若葉の迷宮W若葉の迷宮W若葉の迷宮W若葉の迷宮W若葉の迷宮W   若葉の迷Y若葉の迷Y若葉の迷Y若葉の迷Y若葉の迷Y
 基盤が出来、少年が自らの足で立ち始めた頃になって、初めて棋聖は微かな不安を覚え始めた。 
 少年は少しずつだが、自分自身の力で輝き始め、自らの手で色を添えるようになっていた。
 
 棋聖の手を離れる予兆が見え隠れし、巣立ちの時が近付いていた。けれど、彼らにとっては、それは予想外に早かったのだ。
 
 余りにも唐突で早すぎて、役目を終える間際まで、棋聖は全てを受け入れきれずにいた。
 
 どうしても、どうしても、棋聖は少年と離れがたかった。どんな存在よりも大切で、愛を注いだ相手であるが故に。
 
 ずっと傍には居られない、今思えばそれは最初から分かっていたことでもあったのだ。昇華の時を迎えることは、即ち別れをも意味
 
しているのだと。この別れによって少年を苦しませたくない。悲しみ涙する顔を見るのは、棋聖にとって何よりも辛いことである。
 
 自らの手で奈落の底に叩き落すことになっても、慟哭し懊悩し、嘆くと分かっていても、運命に抗うことはできない。何故なら、それす
 
らも少年の成長には必要不可欠なものなのだから。
 
 少年はいつかは一人立ちしなければならない。いつまでも自分の庇護の下でぬくぬくとしているわけにはいかない。
 
 己れの力で大地に立ち、大空を羽ばたかなくてはならないのだ。
 
 その為にも、棋聖は少年の傍にいつまでも居るわけにはいかなかった。
 
 自分は少年の為に存在した。少年の為に千年の時を長らえた。自分の全てが少年の糧となるように。
 
 棋聖の役目は、少年を育て護り、大切に育んで未来への後押しをすること。
 
 少年との思い出、愛しい日々、そして未来。これほどの大役を携わったことを、誇りに思う。
 
 彼の中には確かに棋聖の残した情熱がある。少年はそれを受け継ぎ、未来へと繋ぐだろう。
 
 姿は見えなくても、声は聞こえなくても、この世に存在していなくても、自分の想いは彼に伝わる。十九路の盤面を、碁盤を通して。
 
 きっと少年はそれに気付く。いや、気付くに違いない。
 
 だからこそ、棋聖は微笑んだ。最期の瞬間に微笑を浮かべたのである。
 

「どう!?佐為」
 
 誇らしげな笑顔と共にかけられた声を聞きながら、佐為は束の間呆然とする。
 
 ヒカルの示した一手。佐為ですら気付くことができなかった、白が負けを喫する一筋の道筋。
 
――ヒカル
 
 佐為はヒカルを凝視したまま知らず口を動かした。まさに天啓のごとく、自分の中に一つの答えが舞い降りる。
 
 神の描いたシナリオを、この時初めて佐為は完全に理解した。
 
――今、わかった。神はこの一局をヒカルに見せるため、私に千年の時を長らえさせたのだ
 
 言葉をなくして立ち尽くしたまま、佐為はただヒカルをくいいるように見つめ続けた。まるで心に焼き付けようとするように。
 
 その後自分が何を喋り、ヒカルと共に部屋に戻ったのか佐為は覚えていなかった。余りにも衝撃的な事実に、心がついていこうと
 
しない。いや、正確には何となくだが気がつきつつあったのだ。ただ、それを認めたくなくて眼を逸らしていただけ。
 
 ヒカルとの別れが辛くて、気付きたくなかった。気付いてしまいたくなかったのだ。
 
 だが、どんなに悲しくても、辛くても、時の砂は佐為の中で着実に滑り落ちていく。
 
 未来あるヒカルへの嫉妬、嫉み、妬み、羨望、そして別れの悲しみは、苛立ちとなって佐為の心をやいた。
 
――もっと碁を打ちたい!永遠の時間が欲しい!
 
