対等者は独りで居た。共に歩む者も居ず、対等の存在も居ない世界に、たった独りで。
そこはどこまでも果てしなく続く、孤独の世界。無限にある道の途中で彼は一歩も進まずにその場に蹲っている。
彼は既に疲れきっていた。何度も期待をしては裏切られ、裏切られては期待する。その繰り返しを延々と続け、彼は本当に疲れ
ていたのだ。疲れて諦めかけた彼に、不意に希望の光が差したけれど、それは大きな勘違いだった。いや、本当に勘違いなのか
どうかはまだ分からない。答えは出ていない。彼はその答えを見つけなければならないのだ。
答えを見つける為に、そして答えを共に解くべき人物を待つ間に、いつしか彼は待ち疲れて眠ってしまった。そもそも、彼は最初
から半覚醒のまままどろみの中に居た。目覚めをひたすら待つ臥竜であった。自らを起こしにくる相手を待ち続けているのだ。
対等者は待つのに慣れていた。これまでもずっと待ち続けていた。もう少し待つくらい、彼には造作もないことなのである。
前に進んでいるように見えていても、彼は立ち止まって待ち人を心待ちにしている。
彼はそこでただただ待ち続ける。共に先へ進むべき存在を。果てしなき孤独の迷宮から出る時を。
青くどこまでも続く空を見上げ、塔矢アキラは大きく息を吸い込んだ。春の陽気を含んだ風が黒髪を揺らし、鼻腔には微かに消
毒液の匂いが纏わりついてくる。
父である塔矢行洋が心筋梗塞で倒れ、アキラは対局を急遽休んで搬送先の病院に来ていた。父が朝に突然倒れた時の衝撃
は、未だにアキラの心に不安定な波を及ぼしている。とてもではないが、今日の対局を平静に打てる自信はなかった。
肉親が倒れた程度で手合を休むなど、軟弱で惰弱だと思われても反論するつもりはない。この点においては否定する気もなか
った。アキラにとって父は偉大な碁打であると同時に、心優しい父親である。誰よりも尊敬する父が突然、「死」というものに奪われ
てしまうかもしれない瀬戸際で、碁に打ち込むことなどアキラにはできない。
肉親が眼の前で突然倒れ、平常心を保って対局や他のことに打ち込める者は、きっと自分とは比べものにならないような強い精
神力があるのだろう。他人から見れば、あの時のアキラは表面上は冷静に見えたかもしれない。だが実際は不安の嵐に見舞われ、
その時の記憶も覚束ないほど動揺していた。
人の心は微妙で難しい。それはアキラとて同じことである。ましてや彼は14歳の少年だ。大人に囲まれて生活をしているお陰で、
大人びた少年だと思われていても、いや大人びて見えるからこそ、自分を隠すことに長けているからこそ、有りのままの少年として
の彼は無視されがちだ。だがしかし、アキラはたったの14年の人生しか生きていない一人の少年なのである。
彼の心は幼いわけでもなく、だからといって完全に大人になっているわけでもない。誰かの「死」を受け入れるにも、複雑な心の状
況の最中にいる。誰にとっても、簡単には受け入れきれるものではないように。
アキラの家庭にとっての大黒柱は行洋だ。その支えが無くなる可能性は、ただ単なる心配や動揺では済まされない、現実問題と
しても彼に重く圧し掛かる点も否めない。年収が億を超える行洋であるから、当面の生活など全く問題はないが、次を担うアキラに
余計な重荷が負荷となって圧し掛かってもおかしくはないだろう。
尤も、当初のアキラにそんな事を悠長に考える余裕は全くなくても、口さがない者達は周囲が多少の落ち着きを取り戻すと瑣末
なことも口の端にのせるものだ。アキラの身近にもそういった存在はいる。
父が病院に搬送され容態が安定するまでずっと、14歳の少年として、最も身近な肉親に及んだ「死」の影にアキラは怯えさえ感
じていた。父親の無事を祈る一人の息子として。
