一気に距離を詰めて、鋭い突きを老人に向かって見舞う。おおよそ敬老精神の欠片もない攻撃だが、老人は信じ難い素早さでかわした。
見たところ六十代後半から七十代といった感じの年齢だが、その動きは十代のヒカルに全く引けをとらない。剣の力強さも、反射速度も、素早
い判断力も、老人と呼べるものではなかった。反対にヒカルの方が力では負けてしまうほどで、鍔迫り合いなると少しずつ押されてしまう。
一旦剣を弾き返して間合いをとり、ヒカルは背筋を流れる冷汗を感じながら、柄を握る手に力を込めて内心舌を巻いた。
(……強ぇぜ…この爺ちゃん)
ヒカルとは比べものにならないほどの修羅場を潜り抜け、実戦を経験したのだと、一撃一撃からひしひしと伝わってくる。剣での決闘では、アキ
ラが勝てたかどうか分からない。尤も、他の武器や肉弾戦になってくれば、相手がこの老人であったとしてもいい勝負になっただろうが。
アキラと老人の決闘を見れなかったのは少し残念だが、アキラの命を護るためにも、いつまでも悠長に戦ってはいられない。勝負は早めにつ
けねばならなかった。切っ先をギリギリでかわすと、前髪が数本斬り飛ばされてはらはらと宙を舞う。
老人とは思えない素早さと体力で繰り出される斬撃を受け止めたものの、込められた力に押し負けそうになった。ヒカルは持ち前の身軽さを駆
使しながら何とか受け流し、後方へステップして距離をとる。叩きつけられる剣をまともに受け続けていれば、こちらの腕がもたない。それほど老
人の力は強く、凄まじい膂力を誇っている。時間をかけて打ち合えば打ち合うほど、ヒカルには不利だ。
体力も技量も、腕力などにおいても年若いヒカルよりも老人の方が上なのである。勝てる部分があるとするならば、すばしっこさくらいだろう。
素早く動ける体力がなくなってしまうと、ヒカルは間違いなく負ける。避けるにしろ、攻撃するにしろ、今こうして互角に戦っていられるのは、反射
神経の鋭さと老人以上に早く動けているからだ。体力が衰えれば動きも鈍る。そうなれば負けは見えている。
僅かでいい、隙を作って勝負を決めるしかない。息が上がってきているヒカルとは対照的に、老人は呼吸に乱れもなく、数歩後退した少年を追
い込むように攻撃をしかけてくる。二合、三合と打ち合っていくうちに、剣戟を受けきれなくなったのか、少年がほんの一瞬たたらを踏んだ。
この隙を逃さず剣を振りかぶった瞬間、少年の身体が消えた――否、彼の持ち味である素早い動きで横手に回りこんだのである。たたらを踏
んでバランスを崩したと見せかけ、勝機に大振りになった動きを反対に生かされ、自らの隙とされてしまった。
ヒカルの計略に気付いた時には既に遅く、中途半端に振り下ろした剣が、横合いから少年の剣に叩きつけられる。柄を握り締めた手の力が衝
撃で微かに緩んだ。刹那、疾風のごとき速さでヒカルは老人の剣を巻き込むように打ちつけ、横薙ぎに払った。
老人の手から剣が弾け飛び、弧を描いてヒカルの真後ろに突き立つ。同時に、ヒカルの剣が老人の首元にひたりと突きつけられた。
肩で息をする少年と、殆ど息を乱していない老人とが、鋭い瞳で睨み合う。傍から見ると、剣を突きつけている少年の方が負けたように見える
ほど、彼の呼吸は荒かった。
やがて老人は大きく溜息を吐き、ヒカルを見つめて勝負の結果を下した。
「ふう……わしの負けじゃ。ガキのくせにやりおるわい」
持ち手の力が剣より失われた一瞬を逃さずに動いた、少年の勝利なのは間違いない。力量差のある相手に対して付け入る隙を作り出し、勝ち
を導き出すことは誰もができるわけではないのだ。本人が自覚しているかどうかはともかくとして、少年はかなりの戦術家であろう。
「……よかろう、聖杯は隣の部屋にある。好きなものを選ぶがいい」
老人の言葉に、呪縛から解放されたように兵士が一人、二人と動き出す。一人がふらふらと足を進め始めると、これまで決闘の行方を固唾を飲
んで見守っていたのが嘘のように、我先にと奥の間に続く扉の中へと駆け込んでいった。 自分が出て来た狭い穴を広げるような勢いで殺到する
