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 目的地の港で二人が馬車を降りると、先に連絡しておいた友人が船着場から走ってきた。白っぽい髪をした日本人の少年で、 
彼らよりも背が高く雰囲気も大人っぽい。彼はヒカルとアキラの共通の友人で、社清春という。社は乗物などを調達したり、運転
 
する技術に長けた人物で、二人との付き合いも長い部類に入る。
 
 社は若いが、この業界では有名人だ。仕事の迅速さと確実さは、どんな大手の会社にも負けない。彼が経営しているのは、小
 
さな運輸会社であるにも関わらず、今や年商では大手に負けないほどだった。電報を受け取ってほんの一日程度しか時間が経
 
っていないにも関わらず、約束の期日までに必要と思われる船や備品を用意し、ヴェネチアに先回りして二人が訪れるのを待つ
 
など、並の業者にはできない。この速さは社のプロとしての自負の表れでもある。
 
 二人に向かって近付きながら、社はふと首を傾げた。アキラは見慣れた変装姿だが、ヒカルが見当たらない。代わりに、アキラ
 
は少女を抱えて立っていた。俗に言うお姫様だっこという抱き方である。あのアキラが、ヒカル以外の相手をあんな風に大事そう
 
に抱き上げるなど、有り得ない。恐らくあの美少女はヒカルに違いない。そう予測を立てると、社は思わず小さく噴き出していた。
 
 一方のヒカルは、ヒールを脱いでも足は未だに痛くて、アキラにまたも横抱きにされて不満たらたらだった。もしも社がこの姿を
 
見て笑いでもしたら、ヒールの踵で殴ってやる、と物騒な報復を考えていた。
 
 社は二人の顔がはっきりと分かる距離に近付くと、挨拶もそこそこに開口一番で感嘆する。
 
「うっわー!進藤エライ別嬪になっとるやないか!塔矢、おまえ役得やん」
 
 女装姿のヒカルの姿は、本来の姿を知っている社ですら見惚れてしまったほどだった。
 
「そうなんだ、ボクもこんなに似合うなんて思わなかったよ」
 
 同意を得られてアキラは大層上機嫌で、抱き締めたヒカルに頬を摺り寄せたりなんぞしている。
 
 両手が塞がっているアキラの代わりに道に置かれている荷物を持つと、先に立って社は歩き出した。歩きながら事情と顛末を聞
 
いて苦笑を禁じ得なかったが、睨みつけてくるヒカルの視線から逃れるように顔を背ける。
 
「ええな〜。オレも進藤みたいな美人の嫁さん欲しいわ」
 
「あげないよ」
 
 本当に女の子だったら心底羨ましいが、どんなに可愛くてもヒカルは男だと分かっているので、これはあくまでも社交辞令である。
 
 アキラも社特有の軽口だと分かっているので、応酬も心得たものだ。
 
「自分で見つけるからええわ。腰抜かすような美人連れてきたるで」
 
 実際、例え性別が女であったとしても『進藤ヒカル』だけは嫁にしたくない、と社は思っている。
 
 良くも悪くも強烈な存在感を持つヒカルを相手にするのは、アキラ以外にいない。そしてアキラの伴侶たる人物もヒカル以外に有り
 
得ないのだ。彼らが二人で一緒にいることが、社にとっても周囲の人々にとっても平和な生活への道筋なのである。
 
 馬というよりも虎と竜に蹴飛ばされたくないから、この二人の邪魔をするような酔狂な物好きはそうそういない。
 
「進藤以上に綺麗な存在なんて、男でも女でもいやしないよ」
 
「へいへい」
 
 アキラとヒカルの関係を知っている社は、この程度の惚気にはツッコミもいれずにさらりと聞き流しておく。もっと強烈な惚気を聞か
 
されたりしているだけに、相当免疫ができていた。軽く肩を竦めてご馳走さんとばかりに手を振ってみせる。
 
「けどホンマ、女装似合っとるで、進藤」
 
「あぁ!?撃ち殺されてぇのか?社」
 
