佐為にせっつかれて訪れた行洋の病室で思いがけずネット碁の約束を取り付けてから、行洋との対局は明日に迫って
いた。緊張はふとした時に訪れては、まるで波が引くように消えていき、ヒカルはその度に落ち着かない気分に陥った。
アレ以来、この繰り返しが毎日続いている。ただ日が近づくにつれ、その波が徐々に大きくなっていっているが。
あかりとの一局を終えて途中まで送ってから、ヒカルは佐為を伴って、冬にアキラと会った公園に向かっていた。幼馴
染との一局で確かに心は解れはしたが、部屋に籠もっているのが嫌で気分転換に外をぶらぶらすることにしたのだ。
夏に彼に請われて写真のモデルをした時も、秋に二人で話をした時も、真冬に一緒に雪を見たのも、あの公園だった。
そして今の季節は春。これが過ぎると再び夏が訪れる。昨年はアキラと夏祭りに出かけた夏が。
思えば、あの公園で会った頃から彼との距離が急激に狭まったのだ。碁打としてではなく、一人の少年同士として。
碁打としては、まだ全く向き合えてはいない。対面に座ったことすらない。
よくよく考えてみると、アキラと会っても殆ど碁の話をした記憶はなかった。
学校や、宿題、ヒカルの好きなゲームやテレビ番組、最近の映画の話など、どれも碁とは全く関係ないものばかりだ。
アキラと二人で話していると、彼も意外に普通の少年らしいところが結構ある。だがヒカルは当初、その事に内心とて
も驚いたものだった。
塔矢アキラ=囲碁という図式が成り立っていたヒカルは、少なからずカルチャーショックを受けた。
確かに彼は囲碁部では孤立していたようではあったけれど、普段の学校生活ではごくありきたりな中学生なのだとい
うことに、彼の口からクラスメートのことや文化祭や体育祭の話を聞くまで、ヒカルは考えもしなかったのだ。
学校を休んでいる間にリレーのアンカーに決められたり、文化祭の出し物で居残りをしたり、図書室でクラスメートと
自由課題の勉強をしたり、彼がそんな事を話すのがヒカルにはとても不思議に思えたのである。彼から当たり前の学
校生活を聞かされるまで、アキラが囲碁だけをしている人間のように感じていたことを、ヒカルは反省した。
ヒカルも似たようなことがあったりして、頷けることも色々あった。そう思えば確かに十分納得できるのだ。
どうもアキラという少年は、そういった生活臭のようなものを感じさせないので中々結びつかないが、よくよく考えれば
分かることだった。アキラも血の通った人間で、ヒカルと同じように中学生なのだから。
彼の人形めいた整った容貌からはありきたりな少年らしさは相変わらず伝わりにくいけれど、プロとしての生活で学
校も休みがちになる分、アキラは貴重な学生生活を自分なりに有意義に過ごしているのだろう。
囲碁で実力があるだけでなく、学校の成績もいいのだから、ヒカルにしてみると羨ましい限りだ。今のままの成績だと、
入れる高校もないかもしれないと思えるような自分とは、随分差がある。
高校に行って勉強をするのは嫌だ。けれど高校に行きたくないから、その手段としてプロになったわけではない。アキ
ラがこの世界にいるから、彼に追いつきたいからこそ、ヒカルは我武者羅に走ってプロの世界に飛び込んだ。
確かにプロ試験に合格し、囲碁界で生きていくとはいえ、この頃のヒカル自身の気構えはまだ今一つだった。
まだまだ子供気分が抜けておらず、囲碁界の厳しさも、棋士として高みを目指す志も、ヒカルの中ではそれなりの形
にすらなっていなかった。
プロ試験の最中に成長したといっても、殻を破った雛鳥のまま、親鳥の庇護の下でぬくぬくと育てられ、巣立ちの厳し
さを知らない。子に親離れの時期が近づきつつありながら、親もまた子離れできずにいつまでも傍に居らえると思い込
んだままだった。いや、そう思わねば佐為は悲しみに耐えられなかったかもしれない。
親元から自立し、大空を自らの翼で滑空し、嵐であろうとも自らの力で飛び続けねばならないことを。自分自身の足
で大地を踏みしめ、広大な世界を進むということを。ヒカルには既に時期が迫りつつあった。
彼らはまだ、その時が近づいていることに、全く気付いていなかった。