 自分にまだ勝てないヒカルを、神が選んだ。だが佐為には分かっていた、ヒカルが自分を越えることも。
 
 そう、『まだ』勝てないだけ。いつかは必ず勝つだろう。けれどそのいつかは来ない。佐為はその時までヒカルの傍には居られない。
 
 ヒカルが神の一手を目指すことは喜ばしい、だが同時に何故自分ではないのかと、理不尽な想いにもかられた。
 
 それだけでなく心の片隅では、自らの手で大切に育てた愛し子を手放さねばならない苦しみもあった。佐為にとってはもはやこれ
 
は手放すというよりも奪われると同義と思えるほど、情け容赦のない行為に感じていたのである。
 
 ヒカルに消えることを咄嗟に口走ってしまった時、ヒカルの無理解を、悲しみの中に憎しみすらも覚えた。蔵で碁盤を見た時に、ど
 
うしようもなく抗えない、逃れられない運命なのだと悟ったから。
 
 これまで抱いていた一縷の望みを断ち切られたからこそ、最期の時まで少しでもヒカルと共に打っていたかったのだ。
 
 けれど、普段通りに何の疑問も不安も感じていないヒカルを見るにつけ、この少年にとっては自分が傍に居ることがそれほどまで
 
に当り前になっているのだと、感じずにはいられなかった。ヒカルにとっては、佐為が傍に居るのは当然のことで、消えることなど些
 
かも考え及ぶところではないのだと。
 
 ヒカルの日常の中に佐為はそれほどまでに溶け込んでいたのだ。決して普通とはいえない筈の非日常が、ヒカルには当り前の日常
 
になるほどに。その自然な思いが分かっているからこそ、別れたくなかった。傍でずっと見守りたかった。
 
 口では生意気を言って傍若無人に振る舞っても、ヒカルの心根は優しく素直で純粋である。
 
 自分を喪うことによって、ヒカルがどれほど苦しみ悲しむのか予想ができないほど、佐為は愚かではなかった。
 
 抗うことのできない運命の別れは、すぐそこにまで迫っている。
 
――ごめんね、ヒカル。もうじき私はいく
 

 眠そうに欠伸をしながら、ヒカルが一手を放つ。こうして普段通りに過ごしながら、佐為は思い出を振り返っていた。初めての出会
 
いからでは、ヒカルが碁を覚えてこんな風に打ち合えるようになるとは想像もできないことだった。
 
 今想うと、ヒカルは面倒だと口にしながらも、最後には佐為の言葉を聞き入れて、いつも碁石を手にしていた。
 
 扇子で自分の手を指し示すと、ヒカルはそこに碁石を打つ。
 
『佐為!今日の対局どうだった?』
 
 それはヒカルの口癖のようなものだった。対局をするとその検討で必ず佐為に尋ねる言葉。
 
 子供が親に褒めてもらおうとするように、どことなく甘えを含んだ口調で訊いてくる。弟子が師匠の見解を聞こうとする台詞ではな
 
いけれど、佐為にはヒカルから尋ねらる度に彼の成長を感じて微笑んだものだ。
 
 佐為の一手に応えて、ヒカルが次の手を盤面に置く。良い一手だった。これだけでもヒカルの成長を感じられる。
 
『なぁなぁ佐為。オレ、少しは強くなった?』
 
 常に上手の自分と打っているからか、ヒカルは時折少し不安そうに尋ねていた。
 
 ヒカルの成長は恐ろしく早かった。一局、もしくは一手を打つ度に凄まじい速さで佐為の碁を吸収していく。余りにも早い成長は、
 
ヒカル自身にも理解できないものだったのだろう。自分が強くなっているのかどうか、ヒカルにはよく分からないようだった。
 
 佐為と打っていたからこそ、ヒカルは自分の持つ力に気づくことができずにいる。
 
 いずれ、周囲がどれほどヒカルを誉めそやしても、ヒカルは自身の力に驕ることはないかもしれない。
 
 自信を持てる力を身につけても、驕ることはできない。佐為の力を知り、その力を受け継いだからこそ。
 
『この野郎!手加減なしに打ちやがって!塔矢には指導碁とか言って優しく打ったくせに〜!』
 
 初めて碁盤がこの部屋に来た時、ヒカルが喚いていた時の姿を思い出して知らず笑みを浮かべた。
 
 手加減をしたらしたで怒りだす、我儘なヒカル。けれどそれもまた佐為には可愛くて堪らなかった。
 
 神が望んだ通りにヒカルはいつまでも純粋で無垢なままでいる。
 
 だが佐為には分かっている。天衣無縫であるが故に、ヒカルが恐ろしい力を持つ棋士になることが。
 
 その為には対局者として、同等の力を持つ棋士が必要だ。ヒカルにとって欠かせないもう一つの存在――塔矢アキラ。
 
 神がヒカルを育てる為に自分を導いたように、塔矢アキラもまたヒカルの成長の為に用意された少年なのだ。
 
 佐為と役割は違えど、彼の存在は今後のヒカルに大きな影響を及ぼすに違いない。神が用意した至上の相手なのだから、ヒカル
 
にもアキラにもマイナスになることなど有り得ないが。
 
 アキラとの研磨によってヒカルの輝きが増し、二人が力を高めていく様を直接見ることができないのが、少しばかり残念だった。
 
 佐為が扇子で盤面を差した手にヒカルは石を置いて、再び大きな欠伸をする。
 
『おまえならどう打つかな?って考えて打つんだ』
 
 返すヒカルの一手に、自分を感じた。今ではきっとそんな事をわざわざ考えて打っていないのは分かっている。考えずとも、その
 
手を繰り出せるほどヒカルは佐為の力を受け継いでいるのだから。
 
 ヒカルの碁の中に佐為の気配は自然と溶け込んでいる。それを感じるのは佐為自身だからだろうか?
 