兵士達を、老人は他人事のように冷ややかな視線を向ける。
そんな老人の様子に気付いた風もなく、少年は背後にあった剣を引き抜いて近づいてきた。
「好きなのを選べって……聖杯はそんなにたくさんあるの?」
抜き身の剣を老人に渡し、鞘を拾いながら訊いてくる。
「ひゃっひゃっひゃっ!さてのう?どれを選ぶかはその者の選択じゃよ。自分が選んだことには責任は取らねばならぬ。わしはただの護人じゃて、
口出しは一々せん主義での」
「ふーん」
老人の言葉にそういうものかとすんなりと頷いたヒカルは、剣を元の鞘に戻そうとして奇妙なことに気付いた。剣と鞘がまるで合っていないのだ。
思わず振り返って老人に声をかける。
「……あれ?何これ?鞘と剣が合わねぇんだけど、爺ちゃん」
頓狂な声を上げて訊ねてくるヒカルに構わず、老人は隣の部屋に向かった。自分の背中を慌てて追いかけ、横に並んだ少年を一瞥する。
「その剣に合う鞘はないんじゃ。鞘と剣は一対。わしの友人が使っておる品で、今現在使用を放棄しておってな……。持主がおらんのと同じ状態
になっておる」
「爺ちゃんの友達の……そんなすごく大事な件を、オレなんかが使ってもよかったの?」
「なーに、構わんさ。持主が休眠状態では、実質使える者がおらんのと同じこと。誰が使おうと遠慮する必要はない。それは聖杯の力を真に得た
者が使えば地上で斬れぬ物はない名刀となるが、ただの人間が使うと紙すら切れんなまくら刀に成り下がからのう」
ヒカルに説明を施しながら、悪戯っぽく笑って片眼を瞑ってみせた。
「こういった剣の勝負の際に、相手に使わせるのにもってこいの刀だと思わんか?」
「爺ちゃんそれ……絶対ずるいよ」
老人を見下ろして、ヒカルは呆れたように溜息をつく。本当にこの爺さんは一筋縄ではいかない。
「わしみたいな年寄りには、この程度のハンデは必要じゃわい」
ぬけぬけとよくそんな口がきけるものだ。斬れない剣なら、相手に斬られて屠られる心配がないとはいえ、この老人ほどの実力があればそんな
ハンディキャップなど最初から必要ない。むしろこっちに対抗要件として、盾などの防具を寄越して欲しいくらいだ。
「よく言うぜ………オレより元気なくせに」
実感の篭もったヒカルの言葉を綺麗に無視して、老人は狭い入口を潜る。その後に続いてヒカルも室内に足を踏み入れた。
部屋は決して広くなく、簡素な作りになっていた。粗末なテーブルと椅子が一組だけぽつんと中ほどにあり、岩を刳り貫いた棚が左右の壁に
二つと、地味な天然の噴水を思わせる泉。そして男女と思しき石像。
部屋の作り自体は簡単でも、左右の壁を刳り貫いて作った棚には所狭しと杯が並べられていた。数にすると軽く百は超え、種類も様々だった。
素材もガラス、金、銀、陶器など分かるだけでも相当な種類に及び、形においてもオーソドックスなものから奇妙なものまで取り揃えられてい
る。装飾においても同様で、選び出したらキリがないほどの杯が鎮座していた。
部屋の奥にあるのは細長い円柱のような岩で、その先端部分からこんこんと美しい水が湧き出ている。透明な水は岩を削って作られた溝か
ら滝のように流れ、下に受ける金色の盆に落ちていた。だが不思議なことに、水が盆の縁から零れだすことは一切ない。
盆が置かれた台座もまた濡れていなかった。
台座に周囲に視線を転じれば、幾つかの杯が転がっており、中に入っていたと思しき水が石の床を濡らしている。しかも奇妙なことに、あれほ
どいた兵士の姿がどこにも見えない。台座の傍にただ一人だけ、腰を抜かした日本兵が真っ青な顔で尻餅をついたまま震えていた。
ヒカルの眼から見ても、明らかの日本兵の様子はおかしかった。
「ふん……選択を誤った者の末路をみたようじゃの」
一層冷徹とも言える声で、老人は一人ごちる。
「………まさか…」
息を呑んで掠れた声で呟いたヒカルに、老人は重々しく頷いた。
「誤った選択をすれば、待つのは『死』のみよ」
問うようなヒカルの視線に応えるように先を続ける。