佐為を伴って歩きながら、ヒカルは目的の公園に足を踏み入れた。何気なく奥を見やると、アキラがベンチに座ってい
るのを見て瞳を見開く。ヒカルが知りうる限り、ここでアキラと会う時は、彼は心あらずという風情で大抵ぼんやりしてい
る。この公園は、アキラがボーっとする場所なのだろうかと思えてしまうほどだ。
新入段授与式でのアキラの厳しい態度もあって、声をかけようか、かけまいかとヒカルは一瞬悩む。だがそれよりも早
く、アキラがヒカルの視線に気付いて顔を向けてきた。
少し驚いたように瞳を瞠ったものの、アキラは柔らかく微笑んで身体をずらし、ベンチの横を空ける。現金なもので、た
ったこれだけでヒカルは嬉しそうにベンチに駆け寄り、アキラの横にちょこんと腰を下ろした。
そんなヒカルの様子に佐為が袂で口元を押さえてくすくす笑いながら、ヒカルの横に座って二人の様子を見守る。
「今日はやけに機嫌がいいね、進藤」
「え?そうか?いつもどおりだぜ」
妙に弾んだ声で答えるヒカルを訝しげに見やってアキラは首を傾げたが、敢えてそれ以上は突っ込んで聞かずにおい
た。どうも本人も機嫌がいいという自覚がないらしいと、アキラにも分かったので。
そう頻繁にヒカルと会えているわけではないものの、アキラにも何となくだが彼の感情を読めるようになってきていた。
ヒカルは元から感情豊かな少年だが、読ませない時は読ませない演技力も少しずつ培われてきている。中々にヒカル
の心の動きを読み取るのはアキラにとっても難しいのである。
今日ここに来たのは気晴らしの散歩のようなものだ。偶然にしろ、ヒカルと会えたのはアキラには嬉しい。何よりも一番
嬉しかったのは、ヒカルが変わらない笑顔で横に来てくれたことである。
新入段免状授与式の時は気が張っていたこともあってきつい態度になってしまっただけに、後になってからヒカルが怒
って口をきいてくれなくなったらどうしようかと、埒もないことを考えたりもした。
本当は電話をするなりして、ヒカルの反応を見たかったのだが、その電話をするのも躊躇って結局していない。自分で
も不甲斐ないと思うのだが、どうしてもできなかったのだ。電話がダメならヒカルとのプロ初対局日にちゃんと話をしようと
機会を窺ったが、これも流れてしまった。
それに、初対局のことでも、彼に直接謝りたいとも思っていた。父の入院という不可抗力ではあったものの、ヒカルとの
対局をすっぽかしたのはアキラなのだから。
この対局の相手がもしもヒカルでなければ、アキラはほんの少しも気にしなかったかもしれないが。
とにかく、ヒカルの笑顔はいつも以上に明るく可愛らしいものであったから、アキラは内心ひどく安堵していた。
そしてそれは、ヒカルも全く同様であった。
新入段免状授与式での棋士としての彼の姿を見た後だっただけに、ヒカルにとっても彼が自分に向けてくる笑みを見ら
れたのはとても嬉しかったのだ。本来なら四月四日に棋士として対峙する筈だったが、それも適わず今日偶然にしろ会
えたのも気分の上昇に拍車をかけていた。しかしそれも束の間で、彼との対局が流れた理由と次に控えた対局のことを
考えると、急に胃の辺りが重くなってくる。
そんなヒカルの思考を読んだようなタイミングで、アキラが口を開いた。
「この間の対局…行けなくてすまなかった」
「え?……あっ!」
話の内容が理解できずに間の抜けた声を上げたが、すぐにヒカルは思い当たって手を口元に当てる。
「父の容態が安定したら、すぐに行くべきだったんだろうけれど…。ボクはとても対局ができる気分じゃなかったんだ。平
常心で打つ自信が持てなくて…キミには悪かったと思っている」
「あ、いや…オレは別に気にしてねぇし。それに誰だってお父さんが倒れたりしたら、平気でなんていられないって!」
しおらしく謝ってくるアキラの様子に、慌ててヒカルは力一杯フォローした。
「……進藤も平気じゃないの?」
「当たり前だろ。平然としてられる方がヘンだって。自分にとって大切な人なら尚更じゃねぇの?」
「…そうかな…」
「うん、そうだって」
ヒカルが屈託なく笑って頷いてみせると、アキラは初めて肩の荷が下りたようににっこりと笑顔を浮かべる。先ほどもア
