対等者は恵まれた環境の中にあっても、彼は独りであった。彼もまた、孤独であったのだ。
棋聖は最強故の孤独。孤高の存在であるが故の孤独。神に最も近くにあるが故の孤独。
対等者の孤独は、茫漠たる世界にただ独り居る孤独であった。十九路の宇宙の深遠に、彼は独りきり。
迷路のように複雑な世界は無限の広がりと可能性に満ちているのに、彼はその広大な宇宙をたった独りで構築せねばならない。
彼にとっての対等者が居ないが故の孤独。共に宇宙を創造する者が居ない孤独。対面に座る存在を持たない孤独。
碁は、二人居なければ打てない。人は、魂を添わせる相手が居なければ孤独を癒せない。
対等者にもまた双方が存在しなかった。彼はある意味では棋聖と似通った孤独を持っていたのかもしれない。
何度も期待しては裏切られ、裏切られては期待し、彼はそれを繰り返してきた。
いつしか諦めにも似た感覚で真っ直ぐに進もうとした時、突然彼の元に神の子は舞い降りた。
けれど神の子は目覚めておらず、棋聖の作った柔らかな籠の中で優しく育まれ、覚醒を待っている段階であった。
対等者もまた、いつしか探し疲れて迷宮の中で眠りについていた。彼は起こしに来る存在をひたすら待っていたのだ。
互いの覚醒の為の布石は用意されている。様々な偶然と必然を織り合わせ、二人は目覚める。
空回りしていた宿命の歯車がかみ合わさる瞬間は、刻一刻と近付いている。
ゆっくりと急な石段を上る。上を見上げると、鬱蒼とした林の中に朱色の剥げた鳥居が見える。
去年の八月の夏祭り、ヒカルと一緒に来た神社にアキラは向かっていた。あの時は神社の裏側から入ったが、今日は遠回りにな
っても、正面から入る道を選んで来た。歩きながらでもいいから、自分の思考を纏める時間が欲しいと思ったのである。
とにかく一人になりたかった。家で自室に籠もって考えていても、近くに人の気配があるだけで心が落ち着かない。
誰も居ない場所で、じっくりと自分自身と向き合い、考えたかった。
ヒカルが手合に出てこない。何故打たないのか?それが知りたいと思っても、苦しんでいるのなら助けになりたいと考えても、アキ
ラにはどうすることもできずにいた。
この間も、ヒカルに会いに行ったものの、結局は余計に混乱をさせてしまっただけのようだった。アキラも分かっているのだ。ヒカル
は今とてつもない壁を前にしている。或いは奈落の深遠に堕ちている。どちらにしろ、これは本人の意志と覚悟次第だ。ヒカル自身が
越えねばならない問題なのだ。壁を扉に変えて先に進むかどうかは、ヒカル次第。
アキラがどうこうしようとしても無理なのである。そう分かっていても、どうにかしたくて、いてもたっていられなかった。
苦しんでいるヒカルを前にして、追い詰めるような行動しかできない、何の役にも立たないこんな自分であっても何かできるのでは
ないか?とどうしても希望を捨てきれずに考えてしまう。
学校で会った時、ごめんと謝ったヒカル。何に対して謝ったのか。アキラに対して?或いは別の何か?
囲碁と密接に関わるだけでなく、彼個人に関することだと分かっているだけに、アキラは余計に動きようがなくてもどかしい。
力になりたいと思う。ヒカルの苦しみに対して、全てのことで彼を手助けしたいと。
ヒカルを包み込めるように強く、もっともっと大人だったならば、彼は少しはアキラを頼ってくれただろうか?