「間違った聖杯を使った者は、その代償として身体が一気に年老い、乾涸びて砂となって風に流される。人間が年をとって死を迎え、そして土に
還る様がほんの僅かな時間で行われるのじゃ。奴はその全てを見たのだろうて」
つまりは、通常二十代の兵士ならば何十年もかけて過ごす残りの人生を、ほんの数分足らずで終えて砂となって還ってしまったというのだ。
若い肌がたるみ皺となり、瞳は落ち窪み、髪は白髪となって抜け落ちると、生きたまま腐敗、或いはミイラ化して死を迎える。
墓場から蘇える腐りかけのゾンビのような姿に生きた人間がなって、年老い、砂となって消えていく。
想像すると眼を背けたくなるような凄惨な光景だ。老人が語った内容は随分と要約されているが、つまりはこういうことである。
歯の根も合わせられないほど震え、怯えている兵士はこれら全てを目撃したのだ。生死を共にした仲間が数分にも満たない時間で年老い、全
員があっという間に死に絶え、跡形もなく消え去る光景を。
一人残った男の眼に未だに映っているのは、死にゆく仲間の断末魔の姿だった。手を伸ばし許しを請う者、必死に生にしがみ付こうとした者、
全てを彼は見ていた。何も出来ないまま。
ヒカルがそれらを見ずに済んだのは、老人と多少の時間ながらも雑談をしていたからだ。
老人なりに、年若い少年にそんな悲惨な人生の末路を見せたくなかったのかもしれない。
大きく瞳を見開いて震えていた兵士だったが、余りの恐怖に心の箍が外れたのか、突然足を蹴って何かを振り払う仕草をすると、奇声を上げて
立ち上がる。その場から逃げ出すように出口に向かって駆け出し、絶叫を上げながら闘技場を走り抜けていった。
死に際の仲間に足を掴まれる幻影でも見たのか、或いは死んだ仲間に生き残った命を咎められでもしたのか。何れにせよ、彼が自分しか見
えない幻覚に捉われたのは確かだ。止める間もなく彼は走り去り、後に残ったのは、ヒカルと老人のただ二人だけだった。しばらく無言のまま泉
と棚に置かれた数々の杯を眺めていたヒカルは、やがて老人に視線を向けた。
いつまでもグジグジと悩んでいるわけにはいかない。ヒカルはアキラの命を救わねばならないのだから。
老人はヒカルの意識が切り替わったことに気付いたが、そんな素振りも見せずに溜息混じりに呟いた。
「やれやれ、さすがによる年波には勝てんのう……昔なら小僧一人ごときに遅れをとらなんだりせんだのに……」
わざとらしい仕草で肩を叩き、老人はテーブルに置かれたままの小振りな杯を手にとって、小さくぼやく。作りこそ小さいが中々立派なもので、
材質は不明だが形は日本酒のお猪口とそれはよく似ていた。
「そういうのを負け惜しみ、年寄りの冷や水って言うんだよ」
「全く口のへらんガキじゃわい。そういう小僧は聖杯を選ばぬのか?」
減らず口を叩くヒカルを眺め、どっこらしょと声をかけながら立ち上がる。床に無造作に転がっている杯を拾い、金の盆に溜まった水で土を落と
すと、丁寧に並べ直した。棚に納まった幾つもの杯を眺め、ヒカルは腕を組む。
「もう少し待って。……オレとあいつ、友達の命がかかってるから、間違えるわけにはいかねぇんだ」
「ほほう……其奴は恋人か?」
もう一度椅子に腰かけながら、老人はヒカルを見上げた。
「恋人っていうか……さっきの爺ちゃんの言葉じゃないけど、オレが剣ならあいつは鞘って感じかな?」
アキラなら必ず不服そうに、夜の立場からして自分が剣だと主張するだろうと予想できて、ヒカルはうっすらと笑みを浮かべる。でも、例えそう
言われても思い通りに譲ってやるつもりはない。アキラは剣の扱いがヒカルよりも下手なのだから、鞘で充分なのである。とはいえこれは建前で、
本心はヒカルを受け入れて包み込んでくれる度量はアキラだけだからだ。
だからこそ、彼は鞘こそ相応しい。攻撃力も備わった、随分と物騒な鞘であろうが。
「ふむ、つまりは一対ということじゃの」
ヒカルは老人の言葉にうっすらと頬を赤く染めたが、力強く頷いてみせた。
その大切な鞘を救うためにも、ヒカルはここを全力で乗り切らねばならない。
