アキラに肩を掴んで激しく揺さぶられながら、ヒカルは何度も首を左右に振った。
目覚めたくない。現実を受け入れたくない。彼の消失を受け入れたくない。佐為が消えたと認めたくない!
ヒカルが居なければ、囲碁を打たなければ、佐為は戻ってくるかもしれないのに!
「進藤っ!」
アキラの必死な声をどこか遠くに聞きながら、ヒカルは唐突に理解した。
違う、佐為は戻らない。彼は消えてしまった。何処かに。それがどこか分からない。探しているのに、見つからない。
見つからない。見つからない。佐為が見つからない。何処かに居るのに、それが分かるのに、見つからない!
どうして消えた?何故消えた?ヒカルが打ったから佐為は消えた。ヒカルが佐為と出会ったから彼は消えてしまった。
そうだ……ヒカルと出会ったから、佐為は消えてしまったのだ。ヒカルが囲碁と出会い、アキラと出会い、佐為と出会ったから。
何度でも繰り返してしまう、きっとヒカルは。
宿命の歯車を止める術などどこにもない。何故なら……愛してしまうから。愛する囲碁を打ってしまうから。
囲碁を、アキラを、佐為を。出会えば必ず、愛してしまう。魂の底から求めてしまう。
何度も、何度も、やり直したいと思っても、必ず同じ大罪を犯すと分かっているから。……そう、何度でも。
彼が消えると分かっていても、きっと出会えば同じ罪を犯すと分かっているのに。愛してしまうと分かっているのに。
ヒカルは出会ってはいけなかったのだ。佐為と、アキラと、囲碁と。
苦しくて堪らなかった。どうして出会ったりしてしまったのか、そんな想いだけが渦巻く。
これほど、どうしようもないまでに好きなのに、大切なのに、愛しているのに!だからこそ出会えた幸福を喜んだのに。
出会ったからこそ彼を喪っただなんて、余りにも残酷過ぎる。それでは何の為に彼は蘇ったのか?
何故…出会ってしまったのだろう?何故出会わなければならなかったのだろう?
心からの、魂からの慟哭が理不尽にヒカルを突き動かす。気がつくと、震える声で喋っていた。
決して言ってはいけない言葉を。
「……おまえと出会わなければ良かった。囲碁と出会わなければ良かった。出会いさせしなければ、オレは囲碁をしなかったのに!」
ヒカルが佐為と出会わなければ、アキラと出会わなければ、囲碁と出会わなければ、佐為は消えたりしなかったのに。
やはり自分のせいなのだ。ヒカルがあの時、お蔵に入ったりしたから佐為と出会ってしまった。次にアキラと出会い、彼の眼差しに
引かれて囲碁に興味を持ってしまった。
ヒカルが囲碁をするようになったから、自分で打ちたいと望み、愛してしまったから。結果的には佐為は消えたのだ。全てはヒカル
の存在が引き起こした。自分さえいなければ、きっと佐為はこんなことにはならなかったのに。消えなくて済んだのに。
愛さなければ良かった、出会わなければ良かった。佐為とも、アキラとも、囲碁とも!
「――ふざけるなっ!」
声と同時に何かを叩く高い音が響き、頬に衝撃が襲った。
たたらを踏んで体勢を崩しかけた身体を、力強い腕がしっかりと支えてそのまま身体を包み込まれる。
頬に手を添えるとそこは熱を持っていて、じんじんとした痛みを伝えてきた。そこで初めて、ヒカルはアキラに頬を強く打たれたのだ
と気付き唖然とした。怒りを感じるより何より、皮肉にも、その痛みと熱さが忘れかけていた生命の暖かさを伝え、ヒカルを現実に立ち
戻らせ繋ぎとめるものになっていた。アキラの腕の温かさ、力強さが更にヒカルに生身の人間の温もりを意識させた。
よろめいたヒカルの身体を抱き締めた瞬間、アキラは不意に自分の胸に舞い降りた答えを、不思議なほどすんなりと受け入れた。
(ああ…そうか…。ボクは………)
こんなにもすぐに受け入れられる想いだったのに、自分は一体どれほど遠回りしたのだろう。強く深い想いを抱き、誰よりも何よりも
大切に想い、自分でもそれを知っていたというのに。
心はずっと前に奪われ、これからも戻ることはないと分かっているのに。
何があっても、決して薄れない気持ちが胸にあることに、今の今まで気づきながらも無視していたなんて。