それは碁打として敵と戦う時に感じる怯えとは全く違い、人間の根底にある恐怖を根強く呼び覚ますものだった。まだ15歳にもな
らないアキラにはこれまで全く縁のなかった「死」という顎。深く考えもしなかったそれが、唐突に現実味を帯びて突きつけられる。
まだ年若く、前途に希望を持つ子供だからこそ、刹那的な勢いで訪れたその恐怖をアキラは肌で感じていた。
アキラとてしたいことは色々ある。囲碁を打つのは当然として、他にも彼には彼なりにしたいことは山ほどあった。
「死」はそれらが全くできなくなることを示す。
碁打として、もっともっと打ちたくても、打てなくなる。当り前だが、死ねば神の一手も極められない。
今日はヒカルと対局する予定であったが、死ねばアキラは二度とヒカルとも打てないし、彼の謎にも迫れない。何よりも、ヒカル
の声も姿も香りも、全身全霊で感じる『進藤ヒカル』という存在を、認めることができなくなるのだ。
人の人生は、ゲームのように簡単にリセットできるようなものではない。どんなに後悔しようとも、起こってしまったことにやり直し
はきかない。一度置いた石を直せないように、零した水を元の器に元通りに戻せないように、過ぎ去った時間をもどせないように。
死んだ人もまた、生き返ることはない。二度と会えなくなってしまう。
現実的な「死」への恐怖は、アキラの心に強い波紋を投じたのは間違いないだろう。心配と不安に心を掻き乱され、父の容態の
安定を祈る傍ら、それが心のどこかに居座り続けていた。今もまだ、アキラの中にそれはあり続けている。
だがこの経験もまた、彼を精神的に一つ強く押し上げ、成長させる糧となるに違いない。
父の容態が安定したこともあり、アキラは母を病室に残して一人で病院の屋上に来ると、空を見上げて大きく深呼吸した。
医者から大丈夫だと太鼓判を押されたことと、仄かに顔色が戻った父親の姿を眺めた安心感もあって、少しだが心にゆとりが生
まれたらしい。アキラは今日初めて、やっと息をつくことが出来た気がした。
心配や不安から最悪の想像を次々にしてしまっていたのに、今は随分と落ち着きを取り戻している。
自分でも、いかに自分自身が覚束ない状態であったのか、分かるような気がした。
屋上から眼下を見渡せるベンチに腰を下ろして、もう一度ゆっくりと深呼吸する。少し離れた場所にはピンク色の固まりが幾つも
点在していた。桜の季節なのだと、それを見て今更ながら実感する。
空を見上げると、澄んだ青が視界に勢いよく飛び込んできた。地上の喧騒など知らぬげに、白い雲は風まかせにゆったり流れ、
柔らかな光が降り注いで暖かい。室内で過ごすのが勿体無くなりそうな、とても気持ちのいい天気だった。
ふと、アキラは手を翳して瞳を細める。太陽の影から何かが落ちて来るような気がしたのだ。だがそれは気のせいではなく、ほど
なくひらひらと白っぽいものが降りてくる。
掌を広げて受け止めると、それは桜の花びらであった。
どこからか風で飛ばされたのだろうか。それとも病院の敷地内にある桜の花弁が風に舞い上げられたのか。どちらにしろ、たった
一つの桜の花びらはアキラに小さな心の和みを与えてくれた。うっすらと口元に微笑を湛え、アキラはじっと花びらを見詰める。
不意に、ヒカルに会いたいと思った。花びらを見詰めていると唐突に、心にわき出した思いだった。
植物なら、ヒカルは桜だろう。
ヒカルは桜のように刹那的な春の美しさを持つわけではないけれど、どこか彼と似ているような気がした。
動物なら仔猫だろうか。愛くるしい大きな瞳や、我侭に自己主張をして甘えて擦り寄ったり、見上げてくる仕草も猫を彷彿させる。
いや、それとも仔虎かもしれない。まだ成長過程でやんちゃ盛りの仔虎だ。けれどいつかは巣立つ時が来るだろうが。
一人立ちを迎えれば、彼は虎になるのだろうか?