魔鏡の影に映った言葉や、地下墓地で見たもの、これまでに通った道と様々な仕掛けの数々。これらを何度も脳裏で反芻する。どれもアキラ
と一緒に手掛かりを見つけたものだからこそ、ここで選択を誤るわけにはいかない。
老人の言う通り、自ら決めて行った行為は自分自身で責任をとるのだ。例えその代償が『死』であったとしても。
けれど今のヒカルにはアキラの命と、彼を護ってくれている倉田と緒方の命がかかっている。自分一人ならば勝手に死んでも自業自得だが、
ここではそういうわけにもいかない。正解を導き出して聖杯を手に入れ、アキラの元に戻ると約束している。
今ヒカルにとって一番問題なのは、『聖杯』がどういうものか想像もつかない点だった。
『聖杯』という名を使われているが、実際にはそれが何であるのかなど分からない。人間が勝手に思い込んでつけた名が聖杯というだけで、ど
んな形状をし、どんな物体なのか正体不明である。
不老不死や聖杯に関する伝説はキリスト教以前からあり、伝承はそれこそ世界各地に及ぶ。アーサー王伝説や、キリストの血を受けた杯の
伝説があるから聖杯という名が定着し、そう呼ばれているに過ぎない。聖槍ロンギヌスにおいても同じような理由からだ。それを手にすれば世界
を制するだとか、不死身になれるとかあれこれと言われており、宗教的な意味合いのある品だと思われがちだが、そうではない。
少なくとも、ヒカルとアキラが巻き込まれている今回の件では、求めるもの――聖杯自体には宗教色は皆無といっていい。
ドイツ軍や日本軍がどう考えているのかは知らないが、これには宗教などという人間が考えたものと密接に関わる存在ではない。
これまでの遺跡や鍵となる品、仕掛けなどに『神』の名を効率よく使っているだけで、それを崇める意識は全くないのだ。
『神』は人間に対する皮肉であり、利用するべき象徴に過ぎない。むしろこの遺跡や手掛かりを残した人物は、人間の宗教や信仰心を巧みに
利用しつつ、聖杯という名の存在に群がってくる蝿をからかい、欺いて嘲笑ってすらいる。
そして人間の命を、塵や芥と同等に捉えて平然と蔑ろにできる。かなり捻くれた人物だと推測できた。この人物は人間を嫌っており、また神へ
の興味もない。だが同時に、純粋な努力と惜しみない探究心は尊重し、潔く認める度量がある。
この地に導く際に見た様々な光景には、興味本位の人間に対する警告もまた含まれていた。涸れた湖とオアシス、立ち枯れた森、手掛かり
を残した墓には、深い意味が込められている。湖もオアシスもいつかは涸れ、森の木々もやがて跡形も残さず消えてなくなる運命だ。
人間もまた、死ねば土へ還ることとなる。
言葉にせずともかれ果てた光景や、墓には、選択を間違えれば待つのは『死』でしかないと暗示しているのである。
一体誰がこんな巧妙な仕掛けや暗喩などの数々を思いついたのだろうか。
改めて周囲を見回すと、老人が座った椅子の真後ろにある彫像が眼に入った。非常によくできた男女の像で、祈りを捧げるように指を組み、瞳
を伏せて頭を垂れている。伏せた瞼にある睫毛までもが繊細に表現され、まるで生きているようにすら見える。
今にも祈りの言葉をその唇から唱えてもおかしくないほどに。
ヒカルは像から眼を離して棚へ視線を移した。洞窟の壁を刳り貫いて設えた棚には多くの杯がぎっしりと並べられている。澄んだ泉からは静か
に水が流れ落ち、ここで唯一するのがその水音だけだった。
棚にある杯はどれも素晴らしい逸品ばかりだが、一つだけくすんで小汚い杯がある。燦然と輝く品々の中で最も目立たない場所にあり、一際
眼を引く存在ではない。場違いで相応しくないと思えるそれをヒカルは手にとり、ひっくり返したり表面を撫でたりして、じっくりと眺めた。だがしば
らくすると、首を横に振って元の位置に戻した。
ヒカルが興味を持ったのはそれだけで、他の杯には全く眼もくれなかった。理由は簡単だ。さっき見た杯も含めて、全てが巧妙な罠だと気付い
たからである。中途半端に宗教的な知識や専門的な能力がある者は、薄汚れた杯を選んでしまうかもしれない。ヒカルは幸いというべきか信心