 社としては本気で褒めたのだが、ヒカルは気に入らなかったようだ。ヒカルの本気の入った脅し文句の恐ろしさに、社の背中に冷
 
汗と悪寒が伝う。今まで大人しく黙っていたのでそんなに機嫌が悪くないのかと思っていたのだが、とんでもない勘違いだった。
 
 どうやら不機嫌の余り口数が少なくなっていたらしい。
 
 ヒカルの地を這うような声は、愛らしい女装姿とは裏腹にひどく男臭かった。幾つもの修羅場を潜り抜けてきた男の殺気が、少年
 
期の高い声に込められているのだから何とも言い難い。アキラに抱えられたままの姿であっても、恐ろしい威圧感だった。
 
(ひぃぃ…怖っ!)
 
 荷物を放り出して逃げたいとすら思ったが、そんな真似をすると王子様の逆鱗に触れてしまう。女王様も怖いが、怒った王子様
 
もこれまた恐ろしいのだ。社は取りあえずヒカルから視線を逸らして、何とかフォローを頼むと救いを求める眼をアキラに向けたが、
 
実に綺麗に無視された。自分が撒いた種は自分で何とかしろということらしい。
 
(相変わらずの性格やな………こいつ)
 
 内心呆れて溜息を吐くと、まるで心を読んだようにアキラに睨まれた。
 
(ホンマに似た者同士や……)
 
 些かげんなりしつつ、心で慨嘆する。この二人は剣と鞘のように合わさり、填まる存在だ。それだけに、彼らは互い以外の存在
 
に対して冷淡な傾向もある。世界に二つとしてない魂を求め合うからこそ、他者をどこまでも蔑ろにできるのかもしれない。
 
 だが社はこの程度でへこたれるような柔な精 神をしていなかった。これまでに何年も付き合い、それはもう色々と経験をさせて
 
頂いてきている。こんなものは序の口でじゃれ合いの域を出ないくらいだ。
 
「……おまえら、夜はあんましうるそうすんなや」
 
 付き合いが長いだけに、二人の関係もよく分かっている。キスだけの純愛ではなく、濃厚で深い交わりも彼らの間にあることも当
 
然ながら理解している。だからこそ、船に乗る前には一言釘を刺しておく必要があるのだ。
 
 先刻、脅されたり無視されたりした逆襲も、これには含まれている。ささやかな報復は先にしておかないと、後回しにするとそんな
 
機会を与えて貰えないまま、仕事が終わる場合が多いからだ。この報復は、砂色の瞳を大きく見開き、顔を真っ赤にした様子から
 
してヒカルには多少有効だったようだが、もう一人には全く無効だったらしい。
 
 アキラは腕の中の大事な想い人の反応に薄い笑みを浮かべると、整った唇を不敵に吊り上げて答えた。
 
「一応留意しておくよ」
 

 イタリア国外に出て船が安全に海上を滑り始めると、緊張の糸が切れたのか、アキラは広めのベッドの上に身体を投げ出して大
 
きく息を吐く。ここ最近休む間もなく張り詰めた状態だったので、ひどく疲れてもいた。
 
 風呂にゆっくり入れて久しぶりにリラックスできたからか、身体から疲労が滲み出てきているように感じる。
 
 ミュンヘンのホテルで泊まったといえ、殆ど眠っていない。いつナチスの親衛隊に急襲されるかどうか分からない状況では、眠れる
 
筈もなかった。ヴェネチアに向かう飛行船の中でも、ヒカルの手を握ったまま警戒を解けずにいたのである。ナチスの軍人が傍に来
 
た時など、一番ヒヤヒヤさせられた。ほんの僅かでも選択を間違えていたら、ここにこうしていられなかった筈だ。
 
 ヒカルが銃を手にした時は本気でどうなるかと思ったが、騒ぎも起こらず何事もなく着けて、心底ほっとした。ヒカルもアキラと同じ 
くらい疲れきっている。だからこそ、社に多少からかわれたくらいで、あんなにも殺気立ったのだろう。 
 緊張の連続から解放されたからか、今更のように身体中がギシギシと痛み始めている。ドイツ軍の要塞で戦った時は、ヒカルと自
 
