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 古い紙の束が置かれた部屋で、少年は事実と向き合わなければならなかった。今まで無意識のうちに、無理やり打ち消してきた 
答えに。彼の愛してやまない大切な棋聖が、昇華の時を迎え神の元へと旅立ってしまったことを。もう一緒には居られないことを。
 
 少年にとっては唐突過ぎて受け入れられない事実は、それでもそこにある確かな現実でもあった。
 
 有りもしない希望に縋り、藁をも掴む思いで探し続けた代償は、あまりにも残酷だった。
 
「佐為に打たせてやればよかったんだ。はじめっから……」
 
 胸に鋭い痛みが走る。
 
「誰だってそう言う。オレなんかが打つより、佐為に打たせた方がよかった!全部!全部!!全部!!!」
 
 後悔という名の刃が、少年の胸に突き刺さった。何度も、何度も、何度も。
 
「オレなんかいらねぇ!もう打ちたいって言わねぇよ!だから――」
 
 少年は虚空を見据えた。何もないそこに、誰かが居ると思っているように。
 
「神さま!お願いだ!はじめにもどして!アイツと会った一番はじめに時間をもどして!!」
 
 まるで時が止まったようだった。古い紙から垂れ下がる札は風に揺れることもなく、ただそこにあるだけで、何の変化もない。
 
 そう、何の変化の訪れもなかった。神が、少年の心からの願いを聞き届ける気はないと、はっきりと意思表示するように。
 
 その答えは、少年には何よりも辛く、冷酷な回答であった。
 
 涙を湛えたまま虚空を見据えていた少年の瞳から、大粒の涙が頬を伝う。いく筋も、いく筋も……慟哭と共に。
 
 これまでに味わったことのない慙愧の念に、胸を焦がされながら。
 
 少年にとって、棋聖が自分の傍から離れて消えてしまうなど、想像もできないことだ。彼はいつまでも棋聖と共に居られると、信じ
 
て疑っていなかった。それこそ一生、ずっと一緒だと。いつか棋聖が自分の傍から離れて、神の元へ行くなど考えもしていなかった
 
のである。自分を大切に慈しみ育ててくれた天才棋士を神に返す日が来ると、そんな日が来ると想像することすらなかった。
 
 棋聖は愛し子を育てるために、神の計らいで傍に降り立ち、そして役目を終えて昇華の時を迎えた。
 
 別れが余りにも突然で、少年には理解できなかった。いや、認めたくなかった、納得できなかった。だからこそ探した。
 
 少年は思いつく限りの場所を回り、もうどこにも居ない棋聖を探して、探して、探して……。けれど棋聖は見つからない。
 
 最後にいきついたのは、残酷な答えと向き合う為の場だった。そして少年は認めざるを得なくなってしまった。いつも最も身近に居
 
た棋聖が居なくなったことを。棋聖が手の届かない遥かな高みへと、神の元へと還っていったのだと。慟哭と懊悩、後悔と共に。
 

 ヒカルはぼんやりと窓の外を見上げた。美しく晴れ渡った空は、どんよりと曇って涙のように雨を流すヒカルの心とは裏腹に明るく
 
輝いている。雲がふわふわと優雅に空を泳いでいく。ヒカルの頭上を、国語教師の言葉が意味もなくただ通り過ぎる。授業に出てい
 
ても少しも耳に入らない。教科書すら開けていなかった。
 
 今日は手合があるが、行く気はない。今後も出るつもりはなかった。まるで囲碁への情熱と愛情が、佐為と一緒に根こそぎ行って
 
しまったようにすら思えるほど心は空虚だった。だがそう感じるのは佐為を失った衝撃故で、ヒカルは囲碁への愛も情熱も忘れては
 
いない。無くしてもいない。ただ無理にでもそう思い込まないと、打ってしまいそうになるからだ――囲碁を。
 
 因島を巡り、東京に帰ったあの日、棋院の資料室での悲しみが不意に押し寄せた。佐為が居ないという、現実に胸が痛む。
 
 佐為といつまでも一緒だと思っていたのに――どうして?どうして今更自分の傍から彼を奪うのだろう。
 
 神様、オレに佐為を返してよ。ヒカルは青い空に向かって呼びかけた。当り前だが、神にその呼びかけは通じない。
 
 やはり、ヒカルが打ったから佐為は消えてしまったのだろうか。ヒカルが自分が打ちたいと望んだから、佐為はいってしまった。
 
 佐為に打たせてやればよかったのだ。そうすれば佐為は戻ってきてくれるかもしれない。アキラも、塔矢行洋も、緒方も、誰もが
 
ヒカルの大好きな佐為を望んでいた。ヒカルのかけがえのない、愛すべき棋聖を。けれどヒカルが打つと、佐為は帰ってこないか
 
もしれない。ヒカルは自分が打つことで佐為が居なくなってしまったと、思っていたから。今度は大空に向かって呼びかける。
 
(佐為、もどって来い。オレはもう打たないから、全部おまえに打たせてやるから)
 
 呼びかけても、答えてくれる者はいない。それでもヒカルは佐為を呼んだ。
 
(もどって来い、佐為)
 

 対局室の前で、アキラはヒカルを待っていた。会って何かを話そうと思ったわけではないが、ただ彼の顔を見たかった。棋士とし
 
てのヒカルと、会いたいと望んでいたから。
 
 普通の少年らしいヒカルと会うことは何度もしているが、アキラは棋士としてのヒカルと会ったことは一度もない。第三者からみれ
 
ばおかしな認識ではあったものの、アキラはそう思っていた。しかし、それはある意味正しい感覚といえた。碁会所で二度打ち、囲碁
 
部の三将戦で打ったといっても、最初の二回は佐為がヒカルに指示を出して打ち、三将戦の時でも佐為が最初は打っていたからだ。
 
 一度も棋士としてのヒカルと相対したことがない、というアキラの勘はまさしく正鵠を射ている。だからこそ、アキラはそこでヒカルを
 
待っていた。一人の棋士として。臥竜が目覚めるきっかけを与えてくれるであろう、対等者である神の子の訪れを。眠れる虎を自らが
 
揺り起こすために。――それなのに、ヒカルは対局に来ていない。
 
(今日こそキミの対局を見られると思ったのに。まさか………来ないのか?)
 
 対局相手の前に座っても、ヒカルのことが気になって仕方がなかった。いつものように集中できない。
 
 ヒカルの友人らしい人物も、ヒカルが来ていないことを気にしている。恐らく彼も事情は知らないのだろう。
 
(体調を崩したのだろうか…)
 
 ふと、心配が胸に過ぎった。だがそれならば、前もって棋院に連絡を入れている筈だ。例えヒカルがしなかったとしても、親がする
 
だろう。では一体何故、ヒカルはここにやって来ない?
 
 もうすぐ対局が始まる。集中せねばならない。アキラはヒカルの座るべき場所から、視線を引き剥がして盤面を見下ろした。
 
 ゆっくりと普段の自分に戻り、意識が碁に向かい始める。対局開始のブザーが響く。アキラはヒカルの不在を頭の隅で感じ取りな
 
がら、今日の対局相手に向かって竜の牙を剥いた。当然ながら、その日の対局にアキラは快勝したものの、ヒカルは姿を現さない。
 
 眉を僅かに顰めながら対局場を後にして、帰りに何気なく棋院の事務局に事情を訪ねても、誰も連絡は受けていないという。
 
 言い方は悪いが、ヒカルは対局をサボったことになる。この間の対局には来ていて、囲碁イベントにも元気に出席していたのなら、
 
何故ヒカルは急に来なくなったのだろう?一体どんな理由があって、サボったのか。アキラの中で微かな不満が募り始めていた。
 
 それから数日後の若獅子戦にもヒカルは来ず、とうとうアキラの苛立ちは頂点に達した。
 
(進藤っ!)
 
 自身の怒りと苛立ちをぶつけるように、壁に拳を打ち据える。どんな事情があるにしろ、もう我慢する気などなくなっていた。
 
 アキラ自身でも呆れるほど、ヒカルに対しては恐ろしく忍耐力がなくなる時がある。今のアキラはまさにそうだった。
 
 自分でも気づいていなかったが、アキラの忍耐が極端に擦り減る時は、ヒカルと碁が関わる時である。気になって、気になって仕
 
方がない『進藤ヒカルの碁』のことになると、アキラは理性よりも感情や本能の赴くままに行動する傾向にあった。
 
 今回もまた、アキラは自身の信念と感情、そして本能に従って行動を起こしている。
 
 ヒカルの元に赴いて、直接事情を聴くしかない、アキラはそう決意していた。
 

 社会の教師は言っていた。『いたかどうか分からない』と。
 
(いたよ、佐為は!)
 