深くもなく、宗教学に詳しいわけではないので、罠だとすぐに検討をつけられた。
これで振り出しに戻ってしまったが、誤った選択をするよりマシな判断である。
どうも、引っ掛かりがあった。ヒカルとアキラが地下墓地の仕掛けで発見した数字の『8』。
他の謎は大方解明できたといえる。残っているのは『一度は神の長き愛を受け、二度は永遠に神の愛を得られるだろう』という最後の下りなの
だが、これは文章の内容からみて聖杯を手に入れてからのものになる。あの文章は聖杯自体ではなく、聖杯のもたらす効果を指していると考え
られた。これまでの過程で『聖杯』そのものを表した言葉は全くない。もしもあるとするならば、ただ一つの謎である数字の『8』だろう。
しかし、いつまでものんびり考えている時間はない。アキラの命の刻限は刻一刻と迫っているのだ。
今ほど無限に時間が欲しいと思ったことはなかった。じっくりと熟考した上で、答えを出したい。この遺跡や様々な仕掛けを作った人物にとって
は大した事柄でなかったとしても、ヒカルにとっての命というものは、浅慮な考えで決定できる重さのものではない。
ヒカルは指を口元に当てて、ここに辿り着いたこれまでの過程をもう一度振り返ってみる。
きっかけはヒカルとアキラが出会い、魔鏡が二つに割れたことからだ。次に魔鏡の仕掛けに気付き、映った影と伝承に基づいて地下墓地を訪
れた。棺の蓋にはこの遺跡に来る為に必要な目印がラテン語で記され、魔鏡の縁にもラテン語で『月の欠片を合わせて満月を作り、三日月の光
で一つの文字を表せ』とあった。それによってヒカルは『8』という数字を見つけたのである。これまでの謎で見かけることのなかった文字を。
(あれ以来……マジで全然見なかったよな………)
重要だからこそ、巧妙な仕掛けと全ての条件を揃えたあの時だけにしか見れなかったのだ。
そして、数字を見つけたあの場所。棺の中というのも、見逃せない要素だ。
ここで解釈の取り方を失敗すれば棺の中だと、暗示しているともとれる。やはり、この文字は聖杯そのものを指している。間違いない。
では、遺跡に入ってからはどうだっただろうか?ヒカルは自分の行動を思い起こしてみる。
魔鏡は光に反射させて影を映すことで、先に進む言葉や指示を表すと同時に、扉の鍵の役割を果たしていた。最後の役割に鍵として使って扉
を開いてからは、言葉に隠された暗喩と自らの能力を頼りに進み、魔鏡そのものの役目は費えていた筈だ――いや、違う。
ヒカルは自らの考えを否定し、頭を振った。魔鏡そのものではなく、別の物に姿を変えて、あれは先を指していたのだ。これまでにあった多くの
仕掛けには、魔鏡が必要だった。魔鏡を鍵として使用し、使えなくなったらその代替品を用意せねばならない。それ程重要な存在であるはずだ。
ならば、次に魔鏡の代わりとなっていたものは――。
(…………鏡……!)
ここには多くの鏡のトリックがある。扉然り、跳ね橋然り。そして魔鏡は、本来鏡として使われるものなのだ。
老人は座ったまま微動だにせず、ヒカルの選択を待っている。ヒカルは部屋の中を観察した……鏡はない、どこにも。そう、鏡そのものは。
けれどヒカルは見つけた。老人の座る椅子とテーブルに視線を移し、そこに置かれた小さな杯を見やる。
テーブルの表面は以外にも綺麗に磨かれており、上にのった杯を映している。
杯と映った影によって、それは数字の『8』に見えた。丸いテーブルのどの位置から眺めても、それは全く変わることがない。
老人に声をかけることなく、ヒカルは杯に手を伸ばした。
お猪口ほどの大きさの杯には、透明な液体が入っている。それが何であるかなど考えずに、自分の答えを信じて一気に呷る。
中に入っていた液体と思しき物は、一滴零れ落ちると同時にヒカルの咥内で丸まった。舌で感触を確かめてみると柔らかくも固くも感じら
れて、全く味もせず、まるでビー玉を口に入れて舌先でころがしているような気がする。
明らかにこれは水とも液体とも言えるものではない。しかし、ヒカルは躊躇せずに一息に飲み込んだ。