分の身を護るのに必死で一々意識していなかったが、無傷では済んでいない。
 
 顔は変装のために死守したが身体は何度も殴られたし、銃弾が掠めたことなど数えきれない。よくぞ二人とも五体満足で生きて
 
ここまで辿り着けたものだと、嬉しいさと感心を覚えるだけでなく安堵で胸が一杯になる。身体の傷は二、三日もすれば治るが、命
 
は奪われてしまえばそれでおしまいだ。
 
 今回の件を一刻も早く片付け、無事に生きて帰り、ヒカルと元の生活に戻りたい。それがアキラの本音だった。だが、再びスイス
 
に戻って生活を再開したとしても、決して楽とはいえない状況なのは変わらない。
 
 さっき抱き上げたヒカルの身体の重みが、アキラの腕の中に残っていた。――また痩せたかもしれない。
 
 ここ数日であそこまで軽くなる筈がないだろう。やはり、配給の量が減ってきた影響もあるに違いない。
 
 ヒカルは年齢の割には身体つきも華奢で細く、幼い印象を受ける。彼の里親だった藤原佐為が病に倒れた頃から一年以上、自
 
分の食費を削って看病や薬代に資金の殆どを使い、栄養不足で身長も余り伸びなかった。成長期の身体に栄養の不足は決定
 
的なマイナス要因である。成長が遅くなり、肉体にも良い影響を及ぼさない。
 
 アキラの元に来てからある程度伸びはしたものの、相変わらず痩せて細かった。ヒカルと一緒に暮らし始めた当時はまだ状況は
 
マシで、できる限り栄養を摂らせることができたが、今では満足に食事すらさせてやれない時もある。しかしアキラはもうヒカルを手
 
放すことなどできない。これからもっと苦しくなると分かっていても、ヒカルと離れられない。
 
 聖杯にここまで関わった以上、全てを見届けるまでは後戻りできないと、分かっているように。
 
 社とは軽口を叩きあったりもしていたものの、本当は一刻も早く目的地に向かいたかった。それと同時に、余り聖杯に関わり合い
 
たくないとも思う。いや、むしろこれ以上の深入りは身を滅ぼし兼ねない。これまでヒカルや自分が危険な目にあったからこそ、黙っ
 
て大人しく引き下がる気にならないのも事実だ。子供っぽい意地とプライドが根底にあるのも分かっている。
 
 だがそれ以上に、聖杯を彼らの好き勝手にさせることを、一人の人間として許せない。しかし本心としては、独裁者や軍人の歪ん
 
だ欲望に巻き込まれるのは、真っ平御免だった。ひどく矛盾し混沌としているが、どちらもアキラの本音である。アキラは不老不死
 
に憧れたことはない。まだ若く、生気に満ちた瑞々しく健康な身体だからかもしれないが、彼らのように聖杯を手に入れて永遠の命
 
や超人的な力を得たいとは思わなかった。ヒカルとはずっと一緒にいたいと思うが、永遠の命を手に入れてまで一緒にいたいという
 
わけではない。いつかは終りが来る人生の最期まで、共に歩むのが理想だ。
 
 よぼよぼの老人になってからも、喧嘩をしたり仲直りをしたりしながら、暢気に縁側で一緒に碁でも打って過ごせたらいい。
 
 例えば今のアキラが聖杯によって不老不死になったりしたら、若い姿のままで歳をとることもできず、一つの場所に留まることも
 
許されない、そんな生活になる。しかも、秘密を知られれば、どんな相手に狙われるかも分からない。
 
 不老不死は人間の究極の欲望である。誰もが表層では否定しても、死への恐怖から心のどこかで求めずにいられない。手に入
 
るかもしれないと思ったら、それを体現している存在がいると知ったら、興味を一切持たず絶対に欲望にも呑まれないとは、誰にも
 
言い切れないだろう。知れば例え一瞬でも欲しいと思い、欲してしまう。
 
 その一瞬を理性で凌駕できればいいが、できない可能性もある。場合によるが、永遠にその存在自体を狙われ続け、自由な生活
 
もなく追われる日々を送ることにもなり兼ねない。不老不死になるなど、ある意味どんな罪を犯した者よりも重い罰を与えられるのと、
 
同じなのかもしれない。永遠に地上を彷徨い続け、生き続けることにどんな意味があるのだろうか?
 
 ヒカルをそんな目にあわせたくはない。アキラもそうはなりたくない。だが仮定として、どうしようもない状況でその選択を迫られたら、
 
自分はどうするだろう?もしもヒカルの命が関わったりしたら?
 
