ職務を遂行せね
 
ばならないし、この機が飛び立つ時間も差し迫っている。
 
 名残惜しく感じながらも彼は二人の席から踵を返し、きびきびと歩いて入口まで戻った。
 
 最敬礼をして乗客全員に協力に対する感謝を伝えると、タラップを降りる。
 
 出発準備を慌しく始めた飛行船を振り返り、少女の姿をもう一度思い描いて溜息を吐いた。羞恥を残した初々しい様子からして、
 
新婚旅行をしている最中なのだろうか。結婚どころか恋人すらいない彼にとっては、何とも羨ましい話である。
 
 世界の不条理と社会の格差を内心罵りながら、彼は飛び去る飛行船を見送った。
 

 飛行船がイタリアのヴェネチアに到着しても、慣れないヒールを履いた足が痛くて、ヒカルは席から立ち上がることもできなくなっ
 
ていた。ナチスの眼を欺く為にどちらかが女装すると決めたのはいいが、そのお鉢が自分に回ってきたのは正直頂けなかった。
 
 結果的には完璧に出し抜けたわけだが、ヒカルの機嫌は今も最悪だ。特に飛行船でバカ軍人にアホ面で見つめられた時は、スカ
 
ートの下に忍ばせた銃をもう少しで抜いてしまいそうになったほどである。ガーターベルトで留めた銃に伸ばしそうになった手をアキ
 
ラが密かに押さえつけなければ、ヒカルは怒りと羞恥で暴れだしていたに違いない。
 
 この女装作戦を思いついた時は名案だと自分を褒めたくなったものの、いざどちらがそれをするか決める段になって、揉めに揉め
 
た。言いだしっぺはどちらでもなく、二人同時だったお陰で話のややこしさに拍車がかかったのは言わずもがな。
 
 無益に時間を過ごしていても仕方ないので、ヒカルとアキラは女装をかけて囲碁で勝負をし、結局負けたヒカルがすることになった
 
のである。緒方と倉田あたりなら、ヒカルもアキラも二人とも絶対に似合うのだから、公平に二人一緒に女装すれば良かったのに、
 
と有り難い意見を面白がって告げたことだろう。飛行船から粗方客が降りたところで、アキラは立ち上がった。
 
「そろそろ行こう、進藤」
 
 ドレス姿で痛みに蹲ったまま動かないヒカルを抱え上げると、ポーターに荷物を持たせて出口に向かう。
 
「うわぁっ!何すんだよ!おまえ!」
 
「イヤだな、奥さん。夫として当たり前のことをしているだけだよ」
 
 いけしゃあしゃあと恥ずかしげもなく話すこの唇を、噛み千切ってやれるものならやっているところだ。ヒカルは痛みで歩けない足
 
を呪わしく思いながら、アキラを睨みつけた。
 
「誰が奥さんだっ!誰が!」
 
 他に客がいないからいいものの、ヒカルの怒声は俗に言う『お姫様抱っこ』をされている少女のものとはかけ離れている。
 
 大事にどこかに飾っておきたいような愛らしい美少女のイメージにそぐわないこと甚だしい。
 
 暴れ続けるヒカルの往生際の悪さに、アキラは口元に意地の悪い笑みを浮かべると、ヒカルの身体を支えている両腕を一瞬放す。
 
「わ…わわっ!」
 
 咄嗟にヒカルは縋るものを求めて、アキラの首にしっかりと両腕を巻きつけてしがみ付いた。
 
 ヒカルの身体を素早く抱え直したアキラは狭い通路を歩き出す。
 
「て……てめぇ!何しやがるっ!」
 
 また落とされかけては適わないと思っているのか、ヒカルは腕を回したまま怒鳴りつけてくる。だが今のアキラには、罵声を浴び
 
せてくるヒカルの姿も可愛くて堪らない。
 
「レディはおしとやかにね、進藤」
 
 喚く赤い唇を軽く啄ばむと、ヒカルは真っ赤になって黙り込んだ。
 
 大人しくなったヒカルに微笑みかけ、アキラは揺るぎない足取りで平然とタラップを降りる。
 
 その様子はどこから見ても、絵に描いたように仲睦まじい恋人同士か新婚夫婦の姿であった。タラップを降りたそのすぐ先には、
 
頼んでおいた馬車が停まっている。御者が降りて恭しく扉を開けると、アキラはヒカルをそっと乗せてやった。
 
「おまえ……絶対に面白がってるだろ」
 
 椅子に座りながらぼそぼそと文句を言うヒカルに、大仰に眼を見開いてみせる。
 
「え?そんな事ないけど?」
 
 口で言っていることと、態度はまるで別物だ。アキラは明らかにヒカルの女装姿にご満悦で、大喜びである。絶対に面白がっている。
 
(いつかこいつにも女装させてやる!)
 
 動き出した馬車の中で、ヒカルは心で固く復讐を誓ったのであった。