何故自分は大人ではないのだろう。ヒカルを前にするといつも余裕がなくなって、彼を傷つけたり、追い詰めたりしてばかりいる。
本当はもっと優しく接したいと思っても、どうしても上手く立ち回れない。特に碁が関わるとダメだった。無視したり、ヒカルにきつい
言葉を投げつけたりしてしまう。碁が関わらずに一緒に過ごす時は、アキラはヒカルに自然に接することができた。可愛くて、大切で、
優しくして、尽くしていたいといつも思った。一緒に居たくて別れる時は辛くて堪らなかった。進藤ヒカルという少年に溺れて、夢中で。
何故そんな風に差が出てしまうのか、自分でも分かっている。ヒカルと棋士として向き合ったことがないからだ。常識的に考えれば
あることになるが、アキラの感覚では、ヒカルと向き合った経験は一度もない。
いつも彼は、何かのベールに隠されて見えないのだ。最初の対局も、二度目の対局も、囲碁部の三将戦でも。
最初は余りにもベールは厚く、アキラはヒカルの影すら見えず、微かな気配のようなものを感じただけ。二度目は気配が鮮明にな
ったが、影も形も有りはしなかった。対局ではないが、中学生に扮したヒカルが見せた美しい一局の方が、一度目と二度目より気配
と影を感じられた。何かの目覚めの気配と身動きする影を。
アキラがベールの内側にほんの少し踏み込めたのは囲碁部の三将戦だ。だが完全には無理だった。ヒカルの実力が低かったの
も要因の一つだが、何よりもアキラの失望が自らの眼を曇らせて見ることができなかった。
11の8という一手で一瞬だけ垣間見れただけで終わってしまった。
対局している筈なのに、アキラは一度もヒカルと完全に対局したと思えたことがない。棋士として、完全に向き合えていない。
ネットでsaiと対局した時は、また別の感覚だった。あの時アキラはヒカルを確かに見たが、それはヒカルであってヒカルではない。
そう、あれはある意味において『進藤ヒカル』ではないのだ。答えは出ないが、間違いではないとアキラは確信している。
ヒカル個人を認めて接することはできても、棋士としての彼が雲を掴むようで掴めないから、きつい態度になってしまう。威嚇してい
るようにも自分でも思えるのは、あながち外れてはいまい。
アキラは怖いのだ。棋士としての彼が、アキラの望む存在でないかも知れないと考えると。期待して失望することを、恐れている。
何度も、何度も、アキラはその失望を経験した。幼い頃から、何十回、何百回と、期待しては裏切られてきた。
いつしか期待することもなくなり、心はすっかり求めなくなっていた。空虚な世界に独りぼっちで、打ち続けていた。
心のどこかで、いつも追い求めていた対等な存在。欲しくて、欲しくて、堪らなかった、アキラの好敵手。
彼がそうかもしれないと期待したものは、アキラにとっては幻だった。幻の背後に隠れた存在に、アキラは期待しつつも、繰り返し
た失望をまたすることを恐れている。自分はまた独りぼっちになる。孤独な世界に居るままだ。自分の世界を鮮やかに塗り替えてく
れる対等者が欲しいのに、その相手に裏切られることに一番の恐怖を覚える。
だったら最初から、存在を認めなければいい。期待して失望するのはもう沢山だった。
だからアキラは棋士として、碁打としては冷たくできたし、いくらでも厳しい態度をとれた。自分を守るのが精一杯で、ヒカルに対し
ての余裕なんて少しもなかった。だがそれは反面、アキラがヒカルを棋士として意識している現われでもある。
本当は、碁打の彼を引きずり出したくて堪らないのだ。自分の眼の前に彼が立つ瞬間を待ち侘びてさえいる。
アキラは一段一段上がるごとに見えてくる境内をぼんやりと視界に捉えていた。考え事に没頭していたため、境内の少し奥まった
所にある拝殿に既に先客が居ることにも全く気付かなかった。石段を上りきり、鳥居を潜って初めて、アキラは神殿の階段に腰を下