 答えは一つだった。その時は―――。
 
 半分眠りかけた意識の中で答えと決意を自らに戒めた瞬間、船室の扉が開いた。
 
 はっとして瞳を開けると、ヒカルが救急箱を持って部屋に入ってくるところだった。
 
「……寝てた?」
 
「あ、うん。少しうとうとしていたかな……」
 
 ベッドが軋み、ヒカルの体重で端が沈み込む。
 
「そのまま寝てていいぜ。傷の消毒をするだけだから」
 
「キミもあちこち怪我しているだろう?」
 
「オレは銃を持ってるから大したことねぇよ。おまえは接近戦も多いし、殴られたりもしてたろ」
 
「ちゃんと三倍返しにしているよ」
 
 アキラの減らず口に、違いないとヒカルは笑って、消毒液を染み込ませた布で腕の傷を拭った。
 
「痛い?」
 
 微かに眉を顰める仕草を見せたアキラの顔を覗き込んで尋ねながらも、大雑把な彼らしく少々乱暴な手つきで消毒を施していく。
 
 基本的に外よりも中に篭もることが多い仕事柄、肌は余り日に焼けていない。発掘作業に出たいのだが、情勢が不安定で中々
 
それもままならなかった。服を着ていると学者らしくほっそりとし印象を覚える白い腕だが、以外にも筋肉はついている。
 
 男のヒカルを軽々と抱き上げられる腕力があるのだから、それも当然かもしれない。
 
「ほい、腕終わり。次はこっちな」
 
 軽く二の腕を叩いて声をかけると、アキラの身体の上に屈み込み、シャツのボタンを外して広げる。腕と同じように、殆ど焼けずに
 
肌は白い。無駄な脂のついていない身体は細身で鍛えられているが、痩せてもいる。最近は食料も減ってきて、満足に栄養もとれ
 
ていなかった。十八歳になって育ち盛りを少し過ぎたといえ、まだまだ成長期の途中であるが、さほど食べているとはいえない。
 
 日本や他の国の噂に伝え聞くほどひどい食糧難に陥っている状態ではないが、スイスも食料や原材料などは政府の統制下にあ
 
り、配給によって与えられる量は知れている。その上物価は高騰し、給料が高めである大学の講師ですら買える物は少ない。
 
 ヒカルもアルバイトを探しているが、就職難の時代ではとても職など見つからなかった。
 
 アキラの身体が痩せて、年齢よりも幼く見えるのは偏に周囲で起こっている紛争の所為でもあった。中立国のスイスは戦争など
 
によって多くの国からの輸入が完全に止まっている状態にある。物資が少ないのも当然だった。
 
 平和になれば、少しは彼も安定した生活ができるようになるのだろうか。アキラもさっき同じことを考えていたとヒカルは知らない。
 
 彼らは互いを同じように心配しあっていた。ヒカルはつきたくなる溜息を飲み込んで、布に消毒液を再び染み込ませて傷の手当て
 
を再開する。女性のようにきめ細かな肌には打身や擦過傷などの色々な傷があった。腹部には殴られてできたと思しき青痣や、銃
 
弾が掠めた時にできた火傷のような傷跡も幾つもある。数えだしたらキリがないほどだ。今までに何度も危険な目に遭ってきたが、
 
アキラがここまで傷を負うことは一度としてなかった。それだけ、今回の件は危険と隣りあわせであるのだろう。
 
 かなり疲れているのか、アキラはいつものようにヒカルの邪魔をしようとせず、大人しくされるがままになっている。普段なら、ヒカル
 