どうしてもっと早く認めなかったのだろう。何もこんな時でなくてもよかった。いや、それとも今だからこそ気づくべきだったのか。
どちらにしろ、アキラは自らの想いを素直に受け入れた。受け入れてしまうと、信じられないほどこれまで波立っていた心が落ちつき
を取り戻す。嵐のように激しく渦巻いていた感情が、今は凪いだ海のように静かだった。
静か過ぎて、深い奈落の深遠に沈んでしまいそうになるほどに。
「……出会わなければ良かったと…本当にそう思う?」
先ほどまでの激情が嘘のように、アキラが震える声で静かに口を開いた。
打たれて熱い頬を掌で添えたままアキラをヒカルは茫然と見上げる。能面のように表情を無くした顔とは裏腹に、アキラの瞳は今に
も泣き出しそうに揺れていた。
ヒカルは言葉が見つからずに、ただただアキラを見詰め返すことしかできない。
頬に冷たいものが触れた。気がつくと、曇天の空から雨粒が落ちてきていた。雨は瞬く間に大粒になり、滝のようにヒカルの身体に
降り注いだ。雨粒が地面を叩き、神社の屋根に降る音が無音の世界に劇的な変化をもたらす。
細かな霧の粒子となった雨が、周囲を煙るように白く染め上げ、モノトーンの色彩を作り出した。
降り注ぐ雨を含んだ衣服はいつのまにかずっしりと重くなり、髪もシャワーを浴びたように濡れていく。鳴り響く雷鳴と稲光は、まさに
棋界の竜たるアキラを現していた。単なる自然現象ではなく、アキラの苦しい心境に自然界が応えているかのようである。
激しい雨に晒されて立つアキラの頬を、幾筋もの水が流れ、顎を伝い落ちていった。
先刻の激情とは裏腹に、穏やかさすら浮かぶ顔には、感情が一切窺えない。
だがまるで、アキラが泣いているようにヒカルには見えた。表情を変えない人形が、内面の悲しみを映したように。
「キミは…ボクとも囲碁とも出会わなければ良かったと、本気で考えているのか?」
不思議と雨の音に掻き消されずによく通る声で、何も答えないヒカルにアキラは再度尋ねる。
ヒカルは無言のままゆっくりと首を左右に振った。自分でも無意識だった。頷ける筈がなかった。何故なら、ヒカルの本心はそうでは
ないのだから。本当は……。
「ボクは棋士のキミとは一度として逢っていない」
ヒカルの行動に何を思ったのか、唐突にアキラから言い放たれた言葉に、ヒカルはビクリと身を竦ませる。ある意味、アキラは正しい
指摘を行っていたからだ。一度目の対局、二度目の対局ともに佐為が打っている。三度目の囲碁部の三将戦でも、途中まで打ってい
たのは佐為で、その続きを打ってぶち壊したのはヒカルだった。あの時も佐為は打ちたがっていたのに…ヒカルが打ってしまった。
四度目の対局は佐為とアキラの対局で、ヒカルは出る幕など全くなかった。
だから、アキラの言葉は正鵠を射ていた。ヒカルはアキラと棋士として完全に対峙したことが一度もない。
彼は誰にそれを教えられるでもなく、持ち前の勘のよさで気付いていたのだ。
「ボクも…もう逃げたりしない。キミから瞳を逸らさないから……」
言いかけた言葉を飲み込んで、アキラは小さく頭を左右に振った。動きに添って、漆黒の髪から雨粒が零れ落ちる。
心の葛藤を、その雨が全て表しているようだった。だが、次にアキラが顔を向けた時、彼の瞳には炯炯とした光が漲っていた。
「ボクはキミを待っている。……いつまでも」
「……オレは…」
「もう打たない……か?」
アキラに先を言われて、ヒカルは驚いて顔を上げる。アキラの漆黒の瞳がヒカルを見詰めていた。
何もかも、見透かすような深い色の眼が。
ヒカルの奥底から何かをひきずり出すような、強い力を持った瞳だった。何よりも求め、自分に向けたいと望んだ真剣な彼の瞳。ヒカル
の欲しいアキラの眼は確かにヒカルに向けられていた。
「キミは打つよ、必ず」
きっぱりと言い切ったアキラに何故か、ヒカルは自分は打たないと反論することができなかった。
アキラの揺るぎない強い意志を込めた瞳が、それを許してくれなかったのだ。
何も言えずにただ見詰め返すだけのヒカルを、アキラが優しく慰撫するように愛しげに、ついで苦しげに瞳を細めて見やったが、それは
瞬く間に消え去った。ヒカルに気付かれるのを恐れるように。