ろしたまま微動だにしない人物の存在を認め、小さく息を呑んだ。だが、アキラも見慣れた金色と黒の髪の混じった少年の瞳は虚空
を見据えたままで、彼は何もその眼に映してはいないようだった。
アキラは無言のまま少年の傍に近付き、躊躇いがちに声をかけた。いや、声をかけるというよりも呟いたといっていい。
「……進藤…」
今日は日曜日だ。ヒカルもアキラも学校はないから、私服である。それだけに、ヒカルが少し見ない間に痩せているのが目立って
分かった。背も伸びたようだが、それよりも以前より線の細くなった身体つきが心配だった。ちゃんと食べているのだろうか。
ほんの数ヶ月の間に、どこか子供らしさを残していた体型は随分と変わって、華奢な印象さえ与えるほどだ。
アキラの声に、ヒカルはのろのろと顔を上げ、小さく笑った。その笑顔に、アキラはどこかしらヒヤリとする。
壊れた笑みだった。ヒカルの魂のどこかが、粉々に砕けてしまっている。これまで見てきた輝くような笑顔の片鱗すらなく、暗澹た
る闇の淵に沈んだ笑みは、戦慄を覚えると同時にぞっとするほどに美しい。
アキラですら思わず踵を返して帰りたくなる恐怖を感じるほどに、ヒカルの見せた笑みは綺麗で恐ろしかった。
「こんなとこまで何しに来た?散歩じゃねぇよな」
暗い笑顔の通りに皮肉げな声の調子は彼らしくないように思える。けれど、今のヒカルには妙に合っていた。まるで別人のごとく見
える眼の前にいる少年を前に、怯まぬように小さく深呼吸すると、アキラは冷静に答えながら尋ねた。
「……キミこそ…こんな所まで何しに来たんだ?」
今のヒカルは、月の結晶でできたように脆く儚いガラス細工であると同時に、手負いの獣だった。下手な扱いをすれば繊細な部分
は砕けるかもしれない。同時に、獣は身を護るために死に物狂いで攻撃してくるだろう。
アキラはこれまで見たことのないヒカルの一面に驚きながらも、慎重に言葉を選び、彼の答えを待った。
「おまえには関係ねぇよ」
ぶっきらぼうに答えながら、ヒカルは周囲をきょろきょろと見回した。佐為が以前、碁の神様がいるかもしれないと語っていた神社
だから、もしかしたらここに来ているかもしれないと唐突に思って探しに来たのだ。結局ここにも居なかったけれど。
今日は囲碁部の大会を見に行った。中学一年の時に、筒井と三谷と一緒に出たあの日のことを思い出した。そして……ヒカルは
思ってしまったのだ。打ちたいと。
思ってはいけないのに、盤面を見て、彼らの真剣な表情を見て、心から碁を打ちたいと望んでしまった。
和谷が訪ねてきた時もそうだった。彼が「16の四星」と言った瞬間、ヒカルは咄嗟に次の手を考えてしまっていた。和谷の指摘の
通りに、打ちたいと望む心のままに次の一手を考え、心の碁盤に無意識に打ち込んでいた。
ヒカルが打ったら、佐為が帰って来ないかもしれないのに、そんな風に感じてはいけないのに。
その為アキラと会った瞬間、ヒカルはつい身構えていた。またアキラがヒカルに打たない理由を訊いてくるかもしれないと。
ヒカルに打てと、求めてくるかもしれないと。
「何しに来たか知らないけど、オレはおまえとは打たないからな」
ヒカルの放った台詞に引っ掛かりを覚え、アキラは眉を僅かに潜める。これまでどことなく気圧されていたのに、心にかけられた
枷がなくなったように疑問を口にすることができた。
「………打ちたくないのではなく、打たないんだな?」
疑問であり問いかけでもあるが、断定的な口調は確かに的を射ていた。
アキラの言葉に、ヒカルの空虚な瞳に不意に力が宿って睨みつけてくる。少し見ない間に、彼の中には獰猛な虎の気配が漂うよ
うになり、その敵愾心に満ちた眼を見るだけで、尻込みする輩は多く居るだろう。いや、元々持っていたものがこれまで隠されてい
ただけで、それが段々鮮明に浮き出し始めているのだ。
そんなヒカルの態度に、やはりそうかと、鋭い瞳を受け止めながら内心アキラは得心していた。