の肌にあれこれと悪戯をしかけて触れようとするのだが、そんな余裕もないらしい。ミュンヘンのホテルで傷の手当ては粗方終えて
 
いたが、さすがに一朝一夕では治りはしない。社の話だと、入港予定の港まで焼く二日かかるそうだ。
 
 この船に乗っている二日の間に身体の体力も充分回復し、怪我の状態もよくなって癒えるだろう。
 
 極度の疲労で寝てしまったのか瞳を閉じているアキラから離れ、消毒の際に血がついた布を備え付けの洗面所で洗い、部屋の隅
 
にかけておいた。消毒液など使った道具をしまって、救急箱の蓋を閉める。腹を出したまま眠らせるわけにいかないので、広げたシャ
 
ツのボタンを留めようとすると、そっと手を掴まれた。眠ったと思っていたのだが、ヒカルの気配で起きたらしい。
 
「傷の手当て終わったんだけど」
 
「うん……でもまだ痛い」
 
 ヒカルの手を握ったまま、アキラは頷いて見上げてくる。まだ少し眠そうで、少し舌足らずな話し方はいつもより甘い。
 
「……どこだよ」
 
 自分でも甘いなぁと思いつつ、ヒカルは訊いた。アキラは綺麗に微笑んで、悪戯っぽく口元も緩ませながら自分の唇を人差し指で差
 
す。どうやらこっちの元気は彼には別物らしい。明らかな誘いを含んだ仕草に、照れ臭そうに眼を逸らしながらぽりぽりと頬を掻き、ヒ
 
カルは唇を触れ合わせた。恥ずかしげもなく甘えてくるなよ、と少し呆れて内心ぼやきつつも、甘えてこられる幸せに浸りながら。
 
「他には?」
 
 こうなったら毒を喰らわば皿まで、という心境で訊ねる。にっこりとアキラは笑って今度は首筋を指した。
 
「……他はどこ?」
 
 首元に唇を落として耳朶に舌で触れながら囁くと、ヒカルのシャツを取り払いながら考える素振りをみせる。
 
「………色々かな」
 
「色々かよ」
 
 ヒカルは苦く笑って息を吐き、耳の後ろと鎖骨に口付け、もう一度口唇を重ねた。今度は深く長く。
 
 アキラの日本人特有のさらさらとした真っ直ぐな黒髪に指を滑り入れ、彼の頭を抱えるように角度を変えて何度も口付けを交わす。
 
 想いのままに愛しげに肌に触れて、彼の着ていたシャツを些か乱暴に脱がした。肌をまさぐってくるアキラの手の熱さに、眩暈がし
 
そうだ。胸の突起を摘まれ、押し潰すように捏ねられて知らず吐息を零す。
 
 少しずつ熱くなる身体に従って、呼吸も忙しなく荒くなっていく。ヒカルはアキラのベルトのバックルに手をかけて一気に引き抜いた。
 
 ベルトを後ろに放り投げると、硬質の音が室内に響く。猫のように舌で唇の端を嘗めながら、ボタンを外して前を寛げ、ジッパーを引
 
き下ろす。アキラの身体の熱を直に感じると我慢がきかなくなった。
 
「なぁ…塔矢……」
 
 耳元に囁きかけるとほぼ同時に、視界が急激に反転した。驚いて瞼を何度も瞬かせていると、情欲に濡れたアキラの瞳が自分を
 
見下ろしてきていた。得意の対術で、身体の体勢を一瞬にして入れ替えられてしまったようだ。
 
「進藤、足は痛くない?」
 
 アキラはヒカルの足先に唇を寄せ、視線を絡ませながら赤い舌先で舐める。指の一本一本に舌が触れ、軽く甘噛みされるだけな
 