キラは微笑みを向けてくれたが、やはりどことなく力のないものだった。
今日来てから、始めてヒカルはアキラの笑顔を見たような気がした。
ヒカルは嬉しくなって、アキラの傍に更にくっつく。自分でも不思議だが、アキラの体温はヒカルを安心させてくれる。
だがそれだけに、アキラに何も言えないことも気になった。佐為が行洋とネット碁を打つのは、誰に対しても話せるもの
ではない。だが、アキラに対して隠しているのが心苦しいようにも思えたのだ。
(いつかは……話せたらいいな)
佐為のことも、アキラに話せるようになれる日が来ればいいのに。
そうすれば、佐為をもっと喜ばせてやれる。ヒカルもアキラに佐為の存在を認めて貰えると嬉しい。
三人で変わりばんこで碁を打てたらどんなに楽しいだろう。
ヒカルだけが佐為の存在を知っている。それは小さな秘密を抱えるちょっとした優越感であると同時に、彼の存在を碁
でのみでしか他に知らせられない寂しさもあった。佐為の強さだけが、その存在の証なのだから。
最強棋士であるが故に、佐為が孤独であるのと同じように。
まだ話せないが、いつかは話したい。でもその前に、まずヒカルがアキラに己という存在を見せなければならない。
ヒカルはアキラの対面に座り、自らを示したかった。佐為ではないヒカル自身の存在を。
「次はその……ちゃんと対局できるといいな」
「うん、そうだね」
小し躊躇いながらヒカルが言うと、アキラはにこりと微笑んで頷く。その眼は、確かにヒカルをしっかりと見つめていた。
佐為はそんな二人の様子を見守りながら、微笑ましく感じつつも一抹の寂しさと小さな刺のような不安を感じる。
ヒカルが佐為の元から巣立とうとしている気配を察すると、常に感じる不安。
その不安が何かしらの予感を告げる。ヒカルと共に居たいと願う佐為の心に、まるで急かすように波を立たせるのだ。
あと少し、ほんの少しでいい、ヒカルと一緒に居たい、別れたくない――佐為の祈りのような願いは、容赦なく宿命の流
れの中に押し流される。彼の愛し子の慟哭と共に。
今日はいよいよ行洋との対局である。
アキラの話をする時はごく普通の父親の顔になった行洋だが、いざ対局の話になると棋士としての厳しい顔つきにな
った。やはり親子なのだろう。碁のことになると恐ろしく真剣になるところはやはり共通している。それと同様に遠慮のな
い鋭い口調で「負けたら引退する」とまで言い出された時には、どうしようかと大いに焦ったものだ。
パソコンの前に座り、時計を見ると対局まで後5分ほどにまで迫っている。
佐為に勝って欲しいとは思うが、行洋が本気で引退を考えている可能性も否めない。実際、行洋ならば本気かもしれ
ないと思えてしまうだけに、余計に困りものだ。
(あーもうっ!プライドたっけぇなぁ!親も子も!)
ヒカルは何とも渋い顔になって、心の内で愚痴っぽく零した。
まだ行洋が来ていないことを確認して小さく息を吐き、画面から眼を離す。ちらりと見上げた佐為は普段と殆ど変わら
ないが、ヒカルはひどく緊張していた。昨日はあかりが来てくれたお陰で少しは解れたものの、対局時間が近づくにつれ
てヒカルは不安で胸が押し潰されそうになる。
アキラと会って話しができて高揚していた気分も、既にすっかり萎んでいた。
高鳴る胸の鼓動を自分自身の耳に伝わってくるのを感じながら、ヒカルは再び画面に瞳を移す。
「き、来たっ!」
待ち人の名前が表示され、先番は行洋に決まった。
第一手目が放たれると同時に、凄まじい気迫がネットを通していてもヒカルにピリピリと伝わってくる。
これから始まるのだ、世紀の対局が。塔矢行洋と藤原佐為との一局が。
ヒカルはそれを最も近い立場で見ることができる。神がヒカルの為に用意した大舞台を、余すところなく完全に。
この一局は、アキラや当事者である佐為と行洋にとっても、碁に携わる全ての人々にとっても必要な一局であった。
神の一手を求める全ての者にとって。
後にこの一局は多くの人々に語り継がれる、伝説の名対局となる。
そして、ヒカルにとってもアキラにとっても、決して忘れえぬ一局として心に刻み込まれることとなったのである。