鋭く獰猛な牙を持ち、誇り高く大地を駈ける、森や密林の王者であり絶対者。東洋における百獣の王である虎に。
無論それは、ヒカルと打ってみなければアキラに分からない。
そういえば、今日はヒカルと会うはずだったのだ――棋士として。
(……今頃不戦敗が決まっているな)
半ば他人事のように考えて、苦笑を零す。余りにも淡白な自分の反応に、自分自身でも呆れてしまった。
ヒカルが院生になった頃、いやもっと以前から、彼が気になって気になって仕方なかったのに。特にプロ試験の頃になると、形振
りなど構っていられないほど、ヒカルの実力を知りたくて堪らなかったのに。
いざこの日が来て、父が倒れて対局が流れてしまったというのに、アキラは不思議なほど残念だと思わなかった。むしろ、今日
ヒカルと対局せずに済んでホッとすらしている。
昨年の夏の日にヒカルと公園で会ってから後数ヶ月で一年経つが、彼と個人的に打ったことはただの一度もない。そもそも、碁
打として会ったことすら一度もないと思える。確かにそうだ。ここ最近彼と会うとき、いつもアキラはただの少年になっていた。
一人の碁打としてヒカルと対峙したことはない。ヒカル自身と打ったことが一度もない。
過ぎった思考を余りにもあっさりと無意識に受け入れ、アキラはすぐに思い至った事実に慌てて頭を振ったものの、不可解な違
和感を覚えた。口元に指を添え、瞳を眇めて自問自答する。
(碁会所で二度打った。中学の囲碁大会で進藤と打っている……でも…)
アキラは確かにヒカルと打っているはずなのだ。それなのに、この奇妙な違和感は何なのだろう。
むしろ、あの頃のことを思い出すと、ネットのsaiと対局した感覚により近いような気がした。けれどヒカルはあの場に居たし、他に
第三者の影も形も有りはしなかったと分かっている。しかしどうもそれが気になる。
あの二局はアキラの中で未だに謎のままだったが、中学の囲碁大会は何ともいえない。ヒカル自身と打ったような気もするけれ
ど、余りに稚拙で未熟でアキラは殆ど何も掬い取れなかった。それよりも、途中で突然打ち筋が変わり、名人級の実力者が囲碁
の初心者になった衝撃が強過ぎて、最初の頃の印象がかき消されてしまっている。
アキラが今までヒカルと打った対局の中で、一番インパクトがあって記憶に強く残っているのは中学の囲碁大会だった。
あの対局が最後になければ、アキラがここまでヒカルに強く興味を覚えたかどうか分からない。どれほど強くても、強いだけでは
駄目なのだ。ヒカルでなければ。ヒカル自身と打たなければ、何も始まりはしない。
それが分かっていながら、いざ対局日が訪れて打たずに済んだことに、アキラは心底ホッとしていた。
ヒカルの棋力が気になって堪らないのに、本当は打ちたくて堪らないのに、この日が来るのを心待ちにしていた筈なのに。
流れてしまったらしたで、残念に思いながらも安堵している自分がいる。
相反する心の有り様に、アキラ自身も複雑な気分だった。
打ちたいのに打ちたくない。ヒカルの対面に座りたいのに、座りたくない。理由は簡単だった。アキラはもう一度幻滅させられるこ
とを恐れている。ヒカルを再び見失うのではないかと、それに恐怖すら感じているのだ。
けれど、ヒカルには会いたい。囲碁を抜きにしても会いたかった。ただ顔を垣間見るだけでも構わないから。
大きく溜息をついて、頭を左右に振る。黒い髪がさらりと揺れて、視界の端で揺れた。いつもアキラはヒカルのことを考えては、会
いたくて堪らなくなる。自分の感情の収拾もつかず、棋士として一人の男として、雁字搦めになって惑乱してしまう。
そして、向き合うことを恐れ、いつも最後は敢えて考えないようにしてしまう。
会いたいと思うと、彼のことだけで心が一杯になる。ヒカル一色に染まる。綺麗で可愛い笑顔、触れた手の温かな体温、近くに居