のに視覚的には恐ろしく淫靡な光景だ。空いた手は巧みにヒカルの膨らんだ部分を擦り、欲情を煽ってくる。
 
「んぅ……バカ……そんなとこ…」
 
 背筋を走る感覚に身体がぞくりと振るえ、無意識に腕を伸ばしてアキラの髪を引っ張る。それに応えるように伸し掛かってくるアキ
 
ラの重みと、前髪を掬う白い指の心地よさに唇が自然と綻んだ。
 
「昨日もできなかったし……ここからはボクがしてもいい?」
 
「ダメっつってもやるくせに」
 
 うっすらと笑ってヒカルはわざとぼやいてみせると、同意を示すように彼を引き寄せて口付ける。その通りだと低く喉の奥で笑った
 
アキラは、ヒカルの胸元に唇を寄せた。
 

 二人が睦み合いを始めてしばらくした頃、潮騒が静かに船縁を打つ甲板で社は一人佇んでいた。潮風が奔放な髪を優しく撫でて
 
は、遠くへ飛び去っていく。さすがにここでは、音がするといえば波の音くらいのものだ。反対に中は色々と騒がしい。
 
 あの二人がよろしくやっている最中は、とても船室に戻る気になれない。社にデバガメ趣味はないのだ。
 
「あ〜もう……うるそうすんな言うたのに……」
 
 げんなりとした声で呟く社の声は、ベッドで夢中で互いを貪り合っている二人には当然ながら届かない。
 
 月明かりを宝石のように煌かせる波間は、彼のぼやきも何もかも、全てを飲み込んでいくようだった。
 

 予定通り二日後の早朝に入港して様子を窺うと、ドイツ兵の姿が多く見えた。大きな商船の影に隠れて港に入ったお陰で、彼らの
 
眼は誤魔化せたようだ。商船の間に潜むようにして船を停めると、碇を下ろす。
 
 敢えて接岸しなかったのは逃走経路を確保するためだった。顔がばれているアキラとヒカルを残し、小船に乗って社は上陸した。
 
 いきなり二人を降ろすわけにもいかない。まずはどういう状況になっているのか、見極めるのが必要だ。
 
 大型商船の船員のふりをして地元の人間に近付き、さりげなく尋ねながら社は情報を収集を行う。
 
 彼らの話によると、日本軍とドイツ軍の一部が二日前の夜中に奥地に向かったという。恐らく先遣隊が探索に出発し、探査を確認
 
するまで主力部隊が港で警戒に当たる、という手筈になっているのだろう。丸一日遅れてしまったが、まだ取り戻す余地はある筈だ。
 
 車ではなく小回りのきくバイクならば狭い道を通ることもでき、先回りすることも可能である。大型船の陰に隠れながら船を接岸さ
 
せてハッチを下ろし、港の警備兵の様子を窺って、合図を送るとアキラとヒカルは密かに出発した。
 
 彼らを降ろすとすぐにハッチを閉めて、再び商船の間に目立たぬように潜む。
 
 明るい陽光の中を走る二人の背中を見送った社は、小さな不安を覚えて身震いした。五日経っても戻らなかったら、早急に港を離
 
れるようにと何度も言い含められたが、社はここで十日は待つつもりだ。必ず生きて戻ると信じている。信じているからこそ待てる。
 
 だが、この押し寄せてくる恐れは一体何なのだろう。
 
 犯してはならない神の領域に入ろうとする咎人が、断罪を畏れるような、得体の知れない漠然とした感覚。
 
 人智を超えた何らかの存在が、彼らを大いなる宿命の中へ導こうとしているかのようだ。
 
 二度と今の彼らと会えないような、そんな予感がした。