眼に最後に残ったのは、苛烈な激情を秘めた鋭い色合いだけである。
「……進藤。次にキミとボクが対峙する時は、棋士としてだ」
アキラはヒカルの瞳を射抜くように見つめて言い切ると、身体を離して背を向けた。
思わず彼に伸ばしかけた手は、空を掴んだだけだった。アキラはヒカルを一顧だにせず、雷雨の中を歩いていく。
呼びかける言葉も、振り返らせる術も思いつかず、何も言えずにヒカルは立ち尽くした。アキラはそのまま離れて行き、ヒカルの存在を
振り切るように鳥居を潜る。雨のベールに煙るように隠れて、アキラの背中は視界から完全に消え去った。
上げた手を力なく下ろす。ヒカルは再び独りぼっちになった。
激情を伝えるように雷は鳴り響き、涙という雨を流して天は悲しみと苦しみに慟哭し続けている。
残酷だ。残酷だ。ヒカルはなんて残酷なことを言うのだろう。
出会わなければ良かったと、アキラとも囲碁とも出会わなければ良かったと、彼が告げた瞬間、アキラは眼の前が絶望に真っ暗になり、
ついで真っ赤に染まったような気がした。手を振り上げたのは、無意識だった。
気がつけばアキラはヒカルの頬を掌で思い切り叩いていた。
衝動的に動いた自分の身体に、アキラ自身が一番驚きを感じてもいた。
今までの人生で、アキラは誰かに手を上げたことなど一度もなかったから。
だが、後悔はしていない。謝る気もアキラにはない。
あの時、ああするのが一番必要な行為だったからだ。ヒカルを現実に立ち返らせ、全てから眼を背けようとする彼の眼を戻す為に。
アキラの傍にヒカルを留める為に。
ヒカルはアキラを捨てて、囲碁を捨てて、どこかに行ってしまおうとしていた。
紛れもなく彼は遥かな彼方へと向かうつもりでいたのだ。何もない真っ白な世界へと。
この瞬間、アキラはヒカルを喪うかもしれないという予感に、とてつもない恐怖を感じた。
父の時のような生々しい『死』への恐怖ではない。もっと曖昧模糊とした言葉に出来ないような不安定で不確かな感覚だが、アキラは
『進藤ヒカル』という存在を喪失してしまう畏れを感じたのだ。
それはまさしく畏怖ともとれるものだった。根源的で根底に根下ろす喪失の予感に対する、曖昧な恐怖。
罪人が神に対する畏怖を感じるものとも似ているが、違う。罪を犯すことを畏れる恐怖ともまた違う。
だがそれは紛れもない畏れだった。アキラがこれまで感じたことがなく、また今後も二度と味わいたくないと思わずにいられない、とてつ
もない畏れだった。ヒカルを喪うことが、それほどの恐れをアキラに抱かせる。
その恐怖を振り払い、ヒカルを喪う怯えに動かない身体を叱咤して、アキラは手を振り上げた。
全ては無意識の行動ではあったが、アキラの根底で突き動かしたのは、ヒカルへの愛情にほかならなかった。
そう、アキラはヒカルを愛している。他のどんな存在よりも、彼のことが愛しい。誰よりも好きなのだ。
ヒカルの頬を打ち、ぐらついた細い身体を力強く抱き締めた瞬間、すとんと胸に降りてきた答えだった。
ずっと、ずっと好きだったのだ。いや、これからも彼のことだけが好きだろう。愛し続けるのだと自分でも分かっている。
例え振り向かれることがなくても、彼の幸福を祈りながら想い続けるに違いない。
彼に近づく存在に嫉妬し、爆発しそうな激情を押し隠したままで。
それでも自分にそれしかできないのならば、ヒカルの存在を感じることで自分は幸せであるに違いない。
諦めきれないまま、苦しみを抱えたままであったとしても、ヒカルさえ幸せでいてくれればいい。
勿論、実際は奇麗事ばかり言ってはいられないに違いない。アキラ自身、果たして未来の自分がどうなるのかは分からないのだから。
少なくとも、今のヒカルは幸せではない。しかしこの苦しみを抜ければ、きっとヒカルは今まで以上に美しく輝くだろう。
ヒカルならば、いつか必ず自らの力で窮地を乗り越えて綺麗な瞳を輝かせ、明るい笑顔を向けてくれる。
二人が目指したその先に、至上の幸福が待っているのだから。
アキラは空を見上げた。曇天の空から降り続く雨が視界を覆いつくした。
頬をつたって流れていくのが、自分の流す涙なのか空が流す涙なのか分からないほどだった。
晴れ渡った青空と太陽の光は、まだ見えない。