 昔は碁の基礎も知らない子供だった。だが気付くと、ヒカルはもう自分の力で打つようになっていた。
 
 佐為が扇子で一手を示す。それにヒカルは応えて打つ。
 
 これからのヒカルの成長を示すように一手から瑞々しい力が伝わってくる。
 
 この先の未来を髣髴させる、ヒカルの持つ名の通り輝くような一手だった。
 
『オレは神様になるんだよ。この碁盤の上で』
 
 素直な明るい笑顔で話すヒカルの姿を思い出し、佐為は美しい面に優しい微笑を浮かべた。ヒカルのことを思うだけで、佐為は幸
 
せで、何よりもこの一瞬一瞬が大切に感じられる。初めての出会いから、ヒカルは随分と大きくなった。ころころとした子供っぽい体
 
型だったのに、ほんの三年ほどで随分と変わったように思える。
 
 最初はここまで大切に感じられるようになるとは予想すらできなかった。
 
 けれどヒカルと過ごし成長を見守るうちに、心に愛しさは融けることのない雪のように降り積もっていった。
 
 時には子供のように喧嘩をし、一緒に打ち、友人のように話し、家族のように相談にのり、師として叱り、また我儘を言い合っては
 
お互いを困らせたりした。いつもいつも一緒だった。非日常が日常になるほどに、自然に過ごしていた。
 
 珠玉の宝石が自ら輝きを増していく様を、最も傍で佐為は愛で、見守り続けたように。
 
 ヒカルと出会えた幸福、喜びは何ものにも変えれらない。ヒカルの成長を間近で見守り、一喜一憂しながら見詰めた日々――。
 
 信じられないほどに早く感じられた、楽しく愛しい月日だった。この千年の歳月の中で最も輝いた毎日だった。
 
――虎次郎が私のために存在したというならば、私はヒカルの為に存在した
 
 すんなりと受け入れられた答えは、これまでの苦しみも悲しみも全てを浄化していく。
 
 この答えによって、千年の時の流れが必然だったのだと、佐為は改めて受け入れた。
 
 長い長い歳月が流れていく中で、人々の想いはそうして積み重なっていく。
 
 これからもヒカルの碁の中で佐為は生き続ける。だから決して、悲しみの中で全てを捨てないで欲しい。
 
 誰よりも大切だから、何よりも愛しいから。佐為はヒカルと出会う為に千年の時を長らえたのだから。
 
 ヒカルと出会えたことが、佐為の幸せであり昇華の為でもあった。入水という罪を流す、浄化の為でもあった。
 
――神の一手に続く長い道程。私の役目は終わった
 
 どんな存在よりも可愛く、愛しいヒカル。佐為にとってヒカルは鮮やかな光そのもの。
 
 今も、そしてこれからも煌き続ける。その「ヒカル」という名の通りに、明るく光り輝く未来へと少年は進むだろう――。
 
 眠そうに半分船を漕ぎかかっているヒカルを、佐為は全ての想いを込めて見詰める。
 
 この世で最も藤原佐為が純粋な愛情を注いだ進藤ヒカルという少年を。
 
 家族愛、友愛、師弟愛、全ての愛情を凝縮して見詰め見守り続けた少年を。最期の瞬間まで。
 
――ヒカル、ねぇヒカル。私の声とどいてる?ヒカル、楽しか―――

 さわさわと風がカーテンを揺らしている。
 
「おい、おまえの番だぞ」
 
 ヒカルは大きな欠伸を一つして、目の前に居るであろう麗人に普段と変わらずに声をかけた。既に彼の人が役目を終えて昇華
 
の時を迎えたと知らずに。
 
「おまえの番だってば」
 
 眠そうに低く唸りながら盤面を見詰めて再度促す。返事はなかった。ただ風の音だけが聞こえるだけ。普段とは違ってヒカル
 
に次の一手を示す声もなく、扇子の動きもない。
 
「佐為!」
 
 ヒカルは焦れたように佐為を呼んで顔を上げる。
 
 いつもと変わらずに、そこには平安時代の衣装を纏った美しい人が座っている筈だった。口では文句を言いながらも、ヒカルに
 
とって大切な麗人がそこに居る筈だった。
 
 だが、ヒカルの対面には誰も座ってはいない。影も形もなく、気配すらも感じることができなかった。明るい日差しの中で、奇妙
 
なほどに、ヒカルの眼の前には空虚な空間が広がっている。
 
 それとは裏腹に、カーテンが揺れながら優しく暖かな空気を送り込んでヒカルの頬を慰撫していた。
 
 ゆっくりと左右を見回し、窓に瞳を向ける。五月の風に、鯉幟が元気よく泳いでいる。
 
「佐為?」
 
 晴れわたった空は清々しく爽やかで、太陽の光に世界は満ち溢れていた。