 そう、佐為は確かに居た。ヒカルの眼の前に、斜め後ろに、いつもいつも一緒に居た。時には喧嘩をしては仲直りし、ワガママを言
 
い合ったりしながらも、碁を打っていつも笑いあって共にいたのに。何故、佐為はいなくなってしまったのだろう。
 
 あかりが話しかけてきても、何も興味がわかなかった。碁のことになると、尚更聞くのはどうでもよくなった。
 
 ヒカルはもう打たないから。アキラとも、親しかった友人や碁会所の人々とも、他の棋士とも、あかりとも……誰とも。
 
 アキラの視線を自分に向けたかった。彼の真剣な眼差しが欲しかった。佐為ではなく、自分を見詰めて欲しかった。けれどそれは
 
もう叶わない望みだった。いや、そんな事は最初から無理だったのだ。ヒカルに佐為は越えられない。
 
 あの天才棋士の才能を、ヒカルは越えられない。
 
 このまま家に帰るのもひどく億劫で、どこかで時間を潰そうと、ヒカルは図書室に足を向けた。
 
 そして丁度その頃、アキラは葉瀬中に向かって来ているところだった。詰襟の学生服の少年達の間を、アキラは平然と逆走して門
 
を潜る。周囲の少年や少女が海王中の制服を着た生徒が中に堂々と入ってきているのに奇異の視線を向けてきていたが、アキラは
 
一切気にしていなかった。元より、他人の視線を気にする余裕もなければ、子供の頃から常に注目される側であったので一々敏感に
 
反応したりしない。不躾な目線を無意識にカットするのは、アキラには当り前のことだった。アキラが気づくとすれば、それはヒカル
 
から眼を向けられた時だけだ。
 
 囲碁部の部室に行ったのは、ヒカルがそこに居るかもしれないという考えよりも、単なる偶然である。ヒカルの姿を求めて無意識の
 
うちに、最初に葉瀬中に来た時に辿ったルートをそのまま踏襲したに過ぎない。それでも、ヒカルの幼馴染の少女とクラスメートから
 
居場所を聞き出せたのだから、アキラにとっては十分な成果だ。
 
 図書室に入ると、すぐにヒカルの姿が眼に入る。元々が目立つ髪形をしていることもあるが、アキラはとにかくヒカルを見つけるのが
 
得意だった。それに多くの学生達が勉強や調べものに打ち込む中で、勉強をするでもなく机に突っ伏すヒカルの姿は妙に異質で浮
 
いている。アキラは僅かな躊躇いもなくヒカルの隣に腰を下ろし、静かに声をかけた。
 
「進藤」
 
 ヒカルは隣に人が座ったことも、そして座ったのがアキラだということも気づいていなかったらしい。ひどく驚いて素っ頓狂な声を上
 
げ、周囲から迷惑そうな目線を向けられている。だがアキラはヒカルの驚きよりも、尋ねたいことが先に口からついて出ていた。
 
「なぜ若獅子戦に来なかった」
 
 その瞬間、ヒカルの顔が僅かに強張ったのを、アキラは見逃さない。更に畳みかけるように尋ねる。
 
「なぜ手合いも休んだ?なにか理由が?」
 
 ヒカルは顔を強張らせたまま、視線を合わせようともせずに言った。アキラには理解できない言葉を。
 
「………オレなんかじゃダメなんだよ」
 
「?オレじゃダメ?どういうことだ?」
 
「オレなんかが打ってもしょうがないってことさ!」
 
 怒ったように繰り返し言うヒカルの台詞の意味を理解しきれない。ヒカルが打ってもしょうがないとは、どういう意味なのだろう?
 
 恐らく、才能がないから打っても仕方がないと、ヒカルは言いたいのかもしれない。
 
 アキラはヒカルの少ない語彙からそう解釈して、微かに眉を顰めた。アキラは既にヒカルの実力の片鱗を知っている。
 
 越智とのプロ最終戦や、韓国の研究生との一局などで、確かにほんの片鱗ではあるが、ヒカルに実力がない筈がない。むしろヒカ
 
ルは輝くダイヤモンドの原石のような存在だ。或いは、不朽の名作と呼ばれる絵画のデッサンともいえるかもしれない。まだ注目を浴
 
びるほど目覚しくはないが、確固たる実力をその身に持っている。見るものが見れば分かる。
 
 アキラは既にそれを感じ取っていた。ヒカルに実力がないなど有り得ない。ヒカルは目覚めを待つ眠れる虎であり、これから輝いて
 
いく宝石だ。華ならば開花をしていくところだろう。その才能の片鱗を見ただけで、ヒカルの言葉を完全に否定できる自信があった。
 
「ボクはそう思わない」
 
「塔矢―――」
 
 ヒカルはあからさまに驚いているようだったが、アキラには当然である。ヒカルは天才と呼ばれるだけの資質を持っている。まだ実際
 
に打っていないから『持っている筈だ』と思わねばならないけれど、アキラにとってはそれは既に確信になっていた。
 
 そうでなければ、才能がないと言うヒカルにきっぱりと『そう思わない』とは言い切れない。
 
 しかしヒカルの解釈は違っていた。既にヒカル自身の才能を認めているアキラを、ヒカルは佐為を見ていると勘違いしていたからだ。
 
 けれどそれがヒカルにとっては、当り前の考えだった。佐為の才能を知り、その実力を常に間近で感じていたヒカルだからこそ、ア
 
キラの本心を理解することができなかった。ヒカルからみた佐為は、まさしく天才棋士であったのだから。
 
 この時のヒカルにはアキラの気持ちも思いも理解できなかったし、する気もなかった。自分は二度と打たないと思うだけで。
 
 ヒカルの代わりに打つのは佐為だ。今度こそ、ヒカルは佐為に思う存分打たせてやりたい。その考えをヒカルはそのまま口にする。
 
「オレはもう打たない」
 
 途端にアキラの顔色が変わった。
 
「打たないだとっ!!ふざけるなっ!」
 
 瞳に剣のような鋭い輝きが宿り、厳しい目線でヒカルを睨みつけてくる顔は、まるで鬼神のような迫力がある。しかしヒカルはアキラ
 
の怒りよりも、佐為とアキラを打たせてやれなかった罪悪感で胸が押し潰されそうな苦しさを感じていた。アキラが待っているのは佐
 
為なのに、自分ではないのに、既に佐為は居ない。ヒカルのせいで彼は消えてしまった。
 
「ごめん」
 
 アキラに対して申し訳なくてヒカルは唐突に謝ると、そのまま逃げ出すように図書室から飛び出した。アキラが慌てて追いかけてき
 
ているのは分かっていたが、振り返りたくなかった。振り返って彼の顔を見るのが辛くて。望みを叶えてやれない自分が情けなくて。
 
(ごめん塔矢。佐為がいないんだ。おまえと打たせてやりたいけど、いないんだ佐為が)
 
 アキラは佐為と打ちたがっていたのに、もう佐為と打たせてやることができない。ヒカルでは佐為の代わりになれないというのに。
 
「進藤っ」
 
 アキラの声が追いかけてきても、既に自分の思考に入っているヒカルには届かない。
 
(なぜ消えたんだ!?佐為!なぜ!?)
 
 ただ頭に浮かぶ、答えの出ない疑問符にとらわれるだけだった。堂々巡りの答えの出ない迷路の中を彷徨うかのごとく。
 
「なんのためにプロになったんだ、キミは!」
 
 走るヒカルの背中を見詰めながら、アキラは必死に言い募る。無視されていても言わずにいられなかった。
 
「ボクと戦うためじゃなかったのか!!」
 
 ヒカルの線の細い背中に向かって叫びながら、アキラは距離を詰めようと足に力を込めた。――その瞬間。
 
――塔矢…アキラ…
 
 誰かに呼ばれたような気がした。そして、視線を感じた。どこから見詰めてくる視線なのか、誰なのか、まるで分からないのに確か
 
にアキラは視線を感じた。それなのに、この視線には覚えがあった。思わず足を止めて振り返る。……誰も居ない。
 
 心臓が激しく早鐘を打っている。背中に冷汗がじんわりと浮かんだ。アキラの感じた視線、それはあの時のものだ。初めてヒカル
 
と碁会所で打った時、遥かな高みからアキラを見下ろしていたあの視線である。あの時あの場に居たのはヒカルだけのなのに、ア
 
キラは確かに何かの気配を感じていた。アレがアキラを見詰めている。あの時の慈しんで優しく見守るような眼ではなく、糾弾する
 
ような厳しい眼でアキラを見ている。ヒカルを追い詰めようとしている、アキラを責めるように。
 
 アキラは視線から逃れるようにヒカルの走り去った方向へ顔を向けたが、既にヒカルの姿は見えなくなっていた。思わず溜息を吐く。
 
 しかし冷静に考えてみると、今ヒカルを追いかけていれば、自分勝手で独りよがりなやり方で彼を追い詰め、より一層彼を傷つける
 
ことになっていたような気がした。そう思うと、あの視線はアキラを冷静さを取り戻してくれたともとれる。
 
 無意識に胸元で手を握って自分を落ち着かせてから、アキラは再び勢いよく振り返った。視線は感じるもののやはり視線の主は見
 
えない。けれど気配は穏やかになり、一陣の風がアキラの髪を靡かせると同時に、唐突に全てが消えた。
 
 茫然とアキラはその場に立ち尽くしたまま、青い空を見上げた。空気は暖かく穏やかで、雲がゆったりと流れている。
 
(アレは一体……?)
 
 この時のアキラには、それが一体何なのか想像すらもつかず、ただ脳裏に疑問符を浮かべるだけだった。