ると伝わってくる気配、微かに香る芳しい香気。純真無垢で天衣無縫な、神に愛される神の寵児。
ヒカルと一緒に居たいと思う。彼と打ちたいと願っている。それはアキラの正直な気持ちだ。真実、魂から求めている。
掴まえたら最後、きっと二度と離れられなくなるに違いない。誰の眼にも触れさせたくない、閉じ込めて自分だけのものにしたくな
る。ヒカルの笑顔も泣き顔も、怒った顔も、あの華奢な身体も、何もかも全てを。
自分でも分かっている。アキラの心は貪欲だ。ヒカルを求め始めると、きっとどこまでも限りなく求めてしまう。
それが怖い。何故ならアキラには自分を押さえられる自信がない。自分の真実の想い認める勇気も、向き合う勇気もない。そし
て自分の奥底に潜む心の有様が堪らなく汚らわしい。際限なくヒカルを求める果てしない想いが恐ろしかった。
そんな自分自身と真正面から向かい合い、受け入れてしまうくらいなら、ヒカルへの想いを認めてしまうくらいなら、どんな理不
尽な理由をつけてでも、例えそれが自分勝手なエゴであっても、封印してしまう方がまだマシだった。
だが、それがただの逃げの一手に過ぎないことを、アキラ自身も分かっていた。
しかしどうしてもアキラは、自分の心を認められずに、無意識に眼を逸らして置き去りにしようとしてしまうのだ。
風に桜の花びらがふわりと舞った。手元に降りた綺麗な花びらが、遠くへと、手の届かない所へと飛ばされようとしている。
アキラにはまるで、ヒカルが何処かに攫われてしまうように、そんな風に感じた。二度と会えなくなるような、不吉な予感。
――掴まえておかなければ……!
しっかりと、ヒカルを自分の傍に留めておかなければならない。あの日のように、手を離してしまってはいけない。
何があっても、昨年の夏祭りの日のようにヒカルを見失ってはならないのだ。いつもヒカルが神社で待ってくれているとは限らな
い。ヒカルは待たずにどこかに行ってしまうかもしれない。
アキラは知らず知らず、手を伸ばしていた。ひらひらと、掴み所のない蝶のような薄桃色の花弁を、眼と指と全身の感覚で追う。
時間としてはさして経ったわけではない。ほんの刹那の一瞬の出来事。
アキラは立ち上がり、掌を再びそっと広げる。花びらはそこにあった。思わず安堵したように息を吐いて、小さく苦笑する。何故
こんな事で必死になってしまったのか、自分でもひどく可笑しかった。
だが、ほんの僅かな間脳裏に過ぎった不安は、アキラにとって何か重要なことを知らせているような気がした。
桜の花びらを見詰め、そっと呟く。
「……ごめんね」
桜は多くの人が愛でるもの。その美しさを誉めそやし、遠くから、近くから、綺麗な桜を見守る。誰か一人のものではない。
けれど、せめてその一片だけは自分だけのものであってほしい。
アキラにとってヒカルがそうであるように。
そう、何百何千何万という花の中のほんの一輪だけでいいから、アキラに全てを預けて欲しい。
何もかも全てを望んではならないと、アキラ自身理解しているから。
でももしも、一本の桜がアキラだけのものになったなら、自分は桜に全てを捧げるだろう。
桜がより咲き誇れるように、大地にしっかりと根を下ろせるように、夏がくれば若葉が芽吹くように、傍で大切に愛で続け、嵐や日
照りからも守ってみせる。日照りが続けば雨を降らせ、嵐がくれば身体をはって枝と幹を守り、太陽の光が届かねば雲を払い、栄
養が足りなければいくらでも糧を与えよう。
その為なら、どんな事があっても苦にならない。
アキラは再び空を見上げた。青い空は果てしなく広がり、ヒカルにも繋がっている。
今度ヒカルに会う時は、どんな状況になるのだろう。ただの一人の少年としてか、棋士としてか、それとも――。
自らの想いと、そしてヒカル自身と真正面から向き合う日は、そう遠くはない。