ヒカルは碁を嫌って打たないのではない。本当は打ちたいのだ。打ちたくて、打ちたくて、堪らない心をひた隠し、縛りつけ、誤魔
化している。自分自身をそうやって縛りつけているのだ。それをヒカルが自ら解かねば、彼は自由になれない。
一方ヒカルもまた、自身が真に望んでいることを指摘されて、一気に頭に血が上った。打ちたいと本当は思っているのだと、アキ
ラに鋭く突かれたことに腹立たしさを覚えると同時に、図星を指されたことで佐為を裏切ったような後ろめたさを感じて、理不尽な怒
りがわく。それが単なる八つ当たりだと気づくよりも先に、口からは怒鳴り声が零れ出ていた。
「……おまえにオレの何がわかる!?オレのことは放っとけよ!」
唸るような声で搾り出された叫びに、アキラは傲然と言い放った。
「甘ったれるのもいい加減にしろ!」
「な……!」
反駁しかけたヒカルを遮り、一気に捲し立てる。
「キミは自分の殻に閉じこもっていたら何でも解決すると思っているのか?何も見ず、何も感じず、ただ内に籠もっていれば確かに
楽だろう。だがそれはただ逃げているだけだ!」
鋭い言葉の刃にヒカルの胸はずきりと痛みを訴え、思わず踵を返して逃げたくなった。アキラの傍から今すぐにでも離れたいと思
うのに、足は根が生えたように動いてくれない。
アキラを映した瞳を大きく見開いて息を飲んだ。聞きたくない。頼むから、その先は言わないで。聞きたくない。お願いだから。
怒りは急速に萎んでいた。アキラの事実を指摘しようとする声から耳を背けたいのに、ヒカルにはそれができない。
身体が石のように固まって、動くことができなかった。聞きたくないのに。言わないで欲しいのに。
「現実から眼を逸らすな!」
だがヒカルの祈りのような思いを一蹴するように、アキラは切り込むかのごとく鋭く告げた。彼が最も聞きたくないと願う言葉を。
辛い現実から瞳を逸らして、既に居ない佐為を受け入れようとするヒカルを糾弾するアキラの声を。
「ボクを見ろ!進藤!」
ヒカルとひた瞳を合わせて、魂の奥底に閉じ込め眠らせた自分を揺り起こそうとする、アキラの視線を。
逸らしたいのに、ヒカルはアキラの鋭い瞳から眼を逸らせられなかった。彼の視線に縫いとめられたように、瞬きすらできない。
「キミは何のためにプロになった!?何のために打っている!?神の一手を極めるんじゃないのか!?」
アキラには分かっている。ヒカルは本当は逃げてなどいない。何もかもを捨てて逃げているわけではないのだ。彼は逃げて瞳を
逸らそうと必死になりながらも、同時に向き合おうとしている。いや、向き合わざるを得ないのだ。どんなに視線を外したくても、どこ
に視線を向けても、鏡を張り巡らせた箱の中のように、彼はどうしてもそれと向き合う結果となる。
どんなに逃れたくても逃れられない。だから彼は内に籠もろうとする。眼を逸らすことが許されないから、自分の中に入ろうとする。
だが、その中こそが鏡を張り巡らせた箱であることに、ヒカルは全く気付いていない。
答えはある。自らが作り出した迷宮の中に。自分の眼の前に確かにある。しっかりと瞳を見開いて見付けなければ分からないが、
確固たる存在としてそれはあるのだ。眼を逸らしてはならない、そこに在るものから。
ヒカルは辛い今の状態から、過去へ戻りたいのだ。未来へ歩む為に壁をのり越えようとせず、安易に過去に縋ろうとしている。
現実を見ようとしていない。ありもしない幻想を必死に追いかけ、進むべき道を無理矢理戻ろうとしているのだ。
ヒカルの眼をこちらに向けなければならない。恐らく、ヒカルにとっての最大の試練が訪れているのだろう。だがどれほど辛いこと
であったとしても、彼は乗り越えて前へ進める。アキラには分かる、確信していた。
だからこそ、今ここでヒカルを繋ぎとめなければならないのだ。他の誰でもない、